女優。宝物はソフトバンクの王さんとの写真。お礼の電話を翌日できなかった。
伝説の男役、トップスター。1946年生まれ。兵庫県出身。ベルサイユのばらのフェルゼン役。「風と共に去りぬ」でレッドバトラーで醸成を魅惑。
外人顔だったので、眉毛を消して上に描いて和風顔にして皆に交じりたかった。
宝塚辞めて37年。舞台中心。舞台中心。ホームドラマにでると、つい構えてしまう。背筋がぴしゃっとしていておばさん役はできない。舞台はオーバーにやるので。宝塚方式でもやっていける。
1曲目真木ひでとさん「おんなの夢」。
結婚は無理だとこの曲を聴いて泣いた。新宿のおかまさんから「抱いて欲しい」と言われたことがあったくらい、男風だった。
ずっと、おんなを抱いていたから。抱きしめられたことがなかった。
とことんざっくばらんな性格。宝塚をぜんぜん知らなかった。
面接で、「君は何もできないな」と言われ、「これからおしえてもらえるんでしょう!」と返した。
両親は中国人で上海出身。両親は日本語は片言。みんぽう語で北京語でなかった。眼の前に悲しそうな人がいると、笑わそうと思う。人を笑顔にするのが私の使命。両親と顔が違うので、貰われ子だと思っていた。だから、良心の血液型を尋ねるのが怖かった。「ハゲハゲ、ハエハエハエがとまってすってんころり」と周りの人に父が言われ、父が笑っていたので、そうだ、この歌を歌うと父が笑うんだと思って、歌ったら、父に殴られた。
友だちに誘われて一緒に受けた。友だちは落ちて、私が受かった。美貌とスタイルで入って5番目だった。
ピアノの鍵盤も知らなかったので、一回目の試験でびりになった。しかし、美貌とスタイルだけは誰にも負けなかった。
当時は目立ちすぎて悩んでいた。目立つ容姿がコンプレックスにもなった。和和風顔にしてもきれいだった。舞台でサリーと大きな声で発したら、お客様がわーと受けた。24歳の時にトップになった。
ベルサイユのばらが出るまで、北海道、九州の人は宝塚を知らなかった。宝塚はトップを“組長”と呼ばれた。皆から“組長“と呼ばれたので、ファンは「えっ、組長?」と驚いていた。
長谷川一夫先生がアントワネットになって演技を付けて貰えた。お客様の2階の何番目の人を見て、そして舞台の裾のお客様を見なさいとの演出だった。
ものすごい人気になった。ファンがコートの毛を引っ張って、バックスキンになるほどだった。骨が折れるくらい、スカーレットを抱いた。男以上の男らしさ。振られて悲しい演技で、舞台から去るとき観客を見なかったのがそれが良かったと。自慢話。私の話はすべて自慢話。
結婚で辞めた。それからは静かにしている。
子ども二人を産んでから離婚。
宝塚はありがたく、ファンが子どもを見てくれた。
お孫もいて、もうすぐ5人になる。マミーと呼ばせている。マネーと呼ばれている。ランドセルを買ったりと。
松平健さんと舞台したとき、「きれいな顔してるな」と思ったら、台詞を忘れた。他のことを考えたらだめ。売れる前の松平健さんに、綺麗な顔してたので、「あなた俳優になればよい」と言った。後で、「彼は俳優よ」と言われた。
私はすぐに忘れる。「忘却は宝なり」。この言葉いただこう。
2曲目は布施明さんの「君は薔薇より美しい」。
リクエストはがきで応援した青春の曲。後輩にもたくさん書かせた。バラはオリビアハッセイのことで、人の恋を成就させた。
青春時代を思いだした。ファンなのでよく見に行っている。
失恋したとき、越路吹雪さんの「愛の讃歌」を聞いて涙を流した。隣に坂東玉三郎さんと一緒に行っていて驚かれた。
感想;
こんなに楽しい人だとは知りませんでした。
自慢話と言いながら、周りの人を楽しませようとのサービス精神が旺盛な方です。
このようは性格も人気の一部なんだと思いました。
宝塚ファンの方はとても熱心な人がいることも驚きました。
伝説の男役、トップスター。1946年生まれ。兵庫県出身。ベルサイユのばらのフェルゼン役。「風と共に去りぬ」でレッドバトラーで醸成を魅惑。
外人顔だったので、眉毛を消して上に描いて和風顔にして皆に交じりたかった。
宝塚辞めて37年。舞台中心。舞台中心。ホームドラマにでると、つい構えてしまう。背筋がぴしゃっとしていておばさん役はできない。舞台はオーバーにやるので。宝塚方式でもやっていける。
1曲目真木ひでとさん「おんなの夢」。
結婚は無理だとこの曲を聴いて泣いた。新宿のおかまさんから「抱いて欲しい」と言われたことがあったくらい、男風だった。
ずっと、おんなを抱いていたから。抱きしめられたことがなかった。
とことんざっくばらんな性格。宝塚をぜんぜん知らなかった。
面接で、「君は何もできないな」と言われ、「これからおしえてもらえるんでしょう!」と返した。
両親は中国人で上海出身。両親は日本語は片言。みんぽう語で北京語でなかった。眼の前に悲しそうな人がいると、笑わそうと思う。人を笑顔にするのが私の使命。両親と顔が違うので、貰われ子だと思っていた。だから、良心の血液型を尋ねるのが怖かった。「ハゲハゲ、ハエハエハエがとまってすってんころり」と周りの人に父が言われ、父が笑っていたので、そうだ、この歌を歌うと父が笑うんだと思って、歌ったら、父に殴られた。
友だちに誘われて一緒に受けた。友だちは落ちて、私が受かった。美貌とスタイルで入って5番目だった。
ピアノの鍵盤も知らなかったので、一回目の試験でびりになった。しかし、美貌とスタイルだけは誰にも負けなかった。
当時は目立ちすぎて悩んでいた。目立つ容姿がコンプレックスにもなった。和和風顔にしてもきれいだった。舞台でサリーと大きな声で発したら、お客様がわーと受けた。24歳の時にトップになった。
ベルサイユのばらが出るまで、北海道、九州の人は宝塚を知らなかった。宝塚はトップを“組長”と呼ばれた。皆から“組長“と呼ばれたので、ファンは「えっ、組長?」と驚いていた。
長谷川一夫先生がアントワネットになって演技を付けて貰えた。お客様の2階の何番目の人を見て、そして舞台の裾のお客様を見なさいとの演出だった。
ものすごい人気になった。ファンがコートの毛を引っ張って、バックスキンになるほどだった。骨が折れるくらい、スカーレットを抱いた。男以上の男らしさ。振られて悲しい演技で、舞台から去るとき観客を見なかったのがそれが良かったと。自慢話。私の話はすべて自慢話。
結婚で辞めた。それからは静かにしている。
子ども二人を産んでから離婚。
宝塚はありがたく、ファンが子どもを見てくれた。
お孫もいて、もうすぐ5人になる。マミーと呼ばせている。マネーと呼ばれている。ランドセルを買ったりと。
松平健さんと舞台したとき、「きれいな顔してるな」と思ったら、台詞を忘れた。他のことを考えたらだめ。売れる前の松平健さんに、綺麗な顔してたので、「あなた俳優になればよい」と言った。後で、「彼は俳優よ」と言われた。
私はすぐに忘れる。「忘却は宝なり」。この言葉いただこう。
2曲目は布施明さんの「君は薔薇より美しい」。
リクエストはがきで応援した青春の曲。後輩にもたくさん書かせた。バラはオリビアハッセイのことで、人の恋を成就させた。
青春時代を思いだした。ファンなのでよく見に行っている。
失恋したとき、越路吹雪さんの「愛の讃歌」を聞いて涙を流した。隣に坂東玉三郎さんと一緒に行っていて驚かれた。
感想;
こんなに楽しい人だとは知りませんでした。
自慢話と言いながら、周りの人を楽しませようとのサービス精神が旺盛な方です。
このようは性格も人気の一部なんだと思いました。
宝塚ファンの方はとても熱心な人がいることも驚きました。
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