『磐城誌料歳時民俗記』の世界

明治時代の中頃に書かれた『磐城誌料歳時民俗記』。そこには江戸と明治のいわきの人々の暮らしぶりがつぶさに描かれています。

陰暦1月14日 鳥逐 火撲合 爆竹

2009年05月05日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。

是日ノ奇観ハ、鳥逐、火撲合、爆竹ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月14日、この日の奇観、つまり、いわきで特筆すべき行事は、鳥追い、火打ち合い、そして、爆竹である。
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陰暦1月14日 モグラ除け

2009年02月27日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。

十四日 夕方ニ二甼目ノ豪商石川両家ニテハ、
下男ニ上下ヲ着セ、槌ト火箸トヲ荒縄ニ結付、
地上ヲ曳キ行ルキ、
むぐらどんはおやどにか、なまこどんのおとほりだ。
繰返々々唱ヘ、門内ハ勿論、近隣マデモ引アルク。
是ハ鼴鼠ヲ除ク禁咒ナリトゾ。
ムグラモチヲむぐろトイフ。
沙噀(ナマコ)ハ鼴鼠ノ嫌フモノニテ、
之ヲ庭ノ四隅ヘ埋メ置ケバ、
ムグラモチノ地ヲ墳(ウゴモ)ツ事ナシトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月14日 この日の夕方、
磐城平城下2町目の豪商、石川両家では、
下男が羽織、袴を着、木槌と火箸を荒縄に結び付け、
地上を引き歩き、
「むぐらどんはお宿にか、なまこどんのお通りだ」
と繰り返し唱える。
自分の屋敷内だけではなく、近所までも引き歩く。
これはモグラを退治するための
おまじないのようなものである。
また、モグラはナマコを嫌うといわれ、
ナマコを屋敷の四隅に埋めておくと、
モグラの被害にあわないという。

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陰暦1月14日  木まじない  成木責め

2009年02月25日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。

十四日 農商家ノ童子、小斧ヲ持、
木厭當(キマジナイ)セント家々ヲ廻リ、
梨、柿、柚、柑類ノ樹ヲ斧ニテ打チ、
なるかならぬかトイフテ責ル。
傍ヨリ、なりもうそうなりもうそうトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月14日 農家や商家の子どもたちが、
小さな斧を持ち、
木まじないしましょうと言いながら家々を廻り、
梨の木や柿の木、柚、柑橘類の木を斧で打ちつけ、
「実をたくさん付けるか、付けないか」
といい、木を責める。
すると、傍らの子どもが木に代わって
「たくさんの実を付けます」という。
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陰暦1月14日  あかぎれ・貧乏がうつる?

2009年01月08日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。

十四日 朝五ツ時前ニ、城下ノ者互ニ相見ル時、
誰さんト呼ブ。决シテ答ヘズ。
若シ、うかト答フルモノアレバ、あかぎり貧乏うつたよトイフ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月14日 朝の8時前、城下の者たちが出会った際、
「○○さん」と声を掛けられても、
決してそれに答えてはいけない。
もし、うっかりして「はい」などと返事をしてしまうと、
「あかぎれ貧乏うつったよ」と言われる。
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陰暦1月14日  小年

2009年01月06日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。

十四日ヲ小年トイフ。
十二月晦日ヲ大年トイフニ對ス。
又、纏(マトヒ)年越トモイフ。
節分、大年、六日年越ヲ過来リ、
纏ヒ納ムル年越トイフ事ナリ。
若餅(ワカモチ)ヲ搗キ、弓矢、刀劍、
斧(オノ)鉞(マサカリ)、梳笥、鏡臺、臼杵、
鍬鎌、機脚、戸障子、爐上ニ釣リタル自在鍵(カギ)ニマデ、
ふくら餅一重ヅヽ、孰レモ其噐々ニ載セ供フ。
自在鍵ナドハ餅ヲ串刺ニシテ、其縄ニ挾ム。
戸障子ヘハ小(チイサ)クはやして載セ供フ。
其供ヘタル餅ヲ竊ミ食スレバ、春なづき病マズト云フ。
なづきトハ頭痛ノ方言ナリ。是日烹タル食物ハ、
何ニテモ當日ニ用ヒ盡シテ、翌日ヘ残サズ。
翌日ニ残レバかきしろガ残ルトイフ。
大晦日モ同段ナリ。
是ハ、五月、植しろヲかきコシラヘテモ植ル事ナラズ、
残ルトイフ事ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月14日を小年という。
12月の最終日を大年というが、
それに対して、このようにいわれる。
また、14日を纏年越ともいう。
節分、大年、六日年越を過ぎ、
それまで飾っておいた纏を仕舞うという意味合いから、
このようにいわれている。
陰暦1月14日には餅を搗き、弓矢や刀、
剣、斧、まさかり、櫛、鏡台、臼、杵、
鍬、鎌、機織機、戸、障子、囲炉裏の自在鍵などにも、
餅を一重ずつ、それぞれの形状に合わせ、
工夫してお供えする。
自在鍵などにお供えする際には、
餅を竹串に刺し、それを自在鍵の縄に挟んだりする。
戸や障子にお供えする時には、餅を小さく切り分けて、
お供えする。
この日にお供えした餅を、
人に見つけられないように食べると、
春になってから、頭痛に悩まされることがないという。
また、この日に調理した食物は、
この日のうちに必ず食べ尽くすことになっている。
もし、翌日に残すと、苗代の稲苗がうまく育たず、
田植えの時に苗に不自由してしまうといわれている。
この風習は大晦日の時も同様だ。
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陰暦1月12日 市神祭り  白麻や達磨が縁起物

2008年12月15日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月12日の項には、
次のような記述がある。

十二日 市神祭々主ハ高月不動院ナリ。
是祭礼ノ為メニ
神祠ヲ大晦日ヨリ二甼目ノ中央ニ持出シ置キ、
祭終レバ、本地ヘ安置スルヲ例トス。
是日、童子社邉ニ白麻ヲ賣ル。
又、左右ノ店頭ニハ多ク不倒翁(ダルマ)ヲ賣ル。
參詣人ハ必ズ之ヲ買フコトナリ。
毎月ノ市、平城下ハ、二、八ノ日、
小名濱ハ四、九ノ日、
四倉ハ二、六ノ日ニテ、共六齋ナリ。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月12日 市神祭りが行われる。
市神祭りの祭主は平、高月にある不動院である。
この日の祭りのために、
大晦日のうちに神様を城下の2町目に移しておく。
そして、祭りが終れば、元の場所へ戻す。
市神祭りの日には、
童子町の神社の辺りで白麻が売られる。
また、町通りには露店が出、達磨を売る。
参詣に訪れた人々はこれらの縁起物を必ず買い求める。
ところで、定例の市は
、平では2、8、12、18、22、28日、
小名浜では4、9、14、19、24、29日、
四倉では2、6、12、16、22、26日と、
日にちが定まっており、
いずれも六斉市(ひと月に6回開催される市)である。
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陰暦1月11日   鍬入れ  農立て

2008年10月15日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月11日の項には、
次のような記述がある。

十一日 朝早ク、若水ヲ汲ミ、
商家ハ倉開(クラビラ)キ、帳綴(トジ)ノ祝アリ。
農家ハ鍬入トテ、方言ニのうだてトモイフ。
田畑ヘ徃キ、二鍬、三鍬入レ、松榊ヲ立テ、
心中ニ早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)ト唱ヘ、
鏡餅、さごヲ供ヘ、おからすおからすト呼ブ。
烏ノ早クトリタルヲ當リ稲ト知ル。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月11日 早朝、若水を汲む。
この日、商家では「倉開き」を行い、「帳綴の祝い」をする。
また、農家では「鍬入(土地の者たちは
「農立て」と言う)」という行事を行う。
これは、田畑に行き、二、三回、鍬で土を耕し、
そこに松や榊を立て、鏡餅や白米を供え、
言葉には出さないで「早稲、中稲、晩稲」と唱える。
そして、次に「おカラス、おカラス」と大きな声で叫ぶ。
そうすると、カラスが飛んで来て、
供えた白米をついばむことになるのだが、
その時、「早稲、中稲、晩稲」のうち、
最初にカラスがついばんだ米が、
その年の当たり稲、
つまり、その米が豊作になるといわれている。
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陰暦1月7日  七草粥

2008年09月30日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月7日の項には、
次のような記述がある。

七日 朝、七草粥ヲ作リ、餅ヲ細カニ切リ入レ、
神ヘ供ヘ、門松ヘモ供フ。
小童群(ムラガ)リ、門松ヲトリ除ク。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月7日 朝、七草粥(ななくさかゆ)を作り、
そこに小さく切った餅を入れる。
粥は神様や門松にもお供えする。
また、この日には大勢の子どもたちが集まり、門松を片付ける。


七草粥を、
「お正月の間、ずっと餅を食べ続け、
もたれ気味になったお腹の具合を
整えるために七草粥を食べる」
などと説明、解釈する人がいるが、
それは誤っていると思う。

中国の「人日(じんじつ)の節句」に関わる風習、
さらには
1月15日の小正月を迎えるにあたって、
身を清めるために行う風習である
と私は考えています。
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陰暦1月6日  七草なずな日本の鳥と唐土の鳥が

2008年09月29日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月6日の項には、
次のような記述がある。

六日 七草ヲ摘採リ、晩ニ盤俎ニノセ、
檑木ニテ敲キ、
なゝくさなづな、にほんのとりと、
とうどのとりの、わたらぬさきに
ト唱フル事、邦俗一般ノ習ナラン。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月6日 明日の七草粥に向け、七草を摘み取る。
夜、摘み取った七草をまな板の上に乗せ、
それを檑木棒でたたきながら、
「七草なずな 日本の鳥と唐土の鳥の渡らぬ先に・・・」
という歌を唱える。
これは日本国内の他の地域と同様である。

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陰暦1月6日  山入り

2008年09月09日 | 伝説
天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。

さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月6日の項には、
次のような記述がある。

六日 山入トテ、山神へ餅ヲ供ヘ、
薪(タヽギ)ヲ樵(コ)リテ仕事ヲ始ム。

これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。

陰暦1月6日 この日は「山入り」の日である。
山の神様に餅をお供えし、
薪を樵るなどして、
その年の山仕事をこの日から始める。
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