いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

北見市 国史跡・常呂遺跡②ところ遺跡の館❶縄文・続縄文時代 族長の墓の副葬品

2024年08月14日 09時07分45秒 | 北海道

ところ遺跡の館。北見市常呂町栄浦。

2022年6月16日(木)。

北海道での時代区分。

▶旧石器時代:北海道に最初にヒトが住み始めた時代。

▶縄文時代:定住的な狩猟採集生活の時代で、土器の使用が始まる。

▶続縄文時代:本州で農耕文化の弥生時代に入っても、当時農耕に適さなかった北海道では縄文文化の伝統を残した鉄石併用の文化が発達した。北海道独自の時代区分。

▶擦文時代:7世紀頃、本州からの影響を受けて鉄器主体の文化が成立した。北海道独自の時代区分。

▶オホーツク文化:擦文時代とほぼ同じ頃、オホーツク海沿岸に栄えた外来の文化。

▶アイヌ文化:本州の中世から近世に相当。

幣舞(ぬさまい)式土器。縄文時代晩期。

続縄文時代は、紀元前4~後6世紀に相当する時代である。約2400年前以降、本州では広い範囲に農耕文化が普及し弥生時代を迎えるが、当時農耕に適さなかった北海道では縄文文化の伝統を残した、狩猟・採集を生業とする文化が続いた。

縄文時代から全く変化がなかったわけではなく、本州から鉄製品が持ち込まれるようになったことにより、鉄器と石器が併用されるようになった。また、サハリンや千島列島など、北方の広い範囲との交流が認められるのもこの時代の特徴である。

興津(おこつ)式土器。続縄文時代。

続縄文時代早期の壷形土器。頸部は無文で胴部に縄文が施され、肩の部分に3個所、貼付文がある。特に、貼付文のうち1つが手足を広げたカエルの形をしている点に特色がある。カエルは1匹で大量の卵を産むことから、豊かさや繁栄を象徴する意味があったのではないかと考えられている。

興津式土器は続縄文時代前半の土器で、釧路市興津遺跡出土土器を標式とする。胴部が張り出して湾曲し、口縁部がくびれて外反する器形が多い。沈線文の消失、横走する帯縄文、口縁部下のボタン状突起、垂下する貼付文などの特徴がある。道東部太平洋岸、根釧原野、知床半島南岸の地域を中心に分布する。

宇津内Ⅱb式土器。続縄文時代。

宇津内式土器は、続縄文時代前期から中期の道東北部網走地域を中心に分布する土器である。「宇津内」は斜里町の遺跡名である。Ⅱa式とⅡb式に細別されており、前期の型式である宇津内Ⅱa式は口唇部直下にめぐる突瘤文を特徴とする。宇津内Ⅱb式土器は、続縄文時代中期の網走地域を中心に分布する土器である。Ⅱa式にみられた口唇部直下の突瘤文は消失し、その位置には貼付文がめぐるようになる。口縁部や胴部の貼付文もⅡa式からさらに発達する。

宇津内Ⅱb式土器。続縄文時代。

上部に2つ穴のあいた把手のような出っ張りが4つある。この把手とその下の文様を合わせて見ると、フクロウの顔を表現しているようにも見える特徴的なデザインの土器である。

 

続縄文時代には、縄文土器の伝統を引き継いだ縄文のある土器が作り続けられていたが、土器は少しずつその姿を変えていった。土器の変化に基づいて、続縄文時代は早期・前期・中期・後期・晩期に分けられている。

早期・前期・中期は北海道内でも地域ごとに特色のある土器が作られていた常呂を含むオホーツク海沿岸地域では宇津内IIa式土器に代表される系統の土器が作られていた。

続縄文時代後期には、道央部の後北C1式土器、後北C2・D式土器北海道全域に広まり、北海道全体が1つの文化圏を形成するようになったと言える。

続縄文時代晩期には縄文を全く付けない土器が現れた。この頃の本州ではすでに土器に縄文は使われなくなっていたが、その影響が北海道まで伝わってきたものと考えられている。

続縄文時代には、豪華な副葬品をもつ墓が多数つくられた。土器や石器などの生活用品の他、首飾りなどの装身具も見つかっている。特徴的なものとしては琥珀製の玉を連ねた首飾りがある。数百~数千の玉を連ねて作られたもので、材料の琥珀はサハリンからもたらされたものの可能性が高いとされている。

こうした多数の副葬品はどの墓にも納められているわけではなく、村の指導者や呪術師など、特別な地位にあった人の墓に収められたものと考えられている。その他、続縄文時代の後半になると、本州から手に入れたと見られるガラス玉を遺体と一緒に葬った墓の事例も見つかっている。

北見市 国史跡・常呂遺跡①ところ埋蔵文化財センター