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福島県白河市 国史跡・白河関跡 境の明神

2024年08月04日 16時12分44秒 | 福島県

境の明神。福島県白河市白坂明神。

2024年6月1日(土)。

福島県文化財センター白河館「まほろん」を見学後、白河関方面へ向かい、国史跡・白河関跡の前に、まず白坂の境の明神を訪れることにして、ポケットパークの駐車場に駐車した。

松尾芭蕉「おくのほそ道」や「曾良随行日記」によれば、松尾芭蕉と河合曽良は、1689(元禄2)年4月20日(陽暦6月7日)朝、那須湯本を立ち、奥州街道の芦野宿(栃木県那須町芦野)、郊外の遊行柳を経由し奥州街道を北上した。そして、上り坂を歩くこと約10キロでたどり着いたのが「境の明神」で、いわゆる「白河の関」、陸奥(みちのく)の入り口である。芭蕉の供をした曽良は「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」と、この時期に白河で咲いていた卯の花を詠み込んでいる。

曽良日記には「寄居村有。是ヨリハタ村ヘ行ハ、町ハツレヨリ右ヘ切ル也。関明神ノ関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間二十間計有、両方ノ門前ニ茶ヤ有、小坂也。コレヨリ白坂(宿)へ10丁ホドアリ。古関を尋ねて白坂の町の入口ヨリ右へ切れて旗宿へ行く。廿日の晩泊る。」と記す。

古代の白河関の場所については、1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信が文献による考証を行い、その結果、旗宿の現在の白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じ、国史跡にも指定されているが、現在でも正確には特定されているわけではない。

松尾芭蕉の時代でも白河関跡の故地推定地は4か所ほど知られていたらしく、白坂の「境の明神」(新関)から旗宿の「境の明神」(古関)を参詣し、翌朝には関山を訪れている。芭蕉も確信をもって白河関跡を見たとは言えなかったために、「おくのほそ道」では芭蕉は「旅心定(たびごころさだま)りぬ」と記したが、「白河の関」の具体的描写はしていない、という。

境の明神(陸奥側)。福島県白河市白坂明神。

白河から見ると、陸奥側(白河市)には玉津島明神(女神・衣通姫)、下野側(栃木県那須町)には住吉明神(男神・中筒男命)が祀られている。「玉津島明神」と「住吉明神」は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)・男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野とも自らの側に「玉津島明神」を祀り、反対側に「住吉明神」を祀るとしている。

社殿については、会津領主蒲生氏により造営され、白河藩主本多能登守により改修されたという記録があるが、現存する社殿は、火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたものである。

松尾芭蕉の奥の細道俳諧紀行で、みちのくの第一歩を記した場所として句碑や歌碑が建立されているとともに、大名家や商人から多くの燈籠が寄進されていることから、陸奥・下野の国境である境の明神として重要な場所であったことがうかがえる。

また、神社の向い側には、南部藩出身と伝わる一家が営んだ「南部屋」と称する茶屋跡や、松平定信の時代に建てられたという「従是北白川領」と刻まれた石柱がある。

「関明神」は、両国境に玉津島神社と住吉神社が対に祀られていたことから「関の二所明神」と言われていた。この通称と福島県側にあった茶屋「南部屋」の主人が盛岡出身だったこともあり、南部藩主お抱えの力士が創設した相撲部屋「二所ノ関」の名が付けられたという。

境の明神は、明治時代になって新国道や鉄道が開通すると、それにともない奥州街道の交通量も減り衰退した。明治期の道路拡張などの手が入っていながらもなお、江戸時代における奥州街道沿いの国境の景観を色濃く残し、陸奥国の玄関口としての白河の近世史を語る上で、重要な史跡である。

『白河二所の関碑』。ここは新関とされるが、実は古関であったという説が書かれている。

境の明神(下野側)方向。

国史跡・白河の関。白河神社登り口。白河市旗宿関ノ森。

白河関は、奈良時代から平安時代にかけて、都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として歴史上名高く、「みちのく(奥州。現代の東北地方)の玄関口」とされてきた。鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに『奥州三関』の1つに数えられる。

所在地は白河神社が祀られる白河市旗宿に比定されており、国の史跡に指定されている。

設置時期は明らかでない。『類聚三代格』承和2年(835年)太政官符では、「白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年」と見えることから、9世紀前半の835年当時には「5世紀前半に設置された」と認識されていたとみられる。

当初、白河関はヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立した前線基地であったが、朝廷の勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所という役割が残ったという。

平安時代以降、律令制度の衰退とともにヤマト政権の軍事的要衝としての白河関の機能は解消していき、白河関は遠い「みちのく」の象徴として和歌の歌枕に選ばれ、文学的感傷をもたらす存在となった。和歌での初出例は、平安中期の平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺和歌集」別)とされる。

平安末期または鎌倉時代始期の1189年(文治5年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した際に梶原景季に歌を詠むよう命じると、景季は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

古関蹟碑。松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関跡に間違いないとし、建立した碑が残っている。

古歌碑。

平兼盛、能因法師、梶原景季が白河関を詠んだ歌三首を刻んだ歌碑。

便りあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと (平兼盛)

都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 (能因法師)

秋風に 草木の露を はらわせて 君が越ゆれば 関守もなし (梶原景季)

白河神社。参殿。

白河神社は、白河関跡を境内とし、関の明神、二所関明神とも呼ばれ、古墳時代の315年、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を祀ったのが始まりだという。

元和元年(1615)に伊達政宗が社殿を改築奉納したと言われ、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれている。

治承4年(1180)、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝わり、祈願をした「矢立の松」が、小さな根元のみの姿となって残っている。

 

西会津はまたの機会として、白河関跡で今回の福島県の旅を終了し、16時30分頃に栃木県那須塩原市の道の駅へ向かった。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」④奈良・平安時代 蕨手刀 獣脚鋳型 製鉄遺跡 


北海道小清水町 小清水原生花園

2024年08月04日 11時35分18秒 | 北海道

小清水原生花園。小清水町浜小清水。

2022年6月15日(水)。

伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡を見学後、標津町伊茶仁を14時過ぎに出て、網走方面へ向かい、斜里岳北の山越えの道を走り、15時過ぎに小清水原生花園へ着いた。小清水原生花園は有名な観光地なので1973年8月の北海道旅行のさい、知床観光船や知床五湖を観光する前に列車で通ったとき、花が見えないかと外を見ていた記憶がある。1990年代末に日本百名山の羅臼岳・斜里岳を登頂したときは、カムイワッカ湯の滝や熊の湯に入湯した。そのため今回は知床には行かないことにした。

小清水原生花園は、オホーツク海と濤沸湖(とうふつこ)に挟まれた約8kmの細長い砂丘全体が天然の花畑となっている北海道を代表する海浜公園で、5月下旬頃~9月上旬頃まで約200種類の花々が咲きそろい、JR原生花園駅前に整備された遊歩道で散策を楽しむことができる。

遠くに斜里岳や知床連山を望み、オホーツク海や濤沸湖に挟まれた中をJR釧網本線が走るという、ユニークな風景が特徴だ。

丘の展望台「天覧ヶ丘」からは、360度の眺望が広がり、天気の良い日はオホーツク海側には知床半島から網走、湖側には斜里岳から藻琴山までの絶景が見渡せる。

原生花園といえば、大輪のエゾスカシユリや、鮮やかな黄色のエゾキスゲの群生が広がるお花畑が魅力だ。

園内にはJR釧網本線の原生花園駅が夏季限定で設置されており、一両編成の列車と咲き誇る花畑との共演が見られる。

JR原生花園駅のそばに遊歩道が設けられており、その遊歩道を少し登ると海岸線の中で一番小高い「天覧ヶ丘」展望台になっている。

天覧ヶ丘からは知床から網走までの360度の展望が開け、目の前に斜里岳の美しい山並みが広がる。日本百名山に名を連ねる斜里岳は、高さ1457m。その山容の美しさから、「オホーツク富士」「斜里富士」とも親しまれてきた。

羅臼岳を盟主とする知床連山。

オホーツク海とラムサール条約登録湿地 濤沸湖(とうふつこ)に挟まれた小清水原生花園の正体は、なだらかな起伏が続く8kmにも渡る砂丘。

昨年できた木道からは、目の前に雄大な斜里岳が広がる。

原生花園が最も賑わいを見せるのは6月中旬から7月下旬ごろ。町花であるエゾスカシユリやエゾキスゲ、ハマナスなどの花々が咲きそろい、黄色やピンク、紫といった色とりどりの花畑が現れる。

エゾスカシユリは、北海道、樺太、シベリア、中国北東部などに分布する多年草で、花期は6月中旬〜7月頃。草丈は20〜90cm程度で花色は主に橙色。花弁は6枚ほどで構成され、濃橙色の斑点が内側にある。また、花弁の根元部分が細くなっており隙間があり、このことが和名にあるスカシの由来である。

道東、道北では、原生花園に限らず、各地で見ることができる。別海町野付半島では、7月にはエゾスカシユリの花畑でタンチョウの群れが戯れ、その姿を求めてカメラマンが多く訪れる。北海道の斜里郡小清水町と古宇郡泊村が、エゾスカシユリを町村の花に制定している。

スカシユリの近縁種であり、北海道の海岸草地や山地の岩場などに生える。ユリは横向きに咲くものが多いが、エゾスカシユリは上向きに咲く。草丈は30~60センチぐらい。花色は主に橙色で、鮮やかな花びらの内側に濃橙色のそばかすのような斑点がある花びらの付け根が細くなって隙間があり、その隙間からオシベが見える、つまり透かして見えるので、この名が付いている。

エゾスカシユリは軽い砂質の土地を好むようで、道内ではオホーツクの砂丘や草原に多くみられる。

 

このあと、道の駅「網走」に着き、天気予報を見て礼文島トレッキングを予定していた6月18日の天候悪化を知り、6月16日夜に稚内港着・17日早朝礼文島行きに行程を変更することにした。

北海道 標津町歴史民俗資料館③伊茶仁カリカリウス遺跡③トビニタイ文化 竪穴住居 チャシ