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自民党総裁選報道の狂騒 与党の広報に成り下がったテレビ局の情けなさ

2024年08月31日 11時43分40秒 | 社会

自民党総裁選報道の狂騒 与党の広報に成り下がったテレビ局の情けなさ

2024/08/29 日刊ゲンダイ ラサール石井

 

金子勝@masaru_kaneko

【恥を知れ】都知事選もひどかったが、テレビの自民党総裁選報道は、まるで芸能ニュースレベルの低さをひとつも恥ずかしがらず、大騒ぎ。放送法解釈変更の結果とはいえ、公共の電波を使って、自民党の広報に成り下がったテレビ局。日本を悪くする害悪そのものだ。

 

 自民党総裁選の各マスコミの連日の取り上げ具合は一体何だというのだ。

 都知事選の時も、いや一番国民に大事な衆院選や参院選の時も、これほど報道したか。いや、その日一日全く取り上げない日もあったではないか。なのに自民党員しか投票できない内輪の選挙にこれほど時間を割くのは甚だバランスが悪い。以前から指摘されてはいるが、各 テレビ局は自民党の広報に成り下がったと言うしかない。実に情けない。

 しかも候補者の記者会見だけではなく、昼食を食べる様子、ランニングする様子、地元のお祭りに参加する様子、いかにも人柄の良さそうな場面を垂れ流し、これでは自民党のプロモーションビデオではないか。

 おそらく新総裁が決まったところで解散総選挙に打って出るつもりだろうから、この報道は、1カ月以上にわたる「自民党イメージチェンジ」作戦に他ならない。国を挙げての選挙違反だ。

 事実この期間に自民党支持率は上がっている。なんて単純でバカなんだ日本国民は。生活は苦しい税金は高い。おまけに米不足。災害は相次ぎ復興はおざなり。そんな政府にまだついて行こうというのか。

 

河野大臣が出馬表明会見をした。「裏金議員には厳しく、不記載の金額の返納を求める」と言う。おいおい。どこが厳しいんだ。泥棒しても金返したらおとがめなしってそんなのあるか。返納ってどこに返すんだ、党に返すなら同じだろ。どうせ後でコッソリ名目変えて本人に戻すんだろ。議員辞職に追徴税。これが本当のケジメではないか。

 人気は石破氏に小泉氏だ。だが石破氏は党内に人気がない。誰にでも正論を言うからだって。どんな党なんだ。

 小泉氏はイケメンでソフトだが、政治家として何かなし得たのだろうか。だいたいインタビューで、なんであんな上からなのか。立候補予定を聞かれ「官邸内で話すことではない」とか言って、いやいやあなた官邸内でクリステルさんと結婚発表してましたよね。しかも一番の大事は「憲法改正」だと言っている。ソフトな顔にだまされて緊急事態条項など通されたらたまったもんじゃない。

 もちろん小林鷹之氏も高市早苗氏も極右緊急時の国民預金の凍結、徴兵制などにまっしぐら。まあ誰がなっても日本を戦争のできる国にするのはみな同じ。

 皆さん。ほんとによく考えてください。


維新の製造責任「兵庫県・斎藤知事」 曲げない主張”にネット激怒

2024年08月31日 11時24分35秒 | 社会

「どこまでも被害者を馬鹿に」兵庫県・斎藤知事 亡きパワハラ告発者の懲戒処分は「適切だった」と強弁…“曲げない主張”にネット激怒

Yahoo news 2024/8/31(土) 女性自身

(写真:時事通信)

 

金子勝@masaru_kaneko

維新が製造責任で、維新県議がもみ消しに走り、最後は自己弁護】兵庫県百条委員会で証人喚問を受けた後でも、斎藤知事は元局長への処分について「今でも適切だった」と開き直っている。結局、自殺に追い込むのが適切ということか?これが維新の言説の帰結だ。

大阪維新府政の本質】「斎藤さんは本当に優秀だ。知事になってもらい、兵庫と大阪が連携して成長する『関西のエンジン』をつくりたい」。2021年7月の「財務課長として維新大阪府政を支えられた」というヨシムラ知事の発言だ。では、ヨシムラは何を間違ったというのか?

【逃げ出すフェイク維新】ヤシキやシンボウの愚劣なキャンペーンに頼ってきた維新が、今度は製造責任の兵庫県知事叩きに乗りだした。元局長を追い込んだのは維新の県議会議員だったのではないか?無責任、無反省、無原則なフェイク集団ぶりをむき出しだ。

 

「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います」

こう宣誓書を読み上げたのは、兵庫県の斎藤元彦知事(46)。パワハラなどを告発する文書をめぐり、30日午後に開かれた県議会調査特別委員会(百条委員会)の証人尋問に初めて出頭した。

一連の問題をめぐっては公益通報した元・西播磨県民局長だけでなく、阪神・オリックス優勝パレードの資金集めを担っていた担当課長までも亡くなっている。また百条委員会が実施した県職員に対するアンケート調査では、約4割が斎藤知事のパワハラを見聞きしたなどと回答しており、窮地に立たされている。

 

そんななか、斎藤知事が証人尋問で語った元・西播磨県民局長に関する“主張”が波紋を呼んでいる。

「今年3月に元局長が知事の疑惑に関する告発文書を作成し、県議らに配布したことで問題が発覚しました。そこにはパワハラや違法行為、贈答品受領などの疑惑が7項目に分けて記されていましたが、知事は『事実無根の内容が多々含まれている』と否定。さらに告発文書を作成した元局長を、『嘘八百』『公務員失格』と非難したのです。内部調査の結果で告発文書は『誹謗中傷』と認定され、男性には停職3カ月の懲戒処分が下されました」(社会部記者)

 

証人尋問で告発者の元・西播磨県民局長について、「パワハラ防止法により保護されるべきであるという認識はありましたか?」と問われると、「えっと、ありませんでした」と回答した斎藤知事

次に“パワハラ防止法では告発者が特定されないよう求められている”と説明を受けた上で、「告発者の特定は不適切であった、この認識を今はお持ちでしょうか?」との質問が。

これに対して斎藤知事は、「私が把握した時点で、文書において十分な供述や証言、証拠、それから噂話などもありましたし、そういった意味で誹謗中傷性が高い文書という風に認識しました」と述べていた。

だがここで質問者が「もう1度お聞きします」と仕切り直し、「仮に真実相当性がなくてもパワハラ相談は受け付けられて、パワハラ防止法では相談者に対する不利益な取り扱いは禁止していると定めています」などと改めて強調。その上で再度、「前西播磨県民局長の停職3カ月の処分は不適切であったと、今は認識をお持ちでしょうか?」と投げかけた。

すると斎藤知事は、「今は思ってはいません。(処分は)適切だったと思っている」とコメント。続けて「事実でないことが多く含まれていて、誹謗中傷性の高い文書という風に私、県としては認識しまして。それで調査をして、処分させて頂いたということです。その処分は適切だった」と、繰り返したのだった。

最後に“パワハラ防止法では公開叱責が禁止されている”との説明を受けた上で、告発者への「公務員失格」の発言について「今は不適切であったと認識されていますか?」と問われた斎藤知事。その答えは、「表現としては言い過ぎた」とのことだった。

質問者もややあ然とした表情を浮かべていた、斎藤知事の“曲げない主張”。パワハラ防止法を理解していないような発言に、ネットやXでは厳しい声が続出している。

 

《自己保身の極みだね》

《常軌を逸しています。即時に辞職を!!!》

《どこまでも被害者を馬鹿にしたような対応を続けるんですね》

《この期に及んでも自己保身。言い訳オンパレード。人としてどうなの?》

《告発と誹謗中傷って違うんじゃないの? そもそも告発された当人が嘘八百とか言って告発者を追い詰めるのが適切なの? 普通にありえない》

《勇気を振り絞って告発したのに、この認定をされた時の気持ちは如何ほどのものだったか。その絶望感は察するにあまりあります》

 

その名に秘められた兵庫知事への因縁 「暴君」?斎藤元彦氏とは

2024/8/30  毎日新聞 芝村侑美

 

兵庫県職員へのアンケート調査で「暴君」と呼ばれていたことが明らかになった。職員へのパワーハラスメントを含む多数の疑惑を告発された斎藤元彦知事(46)のことだ。東大から総務官僚、そして首長へ。「エリート街道」から一転、疑惑の目を向けられる斎藤氏とはどんな人物なのか。

維新・松井氏に直談判

 「斎藤さんは本当に優秀だ。知事になってもらい、兵庫と大阪が連携して成長する『関西のエンジン』をつくりたい

 2021年7月の兵庫県知事選。告示後間もない演説会場で、初当選を目指す斎藤氏をこう持ち上げたのは日本維新の会副代表だった吉村洋文・大阪府知事だ。

 斎藤氏は3年間、前任の府知事で維新代表だった松井一郎、吉村の両氏による維新府政を財政課長として支えた。この選挙戦で維新から推薦を受けていた。

 

 「自民党の推薦がなくても出る覚悟があるのか」。知事選の5カ月前、松井氏は大阪市内のホテルの個室でそう斎藤氏に迫った。

経営者の祖父が命名

 兵庫県議会最大会派の自民党県議団は元副知事の支援を決めたが、この方針を不服としていた一部の県議が斎藤氏の擁立をあきらめていなかった。

 自民党本部の推薦の行方が見通せない中、出馬に意欲を示す斎藤氏が維新代表に支援を求めて直談判をする場だった。

 「自…(以下有料記事)

 

日本維新の会兵庫県議会議員団が百条委で斎藤元彦知事を猛追及でざわつく「思いやりがない」

2024年8月30日 日刊スポーツ

 

兵庫県の斎藤元彦知事が30日、疑惑告発文書問題を受け設置された、県議会の調査特別委員会(百条委員会)のパワハラ疑惑に関する証人尋問に初出席した。2021年の兵庫県知事選で斎藤氏を支援した日本維新の会から猛批判が浴びせられた。

議会最大会派の自民党県議団に続いて、質問に立った伊丹市選出の日本維新の会兵庫県議の佐藤良憲氏は「部下からどう思われていると思うか?」と質問。斎藤氏は「仕事は厳しくさせていただいている。仕事は厳しくというのは私のスタイル」と応じた。

 

百条委のアンケートに対し、斎藤氏が「残念だ」などと応じている真意についても質問し、「仕事を含めて厳しくさせていただいた。人から人に伝わるときに、真意と違うところで受け止められ方が変わってしまう。コミュニケーション不足があった」などと応じると、佐藤氏は「コミュニケーション不足というのは深刻。職員に対する思いやりが足りないのでは」とバッサリ。

さらに、時間に厳しい斎藤氏に「自身は遅れることはないのか?」と質問。斎藤氏が「あります」と返答すると、「人に求めるのであれば、自身も遅れてはいけないのでは。理不尽では。矛盾しているので指摘しておきます」とストレートに切り捨てた。

佐藤氏は斎藤氏に対し「部下に厳しい」との印象を重ねて主張。「思いやりがない」「人望がないんじゃないか」とまで言ってのけた。

疑惑解明を優先し、斎藤氏に対して慎重な立場を崩さなかった維新からの厳しい追及に、傍聴席はざわついた。

 


稚内市北方記念館⑤稚内の縄文遺跡 南樺太の鈴谷式土器 福沢桃介乗用の幌付き馬車

2024年08月31日 09時00分25秒 | 北海道

稚内市北方記念館。稚内市稚内村ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

鈴谷式の深鉢形土器。鈴谷北貝塚(鈴谷貝塚)出土。

鈴谷式土器は、続縄文時代後期前後のサハリン中部から北海道北端部を中心に分布する土器である。櫛歯文土器と縄線文土器の二つのタイプがある。

鈴谷式土器はアムール河口部の古金属器文化と北海道の続縄文文化との2つの土器系統の融合によって成立したと考えられており、これら2つの文化の交流を示す資料とされている。鈴谷式土器が出土するのは主にサハリン中部以南から北海道北端部にかけてであり、この土器は道東部へ客体的に搬入されたものとみられる。口縁部の文様や尖底などサハリン北部と共通する特徴を色濃く持ち、道東部とサハリンとの直接の交渉の可能性をも示唆する資料となっている。

旧大泊郡遠淵村二号沢チャシ跡遺跡は南樺太・亜庭湾東岸に位置する。

旧大泊郡域内各地の遺跡から宗仁式縄文土器などが出土した。宗仁式の名称は、好仁村宗仁の遺跡にちなむ。また、本斗町大字本斗字南浜通2丁目にある南浜町貝塚からは、イノシシのものと見られる歯も出土している。南浜町貝塚は、吐鯤保川右岸河口付近の段丘上、金比羅神社境内で発見された。

縄文時代には、捕らえたイノシシの幼獣を飼い育て、殺して食す祭りが全国でおこなわれていた。後に、対象動物が熊に置換され、アイヌのイオマンテに繋がるとの説もある。

続縄文人や擦文文化の担い手は、アイヌの祖先にあたる。

古代の樺太南部では、続縄文文化に属するアニワ文化(遠淵式)が古墳時代前期まで栄え、道東北部の続縄文文化と共通する剝片石器や琥珀などの出土も見られる。当時の北日本では、栄浜郡産の琥珀が流通していた。

その後、鈴谷文化が樺太で興り4世紀末まで続いた。千歳村大字貝塚字北貝塚18番地にある鈴谷北貝塚などから鈴谷式土器が出土しており、ここが土器の名称の由来となっている。

5世紀ころからはオホーツク文化が栄えた。オホーツク文化の担い手については、飛鳥時代に阿倍比羅夫と交戦し『日本書紀』や『続日本紀』に記述された粛慎 (みしわせ)とされる。また、比羅夫と粛慎の交戦地を戦闘の場所については、粛慎 (みしわせ)の本拠地の樺太に比定する説もある。

5世紀から8世紀にかけ用いられた十和田式土器の名称は、好仁村十和田の遺跡に由来し、8世紀以降、樺太南部で用いられた南貝塚式土器の名称は、千歳村大字貝塚字南貝塚にある南貝塚遺跡に由来する。その後、擦文文化進出にともない、オホーツク人は樺太南部から駆逐された

平安時代中期(11世紀)までには、交易品として本州方面で需要の増したワシ羽や海獣皮を求め擦文文化の担い手が進出した。当時、和人社会では武士が台頭し始めており、安倍氏や奥州藤原氏をはじめとする奥羽の豪族を経由し、矢羽や甲冑などの材料として樺太で産するオオワシ羽やアザラシ皮が全国各地に流通していった。以降、和人社会との流通の増大が、アイヌ文化成立の契機になったとみられる。

福沢桃介乗車。旧宮内庁下総御料牧場の幌付四輪馬車。

1902(明治35)年、稚内市増幌に市島徳次郎が市島牧場、福沢諭吉と親交深い北海道炭鉱汽船初代社長・堀基が堀農場(福沢農場の前身)を相次いで開拓していった。当時、農場・牧場のはっきりした区分けは見られず、いわゆる大農場主、大牧場主による農業開拓の始めであった。

堀基は1906年、体調を悪くし東京に移住した。堀は緒についた開拓を捨てきれず福沢桃介に8万円で売った。桃介は譲り受けた堀農場を福沢農場と変え、場長に北海道大学農学部1期生の川又忠純を専務に迎え、北大から乳牛ホルスタイン種10頭を導入し酪農を始めた。

牧場として出発して間もない1908年8月に、福沢桃介は稚内に来たと報じられている。福沢桃介は随員を伴って幌付四輪馬車で揺られながら増幌の農場に向かった。この馬車は、現在、稚内市北方記念館・開基百年記念塔に展示されている。

福沢桃介は1889年にアメリカ留学から帰朝後、福沢諭吉の2女・房と結婚、一家を創立した。同年、桃介は北海道炭鉱鉄道会社に就職し札幌に赴任した。同年秋、東京支社が開設され、売炭係支配人として東京に転任したが、結核を患い辞職。療養生活中に株式投資に手を染めた。回復後に貿易商を開業し王子製紙取締役としても務めるが長続きせず、元の北海道炭礦鉄道に復帰した。1906年に会社員生活を辞め実業界に入り、電気事業を中心に活躍した。

稚内市北方記念館④オホーツク文化 オンコロマナイ遺跡