縄文人の痕跡を現代人に探る ゲノム科学で迫る先史時代
2023年12月24日 日本経済新聞 日経サイエンス(科学ジャーナリスト 内村直之)
詳細は12月25日発売の日経サイエンス2024年2月号に掲載
(🍓出雲は縄文度が高いことは方言を例えにも以前から指摘されるが、その経緯は。)
かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。
縄文人は渡来人が来るまでの間、1万年以上も他の人類集団の流入がないまま孤立して暮らしていた。この間に、縄文人のゲノムには縄文人特異的な変異が蓄積したと考えられる。研究チームは、現代の日本人集団が持つ特異的な変異の中から、より古い時代に生じた変異を特定し、縄文人由来の変異を遺伝学的に絞り込む解析手法を開発した。
縄文人由来変異を探すためのデータとして、国際協力プロジェクトである「1000人ゲノムプロジェクト」の日本人集団(103人)を含む26集団のデータと「韓国個人ゲノムプロジェクト」(87人)のデータを用いた。約170万個の日本人特異的な変異の中から、今回の解析手法で20万8648個の縄文人由来と考えられる変異を絞り込んだ。
研究チームは次に、この縄文人由来変異を手がかりにして約1万人の現代日本人のゲノムデータを解析し、縄文人由来変異の保有率の違いを県別に調べた。その結果、地方ごとに大きな違いが明らかになった。大橋教授は「縄文人らしさの割合について、その地域的差異が現代でもはっきりと残っているのは面白い」と話す。
さらに渡部特任助教らは現代日本人のゲノムを「縄文人由来」と「渡来人由来」に分類し、それぞれの遺伝要素と現代日本人の体質の関係性を調べた。縄文人由来と渡来人由来の遺伝要素の違いで生まれる体質の定量的な差をみると、縄文人では血糖値と、高血糖状態を表すHbA1C値、中性脂肪が大きな値だった。一方渡来人では身長、炎症の強さの指標となるCRP値、免疫で重要な役割をする好酸球の量が高かった。
身長は古人骨の形態からも渡来人の方が高いことがわかっている。血糖や中性脂肪関連の値の高さは採集狩猟民である縄文人の食生活に関係するとみられた。食べ物不足に備えて栄養をため込む「倹約遺伝子」的な働きだ。一方、CRP値や好酸球の数が示す免疫反応の強さは感染症への対抗に有効で、定住する農耕民の渡来人には重要だったとみられる。
過去には役立った倹約遺伝子や免疫の性質は、現代では疾患の要因になっている可能性がある。地域別に縄文人由来変異の保有率と現代の5歳児の肥満率の相関を調べると、縄文人らしさの高い地域の方が高い肥満率だった。また、好酸球が関係すると思われるぜんそく患者重症化率と縄文人由来変異保有率の相関を見ると、縄文人らしさが低い地域ほど重症化しやすかった。これらの結果について渡部特任助教は「縄文人由来変異で疾患の地域的勾配を説明できていると考えられる。今回の解析手法の答え合わせとして興味深い」と話す。
縄文人の痕跡は遺跡の中だけでなく、現代の私たちの体内に残っている。現代人のゲノムから祖先の姿を探る先史時代への新たなアプローチを通じて、私たちのルーツに関する新たな知見がこれからも見つかりそうだ。
日経サイエンス2024年2月号 DNAが語る古代ヤポネシア
ゲノムで見る躍動の弥生時代
出村政彬(編集部) 協力:篠田謙一/神澤秀明(ともに国立科学博物館) 藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館) 濵田竜彦(鳥取県)
田んぼに水が張られ,青々とした稲の葉が育ち,秋には黄金色の稲穂が首を垂れる。水田のある景色は「日本の原風景」の1つに数えられることが多い。しかしこの光景が日本列島に人が住み始めた当初からあったわけではないことは,学校で歴史を習った人なら誰でも知っているだろう。
弥生時代は変化と多様性に富んでいた。日本列島に暮らす人々の営みが採集狩猟から稲作へと根本的に変化し,大陸からの渡来人と,縄文時代から列島に住んでいた縄文人の子孫が混血した新たな人類集団が生まれた。しかしこうした変化がどうおきたかや,当時の人々がどんな暮らしをしていたかはいまだにわからない点が多い。
遺跡から出土する土器や木工品,そして埋葬された人骨。弥生時代を目撃した品々はどれも文字情報を伴っておらず,とても寡黙だ。そのため,考古学者たちは長年にわたって丁寧な観察と緻密な解釈を積み重ね,出土品が秘める証言を読み取ってきた。2018年から2023年にかけて国立科学博物館や国立歴史民俗博物館,国立遺伝学研究所などが行ってきた日本列島に暮らす人々のルーツを探る研究プロジェクト「ヤポネシアゲノム」では,従来の考古学にゲノム解析という自然科学の手法を加えた。遺跡から出土する古代人の骨に自らの由来を語らせることで,弥生時代の人々の生きざまがこれまで以上に明らかになってきている。
青谷上寺地遺跡の13人は現代日本人の集団とほぼ同じエリア。
青谷上寺地遺跡32人のミトコンドリアのハプログループは10種類以上のグループにまたがっており、ほとんど「赤の他人」だった。各地から人が集まる「ビジネス街」。
ミトコンドリアのハプログループ13種類のうち縄文人系統(M7a)はたった1つで、他は現代東アジアの大陸部で報告されている系統。
西遼河をルーツとする渡来人は、そのままでは稲作を携えて日本列島に渡来することはできない。
「酒に弱い体質」は中国北部では珍しく、南部の人で多く見られる。ALDH2遺伝子の正常型が多いのは東北・北海道・九州、少ないのが近畿・中国・東海地方。
朝鮮半島南端に住んでいた人々。釜山市の加徳島にある6300年前のジャンハン遺跡の人骨はゲノム解析により縄文人と西遼河起源の大陸側集団の間の位置にある。近くの人骨からも、縄文人などの在来系(古代東アジア沿岸集団系)と大陸側集団が半島南端で混血していたが分かった。
藤尾慎一郎「日本列島がまだ縄文前期の時代に、すでに朝鮮半島内に渡来系弥生人とそっくりの混血状態の人がいた点が興味深い」。彼らは、半島南端に3000年間とどまり続けた。
愛知県・朝日遺跡は混血の少ない渡来系。そこから東へ100㎞の伊川津貝塚の朝日遺跡より200年前(弥生前期)の人骨は縄文系。ほぼ同時期に併存していた。朝日遺跡は遠賀川系土器、伊川津貝塚人は条痕文系土器。中間に位置する松河戸遺跡の土器は両者の折衷様式の土器。
古墳に眠る人々の家族関係
古田彩(編集部) 協力: 清家章(岡山大学)/神澤秀明(国立科学博物館)
弥生時代に続く3世紀半ばから6世紀末ごろまでを古墳時代という。倭国の統一政権であるヤマト王権が確立し,古代国家が形作られた時代だ。その中心地であった近畿地方をはじめ,東北から九州の広い範囲で古墳が作られたことからその名がついた。かつて「仁徳天皇陵」と呼ばれていた大仙陵古墳の巨大な前方後円墳が有名だが,ほかにも地域の首長や一般人を埋葬した大小様々な古墳が残っている。
1977年,現在の岡山県津山市にある丘陵で石を並べて作った石棺が出土し,中から人骨が見つかった。発掘調査を行ったところ,それは全長35mの前方後方墳(久米三成4号墳)の一部で,後方部と前方部の中央にそれぞれ石棺があることがわかった。
後方部にある第1の石棺には,30代から40代の男性と,やや若い20代から30代の女性が埋葬されていた。さらに,前方部にある第2の石棺にも,2人の人物が埋葬されていることがわかった。1人は50代の高齢女性で,もう1人は11歳前後の子どもである。
古墳は古墳時代の前期後半から中期の初めごろのもので,比較的小規模な集団の首長のものだと推定された。第1の石棺に埋葬された男性が首長とみられるが,それ以外の3人が誰なのか,当時はまったくわからなかった。
近年,この4人の関係について,新たな手がかりが得られた。第1の石棺に埋葬されていた男性と女性の大臼歯から核DNAを取り出して解析したところ,親子である可能性が高いとわかった。また第2の石棺に埋葬された11歳前後の子どもは女児で,やはり第1主体部の男性と親子の関係にあると推定された。つまり,第1の石棺の女性と第2の石棺の女児は姉妹だったのである。
ところがこの2人のミトコンドリアDNAを調べたところ,ハプログループが異なっていた。ミトコンドリアDNAは母から子へと伝えられるため,母を同じくする姉妹ならハプログループも一致する。ハプログループが異なるこの2人は,異母姉妹ということになる。
古墳にはしばしば複数の人が埋葬されている。彼らがどんな関係にあったのかは古代の社会構造や権力の継承を解き明かす鍵になるとみられ,長年議論の的になってきた。近年目覚ましく発展したDNA解析技術が,この問題に新たな光を当てている。
キョウダイ原理による埋葬。古墳時代前期においては、古墳に一緒に埋葬されるのは、兄弟姉妹を中心とした血縁者のみであった。初葬者の男女比は半々で、当時は父系でも母系でもなく、双系社会であったことがうかがえる。
古墳時代中期になると、首長墓の初葬者が男性である例が多くなり、双系から父系に変化したとみられる。韓半島での戦争で男性が戦場で戦ったことが影響したとみられる。
初葬者がもっぱら男性となり、その子や兄弟が同じ墓に埋葬されるようになる。兄弟間の地位の格差は小さく、父の首長位を兄弟が継承して共同で統治していたとみられるが、一方が独立して新たな首長系譜を作り、別の古墳に埋葬されることもあった。
死後は実家に戻る。結婚によって入ってきた婚入者は、出身の集団に戻って埋葬されたと考えられる。帰葬。夫婦は別々に埋葬される。藤原道長は宇治市にある藤原氏の墓、木幡墓・宇治陵に埋葬された。妻の倫子は父の源雅信と仁和寺に葬られている。道長の娘で皇后の二人は木幡墓に葬られた。
帰葬は鎌倉時代まで行われていた。
和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡。古墳時代5世紀後半から6世紀後半、一般の人々(漁労民)が埋葬された墓地。ミトコンドリアDNAはほとんどがM7a1aあるいはN9b1という縄文系。キョウダイ原理による埋葬。
第3号石室の中年男性は誰とも一致しない。三浦半島から磯間に移住して、妻をめとり、生まれた男児に先立たれ、出身地の方法(膝を曲げ脚を開いた形で頭骨を外される)で埋葬された、とみられる。