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読書メモ DNAが語る古代ヤポネシア 日経サイエンス2024年2月号 

2024年08月20日 21時00分20秒 | 歴史

縄文人の痕跡を現代人に探る ゲノム科学で迫る先史時代

2023年12月24日 日本経済新聞 日経サイエンス(科学ジャーナリスト 内村直之)

詳細は12月25日発売の日経サイエンス2024年2月号に掲載

(🍓出雲は縄文度が高いことは方言を例えにも以前から指摘されるが、その経緯は。)

 

かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。

縄文人は渡来人が来るまでの間、1万年以上も他の人類集団の流入がないまま孤立して暮らしていた。この間に、縄文人のゲノムには縄文人特異的な変異が蓄積したと考えられる。研究チームは、現代の日本人集団が持つ特異的な変異の中から、より古い時代に生じた変異を特定し、縄文人由来の変異を遺伝学的に絞り込む解析手法を開発した。

縄文人由来変異を探すためのデータとして、国際協力プロジェクトである「1000人ゲノムプロジェクト」の日本人集団(103人)を含む26集団のデータと「韓国個人ゲノムプロジェクト」(87人)のデータを用いた。約170万個の日本人特異的な変異の中から、今回の解析手法で20万8648個の縄文人由来と考えられる変異を絞り込んだ。

研究チームは次に、この縄文人由来変異を手がかりにして約1万人の現代日本人のゲノムデータを解析し、縄文人由来変異の保有率の違いを県別に調べた。その結果、地方ごとに大きな違いが明らかになった。大橋教授は「縄文人らしさの割合について、その地域的差異が現代でもはっきりと残っているのは面白い」と話す。

さらに渡部特任助教らは現代日本人のゲノムを「縄文人由来」と「渡来人由来」に分類し、それぞれの遺伝要素と現代日本人の体質の関係性を調べた。縄文人由来と渡来人由来の遺伝要素の違いで生まれる体質の定量的な差をみると、縄文人では血糖値と、高血糖状態を表すHbA1C値、中性脂肪が大きな値だった。一方渡来人では身長、炎症の強さの指標となるCRP値、免疫で重要な役割をする好酸球の量が高かった。

身長は古人骨の形態からも渡来人の方が高いことがわかっている。血糖や中性脂肪関連の値の高さは採集狩猟民である縄文人の食生活に関係するとみられた。食べ物不足に備えて栄養をため込む「倹約遺伝子」的な働きだ。一方、CRP値や好酸球の数が示す免疫反応の強さは感染症への対抗に有効で、定住する農耕民の渡来人には重要だったとみられる。

過去には役立った倹約遺伝子や免疫の性質は、現代では疾患の要因になっている可能性がある。地域別に縄文人由来変異の保有率と現代の5歳児の肥満率の相関を調べると、縄文人らしさの高い地域の方が高い肥満率だった。また、好酸球が関係すると思われるぜんそく患者重症化率と縄文人由来変異保有率の相関を見ると、縄文人らしさが低い地域ほど重症化しやすかった。これらの結果について渡部特任助教は「縄文人由来変異で疾患の地域的勾配を説明できていると考えられる。今回の解析手法の答え合わせとして興味深い」と話す。

縄文人の痕跡は遺跡の中だけでなく、現代の私たちの体内に残っている。現代人のゲノムから祖先の姿を探る先史時代への新たなアプローチを通じて、私たちのルーツに関する新たな知見がこれからも見つかりそうだ。

 

日経サイエンス2024年2月号 DNAが語る古代ヤポネシア

ゲノムで見る躍動の弥生時代

出村政彬(編集部) 協力:篠田謙一/神澤秀明(ともに国立科学博物館) 藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館) 濵田竜彦(鳥取県)

 

田んぼに水が張られ,青々とした稲の葉が育ち,秋には黄金色の稲穂が首を垂れる。水田のある景色は「日本の原風景」の1つに数えられることが多い。しかしこの光景が日本列島に人が住み始めた当初からあったわけではないことは,学校で歴史を習った人なら誰でも知っているだろう。

弥生時代は変化と多様性に富んでいた。日本列島に暮らす人々の営みが採集狩猟から稲作へと根本的に変化し,大陸からの渡来人と,縄文時代から列島に住んでいた縄文人の子孫が混血した新たな人類集団が生まれた。しかしこうした変化がどうおきたかや,当時の人々がどんな暮らしをしていたかはいまだにわからない点が多い。

遺跡から出土する土器や木工品,そして埋葬された人骨。弥生時代を目撃した品々はどれも文字情報を伴っておらず,とても寡黙だ。そのため,考古学者たちは長年にわたって丁寧な観察と緻密な解釈を積み重ね,出土品が秘める証言を読み取ってきた。2018年から2023年にかけて国立科学博物館や国立歴史民俗博物館,国立遺伝学研究所などが行ってきた日本列島に暮らす人々のルーツを探る研究プロジェクト「ヤポネシアゲノム」では,従来の考古学にゲノム解析という自然科学の手法を加えた。遺跡から出土する古代人の骨に自らの由来を語らせることで,弥生時代の人々の生きざまがこれまで以上に明らかになってきている。

青谷上寺地遺跡の13人は現代日本人の集団とほぼ同じエリア。

青谷上寺地遺跡32人のミトコンドリアのハプログループは10種類以上のグループにまたがっており、ほとんど「赤の他人」だった。各地から人が集まる「ビジネス街」。

ミトコンドリアのハプログループ13種類のうち縄文人系統(M7a)はたった1つで、他は現代東アジアの大陸部で報告されている系統。

西遼河をルーツとする渡来人は、そのままでは稲作を携えて日本列島に渡来することはできない。

「酒に弱い体質」は中国北部では珍しく、南部の人で多く見られる。ALDH2遺伝子の正常型が多いのは東北・北海道・九州、少ないのが近畿・中国・東海地方。

朝鮮半島南端に住んでいた人々。釜山市の加徳島にある6300年前のジャンハン遺跡の人骨はゲノム解析により縄文人と西遼河起源の大陸側集団の間の位置にある。近くの人骨からも、縄文人などの在来系(古代東アジア沿岸集団系)と大陸側集団が半島南端で混血していたが分かった。

藤尾慎一郎「日本列島がまだ縄文前期の時代に、すでに朝鮮半島内に渡来系弥生人とそっくりの混血状態の人がいた点が興味深い」。彼らは、半島南端に3000年間とどまり続けた。

愛知県・朝日遺跡は混血の少ない渡来系。そこから東へ100㎞の伊川津貝塚の朝日遺跡より200年前(弥生前期)の人骨は縄文系。ほぼ同時期に併存していた。朝日遺跡は遠賀川系土器、伊川津貝塚人は条痕文系土器。中間に位置する松河戸遺跡の土器は両者の折衷様式の土器。

 

古墳に眠る人々の家族関係

古田彩(編集部) 協力: 清家章(岡山大学)/神澤秀明(国立科学博物館)

 

弥生時代に続く3世紀半ばから6世紀末ごろまでを古墳時代という。倭国の統一政権であるヤマト王権が確立し,古代国家が形作られた時代だ。その中心地であった近畿地方をはじめ,東北から九州の広い範囲で古墳が作られたことからその名がついた。かつて「仁徳天皇陵」と呼ばれていた大仙陵古墳の巨大な前方後円墳が有名だが,ほかにも地域の首長や一般人を埋葬した大小様々な古墳が残っている。

1977年,現在の岡山県津山市にある丘陵で石を並べて作った石棺が出土し,中から人骨が見つかった。発掘調査を行ったところ,それは全長35mの前方後方墳(久米三成4号墳)の一部で,後方部と前方部の中央にそれぞれ石棺があることがわかった。

後方部にある第1の石棺には,30代から40代の男性と,やや若い20代から30代の女性が埋葬されていた。さらに,前方部にある第2の石棺にも,2人の人物が埋葬されていることがわかった。1人は50代の高齢女性で,もう1人は11歳前後の子どもである。

古墳は古墳時代の前期後半から中期の初めごろのもので,比較的小規模な集団の首長のものだと推定された。第1の石棺に埋葬された男性が首長とみられるが,それ以外の3人が誰なのか,当時はまったくわからなかった。

近年,この4人の関係について,新たな手がかりが得られた。第1の石棺に埋葬されていた男性と女性の大臼歯から核DNAを取り出して解析したところ,親子である可能性が高いとわかった。また第2の石棺に埋葬された11歳前後の子どもは女児で,やはり第1主体部の男性と親子の関係にあると推定された。つまり,第1の石棺の女性と第2の石棺の女児は姉妹だったのである。

ところがこの2人のミトコンドリアDNAを調べたところ,ハプログループが異なっていた。ミトコンドリアDNAは母から子へと伝えられるため,母を同じくする姉妹ならハプログループも一致する。ハプログループが異なるこの2人は,異母姉妹ということになる。

古墳にはしばしば複数の人が埋葬されている。彼らがどんな関係にあったのかは古代の社会構造や権力の継承を解き明かす鍵になるとみられ,長年議論の的になってきた。近年目覚ましく発展したDNA解析技術が,この問題に新たな光を当てている。

 

キョウダイ原理による埋葬古墳時代前期においては、古墳に一緒に埋葬されるのは、兄弟姉妹を中心とした血縁者のみであった。初葬者の男女比は半々で、当時は父系でも母系でもなく、双系社会であったことがうかがえる。

古墳時代中期になると、首長墓の初葬者が男性である例が多くなり、双系から父系に変化したとみられる。韓半島での戦争で男性が戦場で戦ったことが影響したとみられる。

初葬者がもっぱら男性となり、その子や兄弟が同じ墓に埋葬されるようになる。兄弟間の地位の格差は小さく、父の首長位を兄弟が継承して共同で統治していたとみられるが、一方が独立して新たな首長系譜を作り、別の古墳に埋葬されることもあった。

 

死後は実家に戻る。結婚によって入ってきた婚入者は、出身の集団に戻って埋葬されたと考えられる帰葬。夫婦は別々に埋葬される。藤原道長は宇治市にある藤原氏の墓、木幡墓・宇治陵に埋葬された。妻の倫子は父の源雅信と仁和寺に葬られている。道長の娘で皇后の二人は木幡墓に葬られた。

帰葬は鎌倉時代まで行われていた。

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡古墳時代5世紀後半から6世紀後半一般の人々(漁労民)が埋葬された墓地。ミトコンドリアDNAはほとんどがM7a1aあるいはN9b1という縄文系。キョウダイ原理による埋葬。

第3号石室の中年男性は誰とも一致しない。三浦半島から磯間に移住して、妻をめとり、生まれた男児に先立たれ、出身地の方法(膝を曲げ脚を開いた形で頭骨を外される)で埋葬された、とみられる。


礼文町郷土資料館①縄文人として初のゲノム解析をされた船泊縄文人

2024年08月20日 09時00分38秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町大字香深村字ワウシ。礼文町町民活動総合センター「ピスカ21」。

2022年6月17日(金)。

「北のカナリアパーク」を見学後、礼文島一周の定期観光バスの終点である香深フェリーターミナルに12:30ごろ着いた。トレッキングのスタートとなる桃岩登山口へは香深港13時25分発・33分着の路線バスを使い、帰途は徒歩で下山することにした。

2020年ごろラジオで知った日本の縄文人として初めてゲノム解析された船泊縄文人の展示に関心があった礼文町郷土資料館の見学は、路線バスに乗車するまでの時間を充当することにして、香深フェリーターミナルから徒歩1分ほどの礼文町郷土資料館へ向かった。

礼文町船泊遺跡は、島北部の船泊湾に面した船泊砂丘の西側にあり、久種湖と海岸の間に出来た高さ10m前後の砂丘上に立地し、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡として知られていた。

1998年に行われた町教育委員会の発掘では、貼床などを伴う生活面24基、墓壙24基、土壙19基、屋外地床炉29基、集石炉58基などが検出された。遺物は縄文時代後期中葉の船泊上層式が中心で、この時期は、南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様が見られる。

埋葬された人骨には、ビノスガイの貝殻で作られた貝玉がたくさんつけられており、他の遺跡ときわだった特徴がある。これらの人骨は、顔を東に向け四肢を曲げた屈葬と呼ばれる姿勢で埋葬された。副葬された貝玉はネックレス・ブレスレット・アンクレットとして用いられた。腰飾に縫い付けられた場合もあったようである。

大量の貝製平玉とそれを作るために使われた長さ1cm余りのメノウ製のドリルが1万点以上出土した。貝玉の原料となるビノスガイの貯蔵庫や貝玉作りの作業所もあり、明らかに交易用の貝玉製作が組織的に行われたようである。

このような貝玉作りの村である船泊遺跡の7号人骨の胸元から、長さ7.8cm、幅3.2cmの大型ヒスイ大珠が出土した。ヒスイの原産地は新潟県糸魚川地方と考えられ、礼文島まで直線距離にして1000km以上もある。船泊遺跡の貝殻装飾品のなかには南海産のイモガイ製ペンダント、タカラガイの装飾品、マクラガイのブレスレットが出ており、当時、遠隔地間において積極的な交易があったことが窺がえる。

今から約3500〜3800年前の縄文時代後期,北海道の礼文島北部の海岸沿いの集落で,ひとりの女性が亡くなった。後に船泊遺跡と呼ばれるこの集落に住んでいた人々の多くと同様,彼女は貝で作ったブレスレットやアンクレットを身に着けた状態で埋葬され,長い眠りについた。

 だがその遺骨は,1998年の船泊遺跡の大規模調査によって発掘され,再び日の目を見ることになった。研究者たちを驚かせたのは,その骨の保存状態の良さである。まるで最近埋葬されたかのように,全身がほぼ完全な形で残っていたのだ。

「船泊23号」と名付けられたこの女性は2019年,最新技術によって,骨に残ったDNAが詳しく調べられた。彼女はゲノム全体を現代人並みの精度で解析された初の縄文人となり,顔かたちや体質,婚姻関係,そしてヤポネシア(日本列島)に来る前に東アジア大陸にいたときのルーツまで,多くのことを語り始めた。

『新版 日本人になった祖先たち』篠田謙一2019。

プレスリリース  2019年(平成 31 年) 5 月 13 日 国立科学博物館

遺伝子から続々解明される縄文人の起源  ~高精度縄文人ゲノムの取得に成功~

独立行政法人国立科学博物館(館長:林 良博)の研究員を筆頭とする国内 7 研究機関 11名からなる共同研究グループが、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した約 3,800 年前の縄文人の全ゲノムを高精度で解読しました。この結果、古代日本人DNA研究が大きく進み、日本人の起源が解明されることが期待されます。

 

日本ではこれまで現代人と同じ精度での古代人ゲノム解析は行われていませんし,アジアでも今回の縄文人の解析が最初のものとなります。

縄文人は日本列島で 16000 年前から 3000 年前まで続いた縄文時代の狩猟採集民で、われわれ現代人にも遺伝子を伝えています。この縄文人の起源と成立について,これまで東南アジア起源あるいは北東アジア起源が考えられてきましたが,その詳細については依然として明確ではありません

船泊23号女性人骨の高精度な全ゲノムから,アルコール耐性や皮膚色など複数の形質を推定しました。これらの情報を元にした船泊縄文人の復顔については昨年発表を行いました。

今回の研究では,日本の古代人で初めて HLA のタイプを明らかにしています。HLA はヒトの体の中で重要な免疫機構として働くだけでなく,近年では多くの疾患とも関連していることが明らかになりつつあります。どのような HLA のタイプがいつから日本列島に存在しているかを確かめることは,日本人の起源だけではなく、我々の持つ様々な疾患に対する理解を進めることにもつながります。

さらに,疾患関連の変異として CPT1A 遺伝子の Pro479Leu 非同義置換も検出されました。このアミノ酸の変化は高脂肪食の代謝に有利で,北極圏に住むヒト集団ではこの変異した遺伝子の頻度は70%を超えています。しかし現代日本人には,この変異はほぼ存在しません。

船泊遺跡から出土した遺物の分析では,船泊縄文人の生業活動は狩猟・漁撈が中心であったことが示されており,この変異は彼らの生活様式と関連していた可能性があります。考古遺物から推定される彼らの生活が,遺伝子からも裏打ちされたことになります。

古代ゲノムは,これまでの研究からはうかがい知ることの出来なかった,古代人の性質をも明らかにしました。

ゲノムの遺伝的多様性が低いことから,縄文人の集団サイズは小さく,それが過去5万年間に渡って継続していたことが明らかとなりました。縄文人につながる人々は,歴史上集団のサイズを大きくすることはなく,少人数での生活を続けていたようです。このことも,狩猟採集民である縄文人の生活様式と関連している現象だと考えられます。

アジアにおける船泊縄文人の系統的位置は先行研究の結果と一致し,アメリカ先住民を含む東ユーラシア集団の中で,船泊縄文人は系統的には,最も古い時代に分岐したことが示されました。ただし,パプア人や4万年前の中国の古代人である田园洞人が分岐した後に分岐したことも明らかになりました。このことは,縄文人の系統が比較した大陸の集団から長期に渡って遺伝的に孤立していたことを示しています。

しかしその一方で,ウルチ,韓国人,台湾先住民,オーストロネシア系フィリピン人は,日本列島集団と同様に,漢民族よりも遺伝的に船泊縄文人に近いことが示されました(図2)。

図2.船泊23号と世界中の現代・古代人との遺伝的親和性。縄文人と東アジア沿岸部周辺の現代人の間に遺伝的親和性があることを示しています。

東アジアの沿岸の南北に広い地域の集団が船泊縄文人との遺伝的親和性を示すという事実は,東ユーラシアにおける地域集団の形成プロセスを知るための手がかりを提供しており,大変意義深いものです。

今回の高精度の縄文人ゲノムは,今後の古代日本人 DNA 研究の基本となる参照配列となることが期待されます。

私たち現代日本人は,縄文人と弥生時代以降の渡来人の混血によって形成されたと考えられていますが,その過程の中で縄文人からどのような DNA を受け取り,また受け取らなかったのか,ということを明らかにすることは,私たち日本人を理解する際に重要な情報を提供します。今後のゲノム解析は,従来の研究方法では知ることの出来なかった私たちの特性を明らかにするはずで,その中で船泊縄文人のゲノムデータは大きな価値を持つと考えられます。

 

全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明 2015年             

篠田 謙一  独立行政法人国立科学博物館,

縄文人の普遍的に存在し、日本の基層集団を特徴付けるハプログループであるM7aとN9bには現代人にはない系統が含まれることが明らかとなった。また、それぞれが地域的な分化を遂げていることも判明した。この結果は縄文人が列島の内部で広範に遺伝的な交流を行っていたわけではなく、地域的に異なる集団として存在していたことを示唆しており、従来の「均一な縄文人」という概念を覆すものである。

更に、これまでミトコンドリアDNAのハプログループ分析に成功した個体でHiSeq を用いた全ゲノム解析を行った。解析の対象としたのは、北海道、東北、関東の遺跡から出土した縄文前期~後期の人骨のDNAで、全ゲノムデータからSNPデータを抽出し、現代人との比較を行った。その結果、北海道のアイヌ集団に有意に近いのは、北海道礼文島の縄文人であることが判明した。これは縄文時代から続く北海道集団の遺伝的な連続性を示す結果である。また、関東、東北、北海道の縄文人は互いに遺伝的に近似するが、いずれも現代の日本列島及び中国大陸との集団との違いは大きいことも再確認された。

縄文人は、東アジアの現代人集団と比較すると、極めて特異な遺伝的構成を持つ集団であり、その起源について現代人のDNAデータのみから推察することは困難である。我々の分析では縄文人と共通のSNPは、東南アジア~東アジアの集団に広く薄く共有されていることも示されており、彼らの起源地は特定の地域に収束するのではなく、アジアの広い地域から長い年月をかけて到達した人びとが、列島の内部で混合しながら形成されていった可能性があることが明らかとなった。

 

日本の北海道における船泊遺跡からの後期縄文時代の男女ゲノム配列 J-GLOBAL 2019年Anthropological Science 127  号(翻訳著者抄録)

日本北海道の船泊縄文人は3500~3800年前に狩猟生活していた。本研究では,船泊縄文女性(F23)男性(F5)からそれぞれ高深度および低深度で核ゲノム配列を決定した。F23の核DNAの遺伝子型決定し,ヒト白血球抗原(HLA)クラスI遺伝子型と表現型形質を決定した。さらに,CPT1A遺伝子の病原性突然変異がF23とF5の両方で同定された。突然変異は高脂肪食の消費に対し代謝的利点があり,その対立遺伝子頻度は北極集団において70%以上であるが,他の場所では存在しない。この変異体は,陸上および海洋動物を狩猟し漁業をしていた,船泊縄文人のライフスタイルに関連している可能性がある。F23において高い近交度(HBD)を認めたが,10cMより長いHBDは非常に限られており,北部縄文集団の集団サイズは小さいことが示唆された。

著者らの分析は,縄文人の人口サイズが,約50000年前に減少し始めたことを示唆した。F23,現代/古代ユーラシア人,およびネイティブアメリカンの系統発生関係は,東ユーラシアにおけるF23の深い拡散を示し,おそらく東ユーラシアからのネイティブアメリカンの祖先の分割の前に,北縄文人が長期間にわたって大陸東ユーラシアから遺伝的に分離されたことを示した。興味深いことに,著者らは,現代の日本人と同様に,ウルチ,韓国,原台湾,およびフィリピンの個体群が,中国の中国人よりもF23に遺伝的に近いことを見出した。さらに,F5のY染色体はハプログループD1b2bに属し,現代の日本人集団において稀である。これらの知見は,東ユーラシアにおける古代ヒト集団構造の歴史と再構築への洞察を提供し,F23ゲノムデータは将来の研究のための縄文参照ゲノムと考えられる。(翻訳著者抄録)

 

北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した。

日本人は『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授植原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。この『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』は日本人(大和民族)及び沖縄人(琉球民族)とアイヌ人や本土日本列島奄美群島及び琉球列島と千島列島の3集団に多く見られるタイプである。国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島などで低頻度にみられる

このハプログループD1a2aはアイヌ人の75%に見られることから、D系統はかつての縄文人(旧石器時代のシベリア)のものであると考えられている。

但し縄文人のハプログループがD1a2aだけだった訳ではなくハプログループC1a1も縄文人由来と考えられている。ハプログループC1a1は拡散年代と縄文文化開始の時期が一致しており、今後の研究いかんによっては初期の縄文人の主要なDNAとなる可能性がある。C1a1は日本人固有であり、現在の日本ではおよそ5%の頻度で発見されている。

礼文島 桃岩 猫岩 北のカナリアパーク


国債費、過去最大28兆円計上へ 金利2.1%想定、利払い増 25年度概算要求

2024年08月20日 07時59分59秒 | 社会

国債費、過去最大28兆円計上へ 金利2.1%想定、利払い増 25年度概算要求

Yahoo news  2024/8/19(月)  時事通信

 

 財務省は2025年度一般会計予算の概算要求で、借金である国債の元本返済と利払い費に充てる国債費として、過去最大の28兆9116億円を計上する方針であることが19日、分かった。

 

【ひと目でわかる】利払い費・金利と国債残高の推移

 日銀の政策修正を受けた長期金利の上昇を反映させ、国債利払い費を算出する際に使う想定金利を2.1%まで引き上げるため。利払い負担の増加で一段と財政が圧迫され、政策の幅が狭まることは避けられない。

 

 想定金利は、過去の経験を踏まえて足元の金利水準に1.1%ほどの急騰リスク分を加味して算定する。当初予算段階で23年度までは7年連続で過去最低の1.1%だったが、24年度は1.9%とし、17年ぶりに引き上げた。同年度の概算要求時の想定金利は1.5%だった。長期金利の上昇圧力が強まっているため、25年度は想定金利をさらに引き上げる。