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福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」④奈良・平安時代 蕨手刀 獣脚鋳型 製鉄遺跡 

2024年08月03日 13時58分05秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

蕨手刀。奈良時代。観音山北横穴墓出土。西白河郡泉崎村。

観音山横穴墓群は、東北自動車道建設に伴なって昭和44年に発掘調査が実施され合計20基の横穴墓が調査され、3号墓からは蕨手刀が出土している。この横穴墓群の年代は7世紀後半代から8世紀にかけてと推定される。

「蕨手刀」は、柄の尖端が丸く湾曲し、芽を出したワラビの姿に似ていることから名づけられた古代の鉄刀である。刃と柄が一体となった共造りであることも特徴の一つである。

現在知られている蕨手刀は7世紀後半~9世紀にかけての東北地方や群馬・長野県の遺跡から出土することが多く、かねて「蝦夷の刀」として紹介されてきたが、近年の研究では異なる実態が見えてきている。とくに福島県域で発見された蕨手刀は7世紀後半~8世紀に比定されるものが多く、古代における東北経営と深く結びついている様子が伺われる。

泉崎村に所在する関和久(せきわぐ)官衙遺跡は、7世紀末から10世紀後半にわたって古代白河郡(現在の福島県南地方と石川町の一部)を統治していた白河郡衙跡で、728年から11世紀の陸奥国多賀城に駐屯した軍団の一つである白河団(白河軍団)の所在地とされる。

獣脚鋳型。平安時代。向田A遺跡。新地町駒ヶ嶺字向田。

獣脚は、鋭い爪が邪気を払うという考えから、ネコ科動物の脚をかたどった仏具の脚部を指す

向田A遺跡は、太平洋沿岸の丘陵上に位置し、製鉄炉7基、木炭窯 16 基、鋳造遺構6基、須恵器窯1基、住居跡6軒、土坑 21 基などが確認され、7世紀後半から9世紀後半にわたる製鉄関連遺跡であることが判明した。

このうち、鋳造に関するものでは、9世紀代の鋳造溶解炉 ( 甑炉 )、鋳型焼成場、鋳型等廃棄場などが確認され、すべて鉄の鋳造に関わる。

羽口などの製鉄関連遺物に混じって、特筆される遺物として鋳型類がみつかっている。鋳型類には、獣脚、器物、梵鐘(龍頭)等がある。

獣脚鋳型。平安時代。山田A遺跡。相馬市大坪字山田。

調査の結果、製鉄炉5基、木炭窯 14 基、鋳造遺構6基、木炭置き場1基、住居跡3軒、土坑 10 基などが確認され、9世紀前半の鋳造遺跡であることが判明した。

鋳造に関するものでは、2号鋳造遺構として溶解炉と作業場、廃棄場が確認され、獣脚や容器、風鐸、梵鐘、三鈷杵などの鋳型が多数確認された。これらの遺構もまた鋳鉄関連のものである

 

平安時代の鋳鉄製品-出土鋳型からの研究復元-(吉田秀享)まほろん研究紀要2005より抜粋。

これらの鋳鉄製品は、平安時代前期においていかなる用途があったのであろうか。

獣脚付容器 ( 羽釜タイプ ) は、その形状から湯釜の可能性が考えられる。奈良県川原寺では、7世紀後半~8世紀初頭の鉄製羽釜の上釜鋳型が確認され、口径 90 ㎝ほどの大きさから湯釜と推測されている ( 松村ほか 2004)。今回の復元品は直径 27 ㎝ほどと小さいため、湯屋での使用はできないものの、蒸気を発生させる道具 ( 主として精進潔斎のため ) と思われ、古代寺院の資材帳などに記載されている足釜に相当するものと考えられる。

次に、獣脚付容器 ( 獅噛タイプ)は、いわゆる火舎香炉であろう。鍋との考えもあるが、向田A・山田A両遺跡での容器鋳型と獣脚鋳型の出土数の割合や、容器鋳型の分類で示したように、ツバがつくものも含めて、改めてこれらを香炉と判断したい。

この他、風鐸や梵鐘は、その形状から用途は限られてくる。風鐸は寺院の塔あるいは金堂の軒先に垂下されるものであり、梵鐘は、たとえその大きさが半鐘であっても鐘は鐘であろう。

これらのことからは、向田A・山田A両遺跡で製作された鋳鉄製品は、寺院に関連する何らかの道具であったと考えられる。

山田A遺跡で生産された鉄製風鐸の供給先は陸奥国分寺が筆頭にあげられ、塔の改修の要請に応じて生産・納品されたのではないかと推定している。

この他、獣脚付容器などの鋳鉄製品も雑密系仏具と思われるので、同様の供給先であった蓋然性が高い。さらに、梵鐘に関しては、その音色の広がりにより仏法を知らしめるためのものであり、これもまた、国分寺などの寺院に納入された可能性が考えられる。

これらのことからは、向田A・山田A遺跡で主に生産されたものは、少なからず国分寺などの寺院に関連する雑密の鋳鉄製品であり、両遺跡が銑鉄生産から製品生産まで一貫した鋳鉄工場であったと判断できる。

そして、その背景には「金光明最勝王経」や「妙法蓮華経」をベースに、鎮護国家のため、仏教を前面に押し出した聖武天皇の国策を引き継いだ国府クラスが垣間見え、これらの要求に応えるために郡司層により雑密系仏具が生産された官営工場ではないかと思われる。しかしながら、本製品が納められた直後には、最澄・空海が中国から学んだ密教 ( 純密)が次第に広まり、これらが密教法具に取って代わられるのである。

 

平安時代の鉄づくり。

古墳時代終末期~平安時代前半(7世紀後半~ 10世紀)には、浜通り地方の丘陵地で海岸から採取した浜砂鉄を原料にした鉄生産が行われ、新地町武井地区製鉄遺跡群や南相馬市金沢地区製鉄遺跡群等の大規模な製鉄遺跡が見つかっている。また、この時期の鉄器生産は郡衙の連房式竪穴において集約的に行われている。

福島県の浜通り地方には古代の製鉄関連遺跡が多く存在するが、その中でも北部に当たる相馬地方には 210を超える製鉄関連遺跡が存在し、国内でも有数の製鉄関連遺跡集中地区の一つに挙げられる。新地町武井地区製鉄遺跡群、相馬市大坪地区製鉄遺跡群、南相馬市金沢地区製鉄遺跡群・川子地区製鉄遺跡群・割田地区製鉄遺跡群・蛭沢製鉄遺跡群・川内廹遺跡群・横大道製鉄遺跡群などが調査され、横大道製鉄遺跡は平成 23年2月に国史跡に指定された。

一方、双葉地方やいわき地方でも、浪江町北中谷地遺跡・太刀洗遺跡、富岡町後作B遺跡、楢葉町南代遺跡、いわき市磐出館跡・清水遺跡などが調査されている。

これらの遺跡は、7世紀後半以降、中央政権による東北開発・支配が活発化することにより、その一環としての鉄器・鉄の現地生産が行われる過程で営まれたものと推測される。特に、8世紀後葉に中央政権が本格的な蝦夷征伐に乗り出し、8世紀後葉以降、鉄生産量が増大化するのはこの蝦夷征伐やその後のさらなる東北開発・支配と連動していると推測される。

 

「まほろん」見学後、白河関跡へ向かった。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」③弥生時代 天王山式土器 桜町遺跡 人面付土器 


北海道 標津町歴史民俗資料館③伊茶仁カリカリウス遺跡③トビニタイ文化 竪穴住居 チャシ

2024年08月03日 10時11分23秒 | 北海道

国史跡・伊茶仁カリカリウス遺跡。標津(しべつ)町伊茶仁(いちゃに)。

2022年6月15日(水)。

 

伊茶仁カリカリウス遺跡は崖上の台地にある。

伊茶仁カリカリウス遺跡。調査した地区の竪穴住居跡の一部を復元および木枠による表示により整備公開している。4号・6号住居跡を復元している。

擦文文化の竪穴は隅丸方形で、南東側の壁にカマドを設置し、中央部に地床炉をもつのが基本である。大きさは一辺が4〜10m位である。これに対して、オホーツク文化の竪穴は五角形ないし六角形で、コの字形の粘土貼り床をもち、石組み炉を有するのが基本である。大きさは長軸が10〜15mに及ぶ大型のものである。これらに対して、トビニタイ文化の竪穴は擦文文化の隅丸方形を踏襲し、オホーツク文化の石組み炉をもち、カマドや粘土貼り床は用いられないのが基本となっている。両者の融合がここに見られるのである。

タブ山チャシ跡。標津町字茶志骨。

カリカリウス遺跡の内部には1基のチャシの存在が確認されており、集落もチャシの関係を解明する上でも重要な遺跡である。チャシ・コツは砦址のこと。この付近に竪穴が多い。

タブ山チャシ跡は、根室海峡を望む崖際にU字状の壕が4基連なる多郭連結型のチャシ跡。1基あたりの規模は幅約40m、奥行約35mある。

遺跡の奥には車道がある。

帰路に着く。木道の周囲には水が多い。

見学後は、小清水町の小清水原生花園へ向かった。

北海道 標津町歴史民俗資料館②伊茶仁カリカリウス遺跡 トビニタイ文化 竪穴住居