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コロナ1年体内から消えず、再発繰り返し寝たきり…ネックになった国策定の「手引き」

2024年08月27日 19時32分17秒 | 社会

コロナ1年体内から消えず、再発繰り返し寝たきりに…治療のネックになったのは国策定の「手引き」

Yahoo news 2024/8/27(火)  読売新聞オンライン(中田智香子)

約1年の闘病を経てようやくコロナが完治した男性患者(左)と妻。「患者が取り残されないようにしてほしい」と訴える(大阪府守口市の関西医科大総合医療センターで)

 

 免疫力が弱いため昨春感染した新型コロナウイルスが1年近く体内から消えず、3度の症状再発に見舞われた大阪府の男性患者と妻(いずれも70歳代)が読売新聞の取材に応じた。異例の長期に及んだのは、国が有効な対処法を示していないためだ。同様のケースは他にもあり、患者らは「早急に対策を講じてほしい」と求める。

 

入退院繰り返す

 「50日も入院してやっと治ったのに、また?」

 昨年9月、男性の受診に付き添った妻は、2度目の「コロナ陽性」の診断に耳を疑った。5月に初めてかかり、入院での投薬治療を経て抗原検査で陰性となったが、退院から2か月弱でウイルスが再び増えていたのだ。その後も今春にかけて2度、再発による入退院を繰り返した。

 コロナは、投薬治療をすれば体内のウイルスが大幅に減り、わずかに残ったものも体の免疫力で撃退できる。だが、がんで免疫が弱った人のほかリウマチや臓器移植後などで免疫抑制剤を使う人は自力でウイルスを根絶する力が弱く、コロナが再発することがある。

 男性にも悪性リンパ腫の持病がある。ウイルスなどから体を守る免疫細胞ががん化しているため、コロナを治すのに通常よりも時間を要する。そのことは妻も医師から聞いていたが、「何度も陽性になるのは予想外だった」と語る。

 

転倒、せん妄

 深刻だったのは長期入院の影響だ。持続感染は男性から食欲や体力を奪い、体重が20キロも落ちた。長くベッドにいるせいで足腰も次第に弱っていった。

 年末に退院した時は何とか自力で歩けていたが、その後、妻が目を離した間に室内で何度も転倒。めっきり口数が減り、うわごとを言う「せん妄」の症状も出た。妻は「1年前は、見た目にはどこが病気かわからないくらいだったのに、あっという間に歩けなくなってしまった」と振り返る。

 

別の薬に効果

 転機は今年2月、関西医科大総合医療センター(大阪府守口市)で夫と同じ症例を多数診ていると、新聞記事で読んだことだ。「夫のコロナを治せるのでは」。4月、妻は転院を決めた。

同センターで改めて調べると、昨春に感染したとみられるウイルスが体内で変異し、特定の薬が効きにくくなる「耐性」が生じている可能性が浮上した。

 以前は入院するたびに同じ薬を使っていたが、同センターは、この薬は耐性のため効きにくいと判断。別の2種類の飲み薬を投与し、5月にはウイルスの「完全排除」に持ち込んだ。以来、再発はしていない。

 コロナからは解放されたが男性はほぼ寝たきりの状態で、入院生活が続いている。妻は「もっと早くコロナを治せていればここまで弱らずにすんだのでは。免疫に問題がある人の治療法を考えてほしい」と訴える。

 

免疫不全の患者への対応、今秋にも公開

 感染症の治療では一般に、感染が長引くケースに対しては薬を変えて対処する方法が有効とされる。だが、標準的な治療法を示した国策定のコロナの「診療の手引き」にはこの対処法が書かれていない。

 コロナの薬は複数あるが、「手引き」は1種類で治ることを前提としている。複数の薬を使う治療を盛り込むには臨床試験(治験)が必要で、改訂には時間がかかるという。持続感染に関する記述がないため、保険適用外となる恐れがあり、多くの病院が二の足を踏んでいるとみられる。

 

 関西医科大総合医療センターでは8月25日までの直近1年間だけでも免疫不全のコロナ患者を84例治療。薬代の一部を病院の研究費でまかなう。中森靖副病院長は「感染が長引く間に持病が悪化し、亡くなる事例も見てきた。手引きがネックとなって命を救えないのは問題だ」と指摘する。

 この現状に対し、国立感染症研究所の鈴木忠樹・感染病理部長らのチームは今春、免疫不全の患者への対応をまとめた「診療指針案」を作成。今秋にも公開し、問題を周知したい考えだ。


稚内市開基百年記念塔・北方記念館①稚内港 稚泊連絡船(樺太航路)

2024年08月27日 09時01分40秒 | 北海道

稚内市開基百年記念塔・北方記念館。稚内市ヤムワッカナイ。

2022年6月18日(土)。

稚内港の北防波堤ドームと巡視船を見学したのち、南方の丘の上にある稚内市開基百年記念塔・北方記念館に向かった。

稚内市開基百年記念塔高さが80mで塔の展望室は海抜240mの地点にある。エレベーターで昇った展望室からは、天候に恵まれれば利尻島や樺太も見えるというが、生憎の曇天であった。

フェリーが入ってきた。

樺太(サハリン)方向。

さきほど見学した北防波堤ドームと巡視船「りしり」「もとうら」。

稚内港の防波堤ドームと巡視船を眺めていると、ちょうどフェリーが入港している場面に出会った。時刻表からすると、利尻からの便のようだ。防波堤に沿って港内に入り、回転して船尾から接岸するまでを見届けた。

稚内市街地方向。

その後、1階まで降りて北方記念館を見学すると、現在は内部が空洞である北防波堤ドームの一部が、稚内桟橋駅であり、その陸側に稚内港駅が存在していたことを知った。

1990年代後半に利尻山を登頂したときに、同行したM君と夜行寝台急行の「利尻」に札幌駅から乗車して稚内駅にやってきた。

「利尻」道北向けの代表的夜行列車で、札幌から宗谷本線を経由して日本最北端の地、稚内を結んでいた。

1958年10月1日、札幌駅 - 稚内駅間の夜行準急列車として運行を開始し、1966年3月5日に急行列車となった。1982年11月15日からは座席車に14系500番台客車が投入され、1983年4月25日から寝台車も14系に置き換えられた。

1991年3月16日からは、「宗谷」と共通のキハ400形・キハ480形気動車に14系寝台客車を併結する編成を初めて投入した。

2000年3月11日の宗谷本線高速化竣工に伴うダイヤ改正では、特急列車化され、座席車を「サロベツ」と共通のキハ183系に変更したが、引き続き14系寝台車を混結していた。

2006年3月のダイヤ改正では臨時列車化され、同年6月から夏季に特急「はなたび利尻」として運転されるようになったが、なおも利用が減少傾向にあることから、2008年4月にJR北海道が廃止を発表し、事実上2007年(平成19年)9月30日の運行を最後に廃止された。

ヘッドマークは急行時代から、海上に浮かぶ利尻島(利尻山)を描いたものを使用していた。

稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、1923年から1945年まで、日本の鉄道省により北海道の稚内と樺太の大泊の間で運航されていた航路(鉄道連絡船)である。

航路概要。稚内 - 大泊間:167.0 km(営業キロ:210.0 km)

所要時間:8時間(1928年、1934年12月当時)

運賃:1928年に一等7円50銭、二等5円、三等2円50銭。

宗谷海峡は冬になると流氷で閉ざされるため、就航船には砕氷船が使用された。厳冬期の大泊では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。

鉄道連絡船の性格上、宗谷本線の優等列車と接続するダイヤを組み、1938年からは稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内扱いに稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。また大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していた。なお、稚内から樺太への定期航路稚泊連絡船の他に北日本汽船経営の稚斗航路(稚内 - 本斗間)があり、こちらは樺太西線と接続していた。

最北端の稚内駅 北防波堤ドーム 巡視船「りしり」「もとうら」