礼文町郷土資料館。礼文町大字香深村字ワウシ。
2022年6月17日(金)。
旧石器時代。
礼文島に残された最初のヒトの痕跡は、旧石器時代末期のことである。この時期はまだ島ではなく、北海道やサハリンと陸続きになっていた。やがて温暖化によって周囲を海に囲まれて離島となり、縄文時代の中期後半になって最初の定住者である縄文人がやってきた。
縄文文化。
礼文島には現在13ヶ所の縄文時代遺跡が見つかっている。これらの遺跡の中は、古くは明治時代から知られる遺跡もあり、これまで何度も発掘調査が行われてきた遺跡も少なくない。中でも島の北にある上泊3遺跡、船泊遺跡、浜中2遺跡における発掘調査では、礼文島縄文人の生活、儀礼、交易などを物語る数多くの遺構や遺物が見つかっている。
上泊3遺跡は上泊地区の集落付近にある標高30m前後の段丘上にある。昭和59年に道路工事に伴う発掘調査が財団法人北海道埋蔵文化財センターによって行われた。礼文島に最初に定住した縄文人の暮らしがわかる貴重な資料として、特に学術的価値が高い637点の出土品が町の有形文化財に指定されている。
上泊3遺跡出土の土器は、筒型の形や粘土ひもの貼り付け、ゆるやかな波状の口縁などが特徴の土器群で、 こうした特徴を持つ土器は、北海道では渡島半島方面(函館などがある本州に近い場所)を中心に分布し、礼文島へやって来た縄文人の出身地を考える上で参考になる。円筒土器文化圏の最北限の集落跡である。
上泊3遺跡出土の石器・骨角器。大きな石・礫を加工したものには、斧や錘(おもり)、皿や砥石などがある。小さな剥片(大きな石を割ってできるもの)を加工したものには、鏃(やじり)、銛先、匙(さじ)、掻器などがある。銛先や錘・掻器などは漁に関するもので、海を中心とした暮らしを物語る。
浜中2遺跡は、北部船泊湾の奥、砂丘地帯の最も西側に位置する遺跡である。遺跡のある旧神崎小学校付近一帯は古くから知られる場所で、明治・大正時代の報告をはじめ、昭和から現在に至るまで学術的な発掘調査が行われている。
縄文時代晩期の土器。大型の深鉢や取っ手付きの鉢など、器体は薄手だが、非常に精巧に作られたものである。 北海道では主に南部で出土する。
続縄文文化。
縄文時代が終わり、本州では弥生時代に移行するが、北海道では農耕ではなく採集・狩猟を生活の基盤とする続縄文時代へと移行した。礼文島には現在、15ヶ所の続縄文時代遺跡が見つかっている。時代的には大きく前半と後半に分かれるが、これまでの発掘調査では主に前半の遺物が多く出土している。
擦文文化。擦文文化は、土師器の影響を受けた擦文土器、カマド付き住居の使用、鉄器の普及など、これまでの北海道の在地文化とは大きく異なる。礼文島では現在、12ヶ所の擦文時代遺跡が見つかっているが、発掘調査が行われた遺跡は数ヶ所しかない。香深井5・6遺跡では数少ない擦文文化の遺物が出土しているほか、久種湖周辺にある遺跡では複数の竪穴住居跡が見つかっている。
擦文土器の器形は、かめ形や深鉢形、坏形(高台が付くものもあり)がある。器体は薄手で表面には刷毛状の道具でこすった跡があり、これが「擦文」の名前の由来である。文様は、口縁部の細かな刻みや斜線・刻線などが特徴である。
擦文文化期後期の骨角器。
土器以外の遺物は決して多くはないが、海獣骨から作られた大型の銛頭、鳥の骨からつくられた骨鏃や刺突具など、これまで島内では見つかっていない貴重な骨角器が出土している。