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福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」③弥生時代 天王山式土器 桜町遺跡 人面付土器 

2024年08月02日 15時04分07秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

 

天王山式土器は、壺・甕・鉢・高杯などがある。天王山式土器を最も特徴づける文様は、沈線間に上下から刺突を加えた交互刺突文である。その他に、沈線による鋸歯文、連弧文、工字文、方形区画文、渦文、菱形文や、磨消縄文手法もみられ、磨消部に赤彩したものも存在する。

発見当時、他に類例を見ない特徴を有していたことから弥生土器の標式として、「天王山式土器」と名づけられ、現在、東北地方から北陸地方を中心に分布することが確認されている。

和泉遺跡。会津若松市和泉字下分。

弥生時代後期の、天王山式と呼ばれる土器が出土している。その後、古墳時代初めには、竪穴住居

が造られ、集落だったことがわかっている。

能登遺跡。会津坂下町勝大能登。

新鶴(にいつる)村から北流する宮川の支流出鶴沼(いづるま)川左岸に位置する。平成2年(1990)磐越自動車道建設に伴う発掘調査が実施され、おもに弥生時代と奈良・平安時代の遺構・遺物が発見された。弥生時代ではいわゆる天王山式期の土器が遺物包含層から多量に出土した。これらの土器群を構成する器種には壺・広口壺・甕・蓋などがあるが、なかでも広口壺の出土量が多い。煤の付着状況等から甕同様煮炊用具とされる。土器の表面は縄文土器的な文様で加飾されることが多く、とくに広口壺の口縁から頸部にかけてその傾向が強い。文様は口縁部下端に多用される交互刺突文や弧線などによる沈線文の組合せで描かれる。

桜町遺跡。湯川村。

湯川村の桜町遺跡は、会津盆地のほぼ真ん中に位置する弥生時代後期と平安時代を中心とした遺跡である。会津縦貫北道路建設に伴う発掘調査によって、弥生時代後期の方形周溝墓が7基確認され、その中から多くの弥生土器が発見された。方形周溝墓とは、遺体を埋葬する部分は土を盛り上げて塚状にし、その外周に溝を掘って四角形に区画した墓で、弥生時代前期後半に近畿地方で最初につくられ、その後、東日本に広がった。

桜町遺跡で出土した土器は壺形のもの(壺形土器)や台付きの杯形のもの(高杯)が多く見られ、中にはベンガラ(赤色酸化鉄)で赤く塗られた土器も含まれる。おそらくこれらの土器は、死者を弔う埋葬儀式などで供え物を入れたものと考えられる。

方形周溝墓から出土した弥生土器は、会津盆地の伝統のある縄文のついた土器(天王山式系)を主体としているが、北関東や北陸地方の弥生土器の特徴を取り入れた土器が多数あることから、この時期に人々の広範な地域間交流があったことがうかがわれる。

おそらくこの頃に会津盆地に定着した新たな集落が、水田稲作などの農業経営をもとにしながら比較的急速に成長し、次第に階層差が生じ、その中から権力をもった有力者が現れたと考えられる。方形周溝墓はこのような人物の墓として登場したと思われる。

近年、会津地方の古墳文化の成立には、北陸地方の強い文化的影響があったことが指摘されてきたが、桜町遺跡の調査成果は、その前段階に広範な地域交流があって、方形周溝墓が導入され、やがて会津若松市の会津大塚山古墳や会津坂下町の亀ヶ森古墳などの前方後円墳に代表される古墳時代を迎えることになったと考えられる。その点では、桜町遺跡の古墳時代直前の方形周溝墓の出現は、画期的な歴史事象と言え、桜町遺跡の弥生土器はそれを雄弁に物語っている。(当館 副主任学芸員 稲村圭一)

人面付土器。弥生時代中期。郡山市田村町徳定A 遺跡。

徳定A・B遺跡は、福島県郡山市田村町徳定・御代田に所在する。遺跡の場所は、JR郡山駅や郡山市役所の所在地を含む市街地の広がりの南東際の部分である。遺跡の範囲は多くが宅地化する一方で、南側から東側にかけては水田がひろがる。遺跡の西側には阿武隈川が北流し、その東岸沿いに広がる平坦地の微高地上に、遺跡は立地する。

弥生時代の埋葬方法には伝統の残存がみられる。縄文時代の終末から弥生時代中期前半まで造られた再葬墓(さいそうば)は、遺体を白骨にしたあと、骨を土器に入れて埋納する方法で、最も古い再葬墓が福島県の会津から中通りにかけて発見されているため、この地域で成立したと考えられている。

再葬の際に使う土器の中にしばしばみられる人面付土器も、縄文時代の土偶のなごりと言われており、田村町徳定遺跡で出土している。

このように、東北の弥生時代には、伝統的な縄文時代の要素と新たに取り入れた文物とが混在するという特徴がある。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」②縄文時代 


北海道 標津町歴史民俗資料館②伊茶仁カリカリウス遺跡 トビニタイ文化 竪穴住居

2024年08月02日 10時37分30秒 | 北海道

標津町歴史民俗資料館・ポー川史跡自然公園ビジターセンター。標津(しべつ)町伊茶仁(いちゃに)。

2022年6月15日(水)。

伊茶仁カリカリウス遺跡は、ポー川と伊茶仁川に挟まれた標高20mの台地に位置する。1200あまりの竪穴住居跡が台地縁辺部で観察され、縄文時代・オホーツク文化末期・トビニタイ文化・擦文文化の竪穴住居の構造が明らかにされている。

伊茶仁カリカリウス遺跡は、特にトビニタイ文化の遺跡があることが特徴である。オホーツク文化の人びとが内陸部への移動の第一歩を印した遺跡である。かれらは道東根室海峡側で、サケ・マス漁を主体とするトビニタイ文化を起こした先駆者であった。

竪穴住居は、新石器時代を代表する住居形式で、地面を掘り窪めて上に屋根をかけた半地下式の構造をしている。気密性と断熱性に優れた住まいとして長期間、選択されてきた。

擦文文化の竪穴は隅丸方形で、南東側の壁にカマドを設置し、中央部に地床炉をもつのが基本である。大きさは一辺が4〜10m位である。これに対して、オホーツク文化の竪穴は五角形ないし六角形で、コの字形の粘土貼り床をもち、石組み炉を有するのが基本である。大きさは長軸が10〜15mに及ぶ大型のものである。これらに対して、トビニタイ文化の竪穴は擦文文化の隅丸方形を踏襲し、オホーツク文化の石組み炉をもち、カマドや粘土貼り床は用いられないのが基本となっており、両者の融合がここに見られる。

標津遺跡群周辺には、80ヵ所に及ぶ湧き水の泉が存在する。地熱の影響を受けている湧き水は真冬でも決して凍ることがないため、人々はこの水を求め、竪穴住居を泉の近くに築いた

泉は動物たちにとっても貴重な場所で、特にサケの仲間にとっては、産卵床として重要である。大昔の人々は、この泉から水だけでなく、越冬の保存食として貴重なサケも手に入れることができたのである。「伊茶仁」は、アイヌ語で「サケが産卵するところ」を意味し、アイヌの人々も、 ここが多くのサケが集まる場所と認識していたことがわかる。

遺跡を発掘調査すると、あらゆる時代の竪穴住居跡から多量のサケ科魚類の骨がみつかる。しかしサケだけでは一年を通した暮らしは 支えきれない。遺跡を残した人々は、普段は根室海峡沿岸各所の様々な場所で、その土地の資源を手に入れて暮らし、秋サケ漁の時期になると、 沿岸一帯から標津遺跡群に集まり、皆でサケを獲って共同生活していたと考えられている。

ポー川史跡自然公園ビジターセンターの中にある標津町歴史民俗資料館を見学後、伊茶仁カリカリウス遺跡の見学に出かけた。センターの受付で熊鈴を借り、センター前にある自転車を無料で使用してください、と言われ、園内マップを貰い、自転車使用時の崖部迂回ルートも教えられた。自転車に乗ったが、遺跡入口までに前輪がふらついて3回転倒したので、あきらめて入口付近に置いて徒歩で向かうことにした。何故転倒したのか分からず、後日、焼尻島で自転車を借りたとき不安になったが、問題なく使えたので不思議だ。

伊茶仁カリカリウス遺跡入口。マップ①地点。

ポー川に架かる橋を渡るとカリカリウス遺跡のある台地に近づく。

崖を登って台地上に。

伊茶仁カリカリウス遺跡。

北海道 標津町歴史民俗資料館①伊茶仁カリカリウス遺跡 古代北方文化 トビニタイ文化