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北海道 苫前町 苫前町郷土資料館 三毛別ヒグマ事件

2023年11月02日 23時03分44秒 | 北海道

苫前町郷土資料館。北海道 苫前(とままえ)町苫前。

2022年6月21日(火)。

三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件復元地を見学後、苫前町郷土資料館を見学することにした。

応接室では、三毛別ヒグマ事件のドラマ映像を見ることができる。

獣害史上最大の惨劇「三毛別羆事件」。

苫前町は、明治20年代の後半になると原野の開拓が始まる。未開の原野への入植者は、掘立て小屋に住み、粗末な衣類を身につけ空腹に耐えながら開墾していった。

大正4(1915)年12月9・10日の両日、苫前町内三毛別の通称六線沢(現・三渓)で、15戸の部落にその不運は起きた

冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれる340㎏の巨大な羆が、空腹にまかせて次々と人家を襲い、臨月の女性や子供ら7人が食われるなどして犠牲となったのである。

1961年当時、古丹別営林署の林務官として苫前町内に勤務していた木村盛武が、「世界に類を見ない大事件が埋没してしまうのは学術的にも良くない」と考え、30数人の関係者から証言の聞き取りを行った。

木村が調査を行うまで、極寒の僻地で起こったことなどから発生当時の新聞報道も不正確な記述が多く、当事件に関する正確な記録は残っていなかった。事件発生から50年後の1965年 、証言をまとめた『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』で発表、 1994年には『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い熊』として書籍化された。

「羆嵐(くまあらし)」の著者。吉村昭。

苫前町は日本海に面する町だが、三毛別地区はやや内陸に入った農村部で、六線沢は中でも奥まった新しい開拓地で、民家は細長く沢沿いに点在していた。山の中ではヒグマの痕跡は多いが、当時でも人家付近まで出てくることは滅多になかったという。

それが11月上旬から下旬に計3回、池田家の軒下に吊したトウモロコシを夜中にクマが荒らした。さらに12月に入って松村家でも同様の被害があり、2人のマタギ(狩人)が発砲したが、傷を負わせただけで取り逃がした。足跡は見たこともない大きさだったという。すでに雪が降り始め、通常なら冬眠に入っている時期だ。

12月9日太田三郎家に残っていた内縁の妻阿部マユと養子に迎える予定だった蓮見幹雄(当時6歳)がヒグマに襲われた。幹雄の側頭部には親指大の穴が開き、すでに息絶えていた。ヒグマはマユの体を引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。妻マユをくわえて連れ去ったと推測されたが、加害クマを追跡するにはすでに遅い時間で、この日は日没が迫るなか住民たちに打つ手は無かった。

12月10日。午前9時頃、捜索隊が結成され、太田家から150㍍ほど離れたトドマツの付近で一行はクマを見つけた。余りにも近い場所からクマが出たのに驚いた一行は、慌てふためき銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはわずか1丁だけだった。

ヒグマが逃走したため、男性らがヒグマのいた付近を確認すると、トドマツの根元に黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見し、収容した。

12月10日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われたが、村民は「獲物があるとクマが来る」と、ヒグマの襲来におびえ、参列したのは親族ら9人だけだった。

午後8時半ごろ、ヒグマが太田家の壁を破って乱入してきた。棺桶が打ち返されて遺体は散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上ったり屋外に飛び出したりと、右往左往の大混乱となったが、出席者の1人が銃を撃ったので、クマはすぐ逃走した。

そのころ、太田宅から500mほど下流の明景家には戸主・明景安太郎(当時40歳)、その妻・明景ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の7人と、事件を通報するため30kmほど離れた苫前村役場や19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎(当時42歳)の妻で妊婦の斉藤タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の3人、そして事件のあった太田宅の寄宿人で男手として明景宅に身を寄せていた長松要吉(当時59歳)の合計11人がいた。

大人は男性1人と女性2人、あとは子供だった。他の集落などから来た若者や猟師らは、別の家に集結していた。

太田家の通夜を荒らしたヒグマは午後9時ごろ、明景家を襲った。「クマは火を怖がる」と信じられ、いろりに火を燃やしていたが、効果はなかった。

室内を逃げまどう子供たちが次々と頭や胸をかまれた。ヒグマに居間に引きずり出され妊娠中だった斉藤タケは「腹破らんでくれ。喉食って殺して」と叫びながら、胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた

駆けつけた村の男性らが鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出たのち裏山の方へと姿を消した。タケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという。

結果的にこの日の襲撃では、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害され、ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った。力蔵は雑穀俵の後ろに隠れ、ヒサノは失神し居間で倒れて生き残った。勇次郎は、母ヤヨや弟梅吉が重傷を負いながらも共に脱出し、奇跡的に無傷だった。

 

この夜の襲撃があって、六線沢集落の全15戸約40人の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになった。

12月12日、斎藤石五郎から通報を受けた北海道庁警察部(現在の北海道警察)は、管轄の羽幌分署分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、討伐隊の本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった。

ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案され、菅隊長はこの案を採用し、遺族と住民に説明した。こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された。

作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。

12月13日、歩兵第28連隊の将兵30名が出動した。この日、住民が避難し無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭い、猟師の山本兵吉(当時57歳)がそのうち1軒にヒグマが侵入するのを目撃したがヒグマの射殺には至らなかった。

午後8時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋(現在の射止橋)で警備に就いていた一人が、対岸の6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているのを不審に感じた。菅隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。

12月14日。朝、足跡と血痕を見つけた。怪我を負っているなら動きが鈍るはずと判断した菅隊長は、急いで討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定が下された。

前日、ヒグマの姿を目撃した山本は討伐隊の一行とは別行動で山に入った。

山本はヒグマを発見する。20mという至近距離まで接近した山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構え、 背後から発砲し命中させる。油断なく第二弾を装填した山本はヒグマの頭部を貫通させ射殺した。

ヒグマの死骸は住民によってそりで下された。すると、にわかに空が曇り雪が降り始め、事件発生からこの三日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わり、そりを引く一行を激しく打った。この天候急変を、村人たちは「羆嵐(くまあらし)」と呼んで語り継いだ。

集落に下されたヒグマを三毛別の分教場で解剖したところ、胃から人肉や衣服などが発見された。更に、解剖を見物しに来た人々が「このクマは太田宅を襲撃する数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3名の女性を殺害し食害に及んだクマである」と次々に証言、実際に胃の中からはそれを裏付ける彼女らが身に着けていたとされる衣服の切れ端なども見つかった。その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡ったのちに現在は行方不明になっている。

 

事件の教訓

火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたことが記録されている。これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。

執着心が強い トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマが三毛別でも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。その一方で、馬への被害は皆無だった。

逃げるものを追う 明景ヤヨらは、ヒグマが逃げる要吉に気を取られたため助かった。このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。

死んだふりは無意味 明景ヒサノと胎児はヒグマに攻撃されなかった。これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。

北海道 苫前町 ヒグマの食人事件・三毛別ヒグマ事件復元地


北海道 苫前町 ヒグマの食人事件・三毛別ヒグマ事件復元地

2023年11月02日 20時43分38秒 | 北海道

獣害史上最大の惨劇・三毛別ヒグマ事件復元地。北海道 苫前町字三渓。

2022年6月21日(火)。

早朝、道の駅「はぼろ」から出発して、苫前(とままえ)町の三毛別(さんけべつ)羆(ひぐま)事件復元地を目指した。ナビに従い苫前市街地の北東を迂回して古丹別から三毛別へ進んだ。

5㎞手前に事件のヒグマを射殺した現場に近い、射止橋がある。この辺りの奥には現在は民家はない。

射止橋と三毛別川周辺。

射止橋と三毛別川周辺。

北海道のクマの恐ろしさを知ったのは、1996年に百名山を始めたときで、山での遭難事件の書籍を読んだときに、1970年7月、日高山系カムイエクウチカウシ山(略称カムエク)で起きた福岡大学ワンダーフォーゲル部の学生3人がヒグマに殺された事件が紹介されていた。テント内のザックの食料を狙ったクマから学生がザックを取り返して刺激したことが原因であり、一度獲ったエサへのクマの執着心が原因とされていた。

1999年ごろ、北海道の百名山のうち幌尻岳だけが未踏になったとき、ヒグマが多い区域と知った。そのころ、三毛別羆事件を扱った『羆嵐(くまあらし)』(吉村昭)を入手して読み、胎児をはらんだ女性が食われるという内容に衝撃を受けた。

その後、テレビでは数回アニメなどで紹介されたのを見ているので、最近は認知度も上がっているようだ。

車道は事件復元地が終点で、数百m前から未舗装になり、終点から先は閉鎖されている。

三毛別羆事件の現場近くにある石碑

 

なぜ被害者は女性と男児に限られていたのか…7人死亡の最悪獣害「三毛別事件」で未解決なこと(抜粋)

2022/11/11プレジデントオンライン 中山茂大 ノンフィクション作家・人力社代表

 

「日本最悪の獣害事件・三毛別事件の加害熊は、事件の前に『人間の味』を覚えた可能性がある。まず男児の味を知り、次に女性の味を覚えるといった風に、食の嗜好を変化させたのではないか」

 

熊は「以前に喰ったものをしつこく好む」

・大正3年 北竜村

明地勇(13) 男児 死亡 食害

・大正4年 深川村

谷崎シャウ(42) 女性 死亡 食害

谷崎武夫(18) 男性 重傷

・大正4年 苫前村太田家

蓮見幹雄(6) 男児 死亡

阿部マユ(34) 女性 死亡 食害

・大正4年 苫前村明景家

明景梅吉(当時1) 男児 死亡(3年後)

明景ヤヨ(34) 女性 重傷

長松要吉(59) 男性 重傷

明景金蔵(3) 男児 死亡 食害

斉藤春義(3) 男児 死亡 食害

斉藤巌(6) 男児 死亡 食害

斉藤タケ(34) 女性 死亡 食害

胎児(0) 不明 死亡

 

一見して明らかだが、食害されたのは男児と成人女性に限られている。一方、大人の男性は食害されていない。

 

「人間の女」に異常なまでの執着

三毛別事件の第1発見者である太田家の雇い人、長松要吉は、明景家に避難して熊に襲われた。だが、加害熊は彼に一撃を加えたのみで、深追いしなかった。明らかに「排除」が目的であり、加害熊は長松要吉を食物と見なさなかったのである。

また、谷崎武夫は18歳で、成人と男児の中間くらいの年齢だった。加害熊は、1年前に明地少年を襲い、男児の味を求めていた。そこで、加害熊は、男児に比較的近い年齢の谷崎武夫を襲う目的で出現した。しかし、谷崎武夫を襲う前に、逃げ遅れたシャウを手近な獲物として襲った。

そこで女性の味を知り、加害熊の嗜好は、「男児」から「女性」に変化したのではないか。

そのため、これ以降、加害熊は「女性」を最優先に狙い、その次に「男児」を狙うようになったと思われる。

加害熊が「人間の女」に異常なまでの執着を持っていたことは、吉村昭の『羆嵐』でも語られている。

 

また、『エゾヒグマ百科』には、次のような事実が確認されたという。

「また不思議なことに、どの農家も婦人用まくらのほとんどがずたずたに破られ、特に数馬宅では妻女アサノ専用の石湯タンポ(中略)を外まで引出し、つつみ布をズタズタにかみ切り、3キログラム余りの石をかみくだいてあった。(中略)ヒグマは最初に食害したものを好んで食おうとし、これを襲撃することが多く、この事件でも婦女をはじめ、婦女が使用した身の回り品にまで被害が及んでいる」(前掲『エゾヒグマ百科』)

動物のオスは「人間の女」を好む。筆者がネコを飼った経験からもそれは明らかである。

三毛別事件において、蓮見幹雄少年は食害されなかった。加害熊は家屋をのぞき込み、幹雄少年の姿を認め、捕食目的で押し入った。

少年を一撃し、いざ喰おうとした時、物音に気づいて阿部マユが顔を出した。熊はマユの姿を認め、「人間の女の匂い」を感じ取ったので、食害の対象を変えたのである。

北海道 苫前町 苫前町郷土資料館 三毛別ヒグマ事件


岩手県宮古市 国史跡・崎山貝塚 縄文の森ミュージアム②巻貝型土器

2023年11月02日 10時38分08秒 | 岩手県

国史跡・崎山貝塚。宮古市崎山貝塚縄文の森ミュージアム。岩手県宮古市崎山第1地割。

2023年6月7日(水)。

崎山貝塚遺跡は、縄文時代の前期から中期にかけて南東と北西の斜面に形成された貝塚と、中期後半に営まれた集落跡からなっている。

南東斜面には3地点の貝塚が確認され、前期初頭から中期の初頭に形成され、シカ、イノシシ、タヌキ、イヌ、オットセイなどの獣骨、マイワシ、カタクチイワシなどの小型魚を主体にしてカツオ、ブリ、マダイ、フサカサゴ科・アイナメなどの魚骨、イガイを主体とした岩礁性二枚貝、フジツボ、ウニなどの動物遺体、土器、石器、釣針・刺突具・骨針・骨箆・叉状角製品・装身具などの骨角器などの多種多様な遺物が、厚いところで1.2m以上に累積している。

北西斜面の貝塚は、斜面の中ほどに位置し、中期後半に形成された。

巻貝型土器。近内中村遺跡。縄文時代後期。

大英博物館でも展示された近内中村(ちかないなかむら)遺跡の巻貝形土器。

縄文時代後期(約4000~3000年前)の近内中村遺跡から全国的にも珍しい巻き貝形土器が出土した。この土器がどのぐらい珍しいかと言うと国の重要文化財となっている新潟県上山遺跡の縄文後期の層から昭和36年(1961)に出土した巻き貝形土器と、巻方が左右対称なことを除いて瓜ふたつなのである。

巻き貝形土器は通常の暮らしに使われた器ではなく、何らかの儀式に使われたものと考えられ、新潟上山遺跡に続いて昭和41年(1966)に宮城県伊具郡岩ノ入遺跡で出土したものと、この近内の3点しか出土例はない。 他県の遺跡では雑多な土器郡と混じり合って破損して発見されているが、近内では竪穴式住居跡から猪の土製品などと一緒にほぼ完形品として発見されている。

巻き貝形土器は全長23.5センチ、幅11.5センチ、重さは370グラム。濃い褐色で全体にイボ状の突起やらせん模様がある。関東方面に生息するボラ科の貝をかたどったとみられるが、巻き型は実際のものと逆の左巻きである。

近内から巻き貝形土器が発見されたということは、はるか昔の縄文時代に新潟県で発見された物と同一の制作者が流れきたのか、あるいは製品として同じ物が交易品として流通したのかいずれにせよ縄文時代の何かをつないでいた架け橋があったという物的証拠でもあり、この近内の巻き貝形土器は、国の重要文化財の土器と従兄弟的な物品であることは間違いないと言える貴重なものである。

「石刀」。近内中村遺跡。縄文時代晩期。 

肉などを切るような鋭利な刃はなく、短い柄の部分にはうっすらと赤い色(ベンガラという酸化鉄)がみられる。実用性を欠いた形状であり、儀式や祭りなどに用いられた宗教的な遺物と考られる。

「板状土偶」。重茂館(おもえたて)遺跡群。縄文時代中期。

体が板のように平たく作られた土偶で、頭部は目や口などが表現されている。中心部には穴が二つ開けられており吊り下げて使用していたのかもしれない。

14時20分ごろに﨑山貝塚を出て、宮古盛岡横断道路で盛岡市内に行き、志波城跡を見学して、雫石町の道の駅へ向かうことにした。10日土曜日に滝沢市で「チャグチャグ馬っこ」を見学するためである。

岩手県宮古市 国史跡・崎山貝塚 縄文の森ミュージアム①