苫前町郷土資料館。北海道 苫前(とままえ)町苫前。
2022年6月21日(火)。
三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件復元地を見学後、苫前町郷土資料館を見学することにした。
応接室では、三毛別ヒグマ事件のドラマ映像を見ることができる。
獣害史上最大の惨劇「三毛別羆事件」。
苫前町は、明治20年代の後半になると原野の開拓が始まる。未開の原野への入植者は、掘立て小屋に住み、粗末な衣類を身につけ空腹に耐えながら開墾していった。
大正4(1915)年12月9・10日の両日、苫前町内三毛別の通称六線沢(現・三渓)で、15戸の部落にその不運は起きた。
冬眠を逸した「穴持たず」と呼ばれる340㎏の巨大な羆が、空腹にまかせて次々と人家を襲い、臨月の女性や子供ら7人が食われるなどして犠牲となったのである。
1961年当時、古丹別営林署の林務官として苫前町内に勤務していた木村盛武が、「世界に類を見ない大事件が埋没してしまうのは学術的にも良くない」と考え、30数人の関係者から証言の聞き取りを行った。
木村が調査を行うまで、極寒の僻地で起こったことなどから発生当時の新聞報道も不正確な記述が多く、当事件に関する正確な記録は残っていなかった。事件発生から50年後の1965年 、証言をまとめた『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』を旭川営林局誌『寒帯林』で発表、 1994年には『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い熊』として書籍化された。
「羆嵐(くまあらし)」の著者。吉村昭。
苫前町は日本海に面する町だが、三毛別地区はやや内陸に入った農村部で、六線沢は中でも奥まった新しい開拓地で、民家は細長く沢沿いに点在していた。山の中ではヒグマの痕跡は多いが、当時でも人家付近まで出てくることは滅多になかったという。
それが11月上旬から下旬に計3回、池田家の軒下に吊したトウモロコシを夜中にクマが荒らした。さらに12月に入って松村家でも同様の被害があり、2人のマタギ(狩人)が発砲したが、傷を負わせただけで取り逃がした。足跡は見たこともない大きさだったという。すでに雪が降り始め、通常なら冬眠に入っている時期だ。
12月9日。太田三郎家に残っていた内縁の妻阿部マユと養子に迎える予定だった蓮見幹雄(当時6歳)がヒグマに襲われた。幹雄の側頭部には親指大の穴が開き、すでに息絶えていた。ヒグマはマユの体を引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。妻マユをくわえて連れ去ったと推測されたが、加害クマを追跡するにはすでに遅い時間で、この日は日没が迫るなか住民たちに打つ手は無かった。
12月10日。午前9時頃、捜索隊が結成され、太田家から150㍍ほど離れたトドマツの付近で一行はクマを見つけた。余りにも近い場所からクマが出たのに驚いた一行は、慌てふためき銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはわずか1丁だけだった。
ヒグマが逃走したため、男性らがヒグマのいた付近を確認すると、トドマツの根元に黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見し、収容した。
12月10日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われたが、村民は「獲物があるとクマが来る」と、ヒグマの襲来におびえ、参列したのは親族ら9人だけだった。
午後8時半ごろ、ヒグマが太田家の壁を破って乱入してきた。棺桶が打ち返されて遺体は散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上ったり屋外に飛び出したりと、右往左往の大混乱となったが、出席者の1人が銃を撃ったので、クマはすぐ逃走した。
そのころ、太田宅から500mほど下流の明景家には戸主・明景安太郎(当時40歳)、その妻・明景ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の7人と、事件を通報するため30kmほど離れた苫前村役場や19kmほど離れた古丹別巡査駐在所に向かっていた斉藤石五郎(当時42歳)の妻で妊婦の斉藤タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の3人、そして事件のあった太田宅の寄宿人で男手として明景宅に身を寄せていた長松要吉(当時59歳)の合計11人がいた。
大人は男性1人と女性2人、あとは子供だった。他の集落などから来た若者や猟師らは、別の家に集結していた。
太田家の通夜を荒らしたヒグマは午後9時ごろ、明景家を襲った。「クマは火を怖がる」と信じられ、いろりに火を燃やしていたが、効果はなかった。
室内を逃げまどう子供たちが次々と頭や胸をかまれた。ヒグマに居間に引きずり出され妊娠中だった斉藤タケは「腹破らんでくれ。喉食って殺して」と叫びながら、胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。
駆けつけた村の男性らが鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出たのち裏山の方へと姿を消した。タケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという。
結果的にこの日の襲撃では、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害され、ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った。力蔵は雑穀俵の後ろに隠れ、ヒサノは失神し居間で倒れて生き残った。勇次郎は、母ヤヨや弟梅吉が重傷を負いながらも共に脱出し、奇跡的に無傷だった。
この夜の襲撃があって、六線沢集落の全15戸約40人の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになった。
12月12日、斎藤石五郎から通報を受けた北海道庁警察部(現在の北海道警察)は、管轄の羽幌分署分署長の菅貢に討伐隊の組織を指示、討伐隊の本部は三毛別地区長の大川興三吉宅に置かれた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマをすぐに発見することはできなかった。
ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案され、菅隊長はこの案を採用し、遺族と住民に説明した。こうして、明景宅に残された犠牲者の遺体を「餌」にしてヒグマをおびき寄せるという作戦が採用された。
作戦はただちに実行されたが、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。
12月13日、歩兵第28連隊の将兵30名が出動した。この日、住民が避難し無人になっていた六線沢の8軒がヒグマに侵入される被害に遭い、猟師の山本兵吉(当時57歳)がそのうち1軒にヒグマが侵入するのを目撃したがヒグマの射殺には至らなかった。
午後8時ごろ、三毛別と六線沢の境界にある氷橋(現在の射止橋)で警備に就いていた一人が、対岸の6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているのを不審に感じた。菅隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。
12月14日。朝、足跡と血痕を見つけた。怪我を負っているなら動きが鈍るはずと判断した菅隊長は、急いで討伐隊を足跡が続く山の方角へ差し向ける決定が下された。
前日、ヒグマの姿を目撃した山本は討伐隊の一行とは別行動で山に入った。
山本はヒグマを発見する。20mという至近距離まで接近した山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構え、 背後から発砲し命中させる。油断なく第二弾を装填した山本はヒグマの頭部を貫通させ射殺した。
ヒグマの死骸は住民によってそりで下された。すると、にわかに空が曇り雪が降り始め、事件発生からこの三日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わり、そりを引く一行を激しく打った。この天候急変を、村人たちは「羆嵐(くまあらし)」と呼んで語り継いだ。
集落に下されたヒグマを三毛別の分教場で解剖したところ、胃から人肉や衣服などが発見された。更に、解剖を見物しに来た人々が「このクマは太田宅を襲撃する数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3名の女性を殺害し食害に及んだクマである」と次々に証言、実際に胃の中からはそれを裏付ける彼女らが身に着けていたとされる衣服の切れ端なども見つかった。その後、ヒグマの毛皮や頭蓋骨などはそれぞれ人の手に渡ったのちに現在は行方不明になっている。
事件の教訓
火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたことが記録されている。これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。
執着心が強い トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマが三毛別でも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。その一方で、馬への被害は皆無だった。
逃げるものを追う 明景ヤヨらは、ヒグマが逃げる要吉に気を取られたため助かった。このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。
死んだふりは無意味 明景ヒサノと胎児はヒグマに攻撃されなかった。これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。