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岩手県矢巾町 国史跡・徳丹城跡 矢巾町歴史民俗資料館

2023年11月10日 14時36分01秒 | 岩手県

国史跡・徳丹城跡。岩手県矢巾町西徳田。

2023年6月8日(木)

盛岡市遺跡の学び館の見学を終え、盛岡南郊の見学を済ませるため、国史跡・徳丹城跡の国道4号線を隔てた西側に隣接する矢巾町歴史民俗資料館へ15時過ぎに着いた。徳丹城跡は町立徳田小学校の南に隣接し、城跡を国道4号が縦断している。20分ほど資料館を見学後、徳田小学校へ行き、史跡公園として整備中の徳丹城跡を見学し、紫波町の高水寺城跡へ向かった。

徳丹城は、律令制最後の城柵で、平安時代初期の弘仁2年(811年)、胆沢城の北方に前衛基地として築城された志波城(盛岡市)を、雫石川の氾濫などによる水害を理由に征夷大将軍文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)の建議により、翌弘仁3年(812年)の3月頃約10km南方に移転・造営したものである。

矢巾町徳田の北上川西岸低位段丘上に位置し、微高地(低台地)に立地する約350m四方の規模である。方形の一辺は約350メートルと胆沢城(約670m)、志波城(短辺約840m)と比べ小規模である。

現在、地上には当時を知るものは何一つ残されていない。

外郭は北辺を中心とする高台の個所は築地土塀となっているが、低湿な個所は太さ30~40cmの丸太によって丸太材列で巡らされ、70mおきに櫓が設けられていたと思われる。

外郭の東西南北に門があり、南北の門は中央に、東西の門は北に寄っている。正面にあたる南門は徳田神社境内にあり、径45cm以上の丸太を用いた八脚門で瓦葺きだった可能性が高い。

柱脚。西門の柱に「由北角柱」の四字が刻まれたものなどが発見されている。

 

城の中心部である内城は中央やや北寄りに約80m四方の政庁があり、正殿は東西14.57m、南北5.91mの規模をもつ南向き東西棟であったと考えられる。東西の脇殿、その周辺に実務官衙が配置されていたことも分かってきている。

近年の発掘調査では、徳丹城造営のための区画施設や警備のために任命された「別将」が使ったとされる墨書土器の発見など、新たな事実が次々に解明されている。

志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。

志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換とされる。

徳田小学校付近に徳丹城跡の外郭北門跡がある。

徳田小学校の校庭の先に、政庁跡が広がっている。

 

三方透かし高盤。

 

藤沢狄森(えぞもり)古墳群7世紀中葉から後半ごろの終末期古墳群の藤沢狄森古墳群は、現在までに、100基以上の古墳が発掘調査により確認され、推定で300基ほどの県内有数の大古墳群である。

紫波郡矢巾町藤沢地内に所在し、国道4号付近の標高108m前後の低位段丘面に立地している。

墳丘規模は直径約13mから3mと大小さまざまである。主体部には石敷きのものと穴だけのものがあり、周溝は主体部の南で切れるものと切れないものがある。

岩手県内に所在する終末段階の古墳群は、西根古墳(金ヶ崎町)などから出土した和同開珎や銙帯金具から8世紀段階の古墳群として位置づけられていたが、藤沢狄森古墳群の発掘調査により出土した土器群の特徴から7世紀中葉から後半段階のものであることが初めて明らかにされた。

当該遺物は、東北北半の終末段階の古墳の時期変遷を考える上で欠くことのできない学術資料として極めて価値の高い一括資料である。特に、膨大な玉類は、質・量ともに県内に出土事例がないほど豊富であり、鉄製品では農耕具・工具類が少なく、刀剣や鉄鏃に偏るなど県内の他の古墳群とは異質なあり方を示しており、当時の社会背景を考える上でも貴重な資料となっている。

※1件1,390点の内訳(土器35点 土製紡錘車2点 刀10点 刀子16点 馬具1点 鉄鏃67点 青銅製鋺1点 青銅製釧1点 青銅製耳環2点 錫製釧1点 砥石2点 石製玉97点 ガラス製玉1,148点 材質不明玉6点 漆製椀1点)。

昭和44年(1969)の発掘調査は、現存する3基の古墳のうち比較的保存のよい一基を除く二基に対して行われた。保存のよい一基は、墳丘規模9×8m、高さ1.4mの円墳であるが、発掘調査をした二基とも主体部は川原石を積んだ積石石室であった。周溝は、一基は馬蹄形状をして南東部に開口部をもっている。

岩手県においては円墳によって構成される7世紀以降の群集墳が多い。これらの群集墳は北上川流域に集中するほか、同川に西から合流する雫石川・和賀川流域の自然堤防や段丘上に点在している。

二号墳と五号墳が調査され、二号墳の周湟部から17個の勾玉が出土し、五号墳主体部からは直径約三~四mmのガラス玉約1200個、瑪瑙・翡翠の勾玉60個、ミカン玉一個が出土した。ミカン玉は皮をむいたミカンのような形状をなし、かなりの製作技術を要することから中央における製作と考えられている。

狄森古墳群がある紫波(しわ)郡は、9世紀に入っての弘仁2年(811)に和賀郡・稗貫(ひえぬき)郡とともに建置された(『日本後紀』同年一月一一日条)。遺跡名が示すように7~8世紀にはまだ蝦夷の世界であったが、中央との接触が一切なかったわけではない。それは古墳の出土品からも、また六国史などの文献からもうかがうことができる。古墳の被葬者は、陸奥国の外部にありながら、律令政府と何らかの関係を結んでいたものと推定できよう。

 

盛岡市遺跡の学び館第 21回企両展「大島遺跡に見る蝦夷(エミシ)社会の変容」【展示解説資料】

会期:令和5年 10月7日(上)~令和6年1月 21日(日)

8世紀代の勢力が温存された「志波蝦夷(しわえみし)」の豪族は、律令政府側の技術や文化を取り込み、新興在地有力者へ急成長していきました。

このような古代斯波郡の有力者は、『続日本後紀』の承和年間に「物部斯波連(もののべの しわのむらじ)」と記されています。彼らは官衙的建物を建築し官人化することで地域を支配し、その在地有力者を鎮守府胆沢城が支配することで、北上盆地北部を間接統治していたと考えられます。

1 斯波郡の成⽴過程

坂上田村麻呂と志波城

 蝦夷(エミシ)とは、古代国家の支配に入っていない東北地方の人々をさすものとして、 7世紀頃から使われ始めた政治的概念です。畿内政権による国土統一過程において、東北地方は政治的に異民族の地とされ、天皇の徳(=国家支配)を拡大すべき辺境と見られていました。

8世紀後葉の宝亀年間における海道蝦夷の陸奥国への反乱(774年)と、志波村蝦夷の出羽国への反乱(776年)により始まった律令国家と蝦夷との戦乱「三十八年戦争」は、冨臼二十年(801)の籠氏朝第三次征討における征夷大将軍坂上田村麻呂が率いる 4万の征討軍により胆沢以北の北上盆地全域が制圧されることとなりました。

この長期に渡った征討戦の戦後処理として建置された城柵が、胆沢城(802年造営)と志波城 (803年造営)です。城柵とは、蝦夷が住む政情不安定な地域で律令制を実行するための、中核的な‘‘行政+軍事’'の施設でした。

桓武朝第一次征討(789年、巣伏村(すぶせ)の戦いで征討軍大敗)後に律令国家側への帰順の意志を示す記録のある志波村の蝦夷は、その後に主戦場となった胆沢の蝦夷と対照的に、その勢力を温存したまま城柵造営を受け人れたと、近年の大規模発掘調査の成果から考えられています。

志波城鎮守府と斯波郡建置

延暦二十四年(805)、桓武天皇は参議の藤原緒嗣と菅野真道に天下の徳政を議論させ、緒嗣の「軍事と造作(征夷と造都)」を中止する議が採用されました。この「徳政相論」は、国家運営の大転換となります。これにより陸奥国は、坂東(関東地方)諸国からの人員・物資の支援を受けずに蝦夷統治を行うこととなりました。

まず大同元年(806)に当国鎮兵(ちんぺい)制が成立し、城柵の守衛にあたる鎮兵はすべて陸奥国内徴発の兵に転換。そして、大同三年(808)、鎮守府(陸奥国独自の軍事機関)官人が陸奥国司と別任されるようになり、鎮守府が行政機構として独立します。その支配領域は、胆沢城・志波城管轄地と考えられます。従来、鎮守府の移転先は胆沢城とされてきましたが、志波城跡から「府」字墨書土器が出土していること、また城柵規模・構造の独自性等から、「国府級として造営された志波城へ鎮守府が移転した(結果的には短期間)」「荘厳化のため外大溝・遠大溝の設置と政庁・官徊域の改修がなされた」との見解が示されています。

官道の整備により、延暦二十三年 (804)には「胆沢郡」の間にー駅が置かれ、弘仁二年(811)正月に「和我(わが).稗縫(ひえぬき)、斯波(しわ)」の三郡が新たに建置されました。

‘‘志波城鎮守府’'により、北上盆地全域の行政基盤の整備が進められた結果、各郡で伴囚軍(温存された蝦夷系武力)の編成が可能になったと考えられます。按察使(あぜち)文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、後の岩手郡域に近接する蝦夷集団の安定化と、負担が大きくなった官制と兵制の抜本的解決のため、爾薩体(にさつたい)・弊井(へい)の制圧を立案。これには、伴囚軍の動員計画も含まれていました。

弘仁二年(811)10月、征夷将軍・文室綿麻呂は、陸奥出羽両国の兵で爾薩体と弊井の二村の征討を成功させ、新たに編成された伴囚軍も戦果を挙げました。そして同年閏12月には「三十八年戦争」終結を宣言し、鎮守府としてきた志波城の廃城と、徳丹城への城柵機能の移転、胆沢城への鎖守府の再移転、官制の縮小(副将軍の廃止)、軍団兵士・鎮兵の削減を行ったのです。弘仁六年(815)の兵士・健士制の成立は、伴囚兵の常用化であり、蝦夷系武力はその後、積極的に登用されることとなります。

2 斯波郡北部の平安時代集落

文献記事に見られる斯波郡の範囲は、東西に流れる雫石川を北の境として、現在の盛岡市南半部・矢巾町・紫波町のエリアと考えられ、この地域の北端となる盛岡市太田地区に延暦二十二年 (803)古代城柵「志波城」が造営されました。

蝦夷(エミシ)社会の変容と大島遺跡

9世紀中葉~10世紀前葉に羽場地区の拠点集落となった大島遺跡は、志波城と徳丹城の中間点にあり、斯波郡北部と南部を繋ぐ重要地点であったと考えられます。後述する盛南地区も含め、 7・8世紀代に始まり、 9世紀初頭の城柵建置後も集落を継続した志波蝦夷の族長は、律令統治下で在地蝦夷系有力者へと転換・成長していきました。徳丹城が廃絶された 9世紀中葉以降の鎮守府胆沢城は、彼らを介して間接的な広域統治システムを維持。大島遺跡出土の石帯具や緑釉陶器は、鎮守府胆沢城から下賜された象徴的品物と見られます。承和二年 (835)に「物部斯波連(もののべのしわのむらじ)」の姓を賜った伴囚は、この在地蝦夷系有力者と考えられます。

しかし、 9世紀中葉の承和~貞観年間には飢饉や疫病、異常気象、大地震の記録が全国的に見られ、陸奥国北部では逃亡や動乱が起こります(「奥郡騒乱」)。また出羽国では、元慶二年(878)に大規模反乱が発生(「元慶の乱」)。

このような中、蝦夷系住民の社会は仏教など外来文化の影響も受けて変容し、鎮守府と結託した蝦夷系有力者と伴囚兵力は大きな勢力を持つようになります。

盛南地区の古代集落

在地蝦夷系一般集落〔9~11世紀代〕 文献記事に見られる 8世紀後葉の「志波村」から続く在地蝦夷勢力の集落。竪穴建物が主体で、一部では 9世紀中葉以降に掘立柱建物が出現。飯岡オ川・向中野館(北)遺跡、大島遺跡は、 9世紀中葉以降に拠点集落へ転換しています。

律令政府系計画集落〔9世紀前葉〕 9世紀初頭の「志波城」設置に伴い、律令政府側が計画的に配置したと考えられる集落(限定的)。 8世紀代にはない掘立柱建物が存在し、底部ヘラ切り須恵器坪、多量の鉄鏃などが出土。9 世紀中葉以降は、集落域を変えて在地蝦夷系一般集落へ転換。

在地蝦夷系特殊集落〔 10~11 世紀代〕 10世紀代から始まる新興在地蝦夷系有力者の拠点集落。大型掘立柱建物が出現し、宗教的遺物(灯明皿・多嘴瓶・墨書士器など)が出土。林崎遺跡、大宮北遺跡など。

城柵の終焉と奥六郡

北上盆地全域を広域統治していた鎮守府胆沢城の終末については文献記事がありませんが、発掘調査では 10世紀中葉の土器までしか出土していません。これは同時期の「六城柵」に共通し、「蝦夷支配のための城柵は、実利的な役割だけが残り」、「10世紀中葉にはその存在意義を大幅に失う」とされています。

全国的に、 10世紀中葉前後に国府の衰退や停止があり、国司の受領化(任地で強大な権力を移譲され巨額の富を得る)など国郡里制の崩壊が進んでいました。さらに陸奥・出羽では軍事が国司や在庁官人の私的兵力(伴囚軍)主体に変化し、正規軍が縮小・停止されたことで、城柵を継続する必要性がなくなったようです。

奥六郡と安倍氏

鎮守府が管轄していた地域について、 10世紀後半には「奥六郡」(胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手)と呼ばれていたとされています。

後に前九年合戦を戦う安倍頼良(頼時)は、父が陸奥権守等に叙任された後継として鎮守府在庁の代表官人となり、鳥海柵(とのみのさく)に居住。各地に一族や郎党を配置して地域統治の拠点とし、北方蝦夷との交易を独占していきました。

盛岡市遺跡の学び館②縄文土面 蝦夷(えみし)の末期古墳