宮沢賢治記念館。レストラン「山猫軒」。花巻市矢沢第1地割。
2023年6月10日(土)。
滝沢市の鬼越蒼前神社と周辺で「チャグチャグ馬コ」を見学後、10時10分ごろ滝沢市役所の駐車場を出て、花巻市の宮沢賢治記念館へ向かい、胡四王山山上の駐車場に11時45分ごろに着いた。駐車場の東端にレストラン「山猫軒」があり、西端に宮沢賢治記念館がある。山猫軒の売店を覗いたあと、記念館に向かった。
1980年代に宮沢賢治記念館を見学し、盛岡市を定期観光バスで見学、渋民で石川啄木記念館を見学した。鉄道とバスしか利用しなかったので、イギリス海岸を見学できなかったのが心残りになっていた。
展望ラウンジからの眺望。
賢治と仏教の出会いは、10歳の時に大沢温泉で父が主催した仏教会に参加した事から、という説もあります。幼いころ、伯母のヤギに子守歌のように聞かされていた「正信偈」や「白骨御文章」を仏前で暗唱したり、また、父も仏教会を主催するなど、仏教の素地は家庭環境から作られていましたが、真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏期仏教講習会に参加したころでした。以来、毎年参加して、住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き入りました。
盛岡中学を卒業した後、病気、入院、将来の進路をめぐる父との対立などですっかりノイローゼ状態になっていた賢治は、島地大等編の「漢和対照妙法蓮華経」と出会い、強い衝撃を受け、のちの一生を決定するほどの契機になったと言われています。
トシの病気の際、看病のために行った東京で田中智学の講演を聞いたことがきっかけで、田中智学の創設した在家宗教団体、国柱会に入会し、死ぬまで会員を通しました。日蓮思想に傾倒していった背景には、浄土真宗に深く帰依していた父との対立があったとも言われていますが、国柱会は、賢治と彼の作品の上に大きな影響を与えました。
「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら,…たうたうこんなことになりました。今生(こんじょう)で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生(せい)又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日 賢治 父上様 母上様」
宮沢賢治の遺書。「九月二十一日 宮澤政次郎・イチあて 封書」
『兄のトランク』(宮澤清六 筑摩書房 1987)「そこでもう死ぬ覚悟を決めて、両親と私共に宛てて遺言状を書いたのであったが、奇しくもそれは二年後に死んだ月日と同じ九月二十一日であった。」
宮沢賢治が亡くなった後に、賢治の弟・宮沢清六は、賢治が使っていた大きなトランクの蓋の後ろのポケットの中から、一冊の手帳と、両親宛と弟妹宛の遺書を見つけた。
妹トシのバイオリン。
宮沢賢治愛用のセロ(チェロ)。