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盛岡市 岩手県立博物館②重文・縄文土器 遮光器土偶 鯰尾兜

2023年11月17日 12時54分30秒 | 岩手県

岩手県立博物館。盛岡市上田松屋敷。

2023年6月9日(金)。

縄文時代晩期になると、文様はさらに流麗になります。東北地方に広く分布するこの時期の土器を亀ヶ岡式土器とも呼んでいますが、最近では土器のうつりかわりが明らかになった大船渡市の大洞貝塚にちなみ大洞式と呼ぶことが多くなってきました。

黒光りする土器、複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など高い技術でつくられるものが増えます。また、皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達します。

縄文土器(浅鉢)。縄文時代晩期。雫石町高見遺跡。径22.0cm×高11.5cm。

雫石町高見遺跡で見つかった縄文時代晩期前葉の浅鉢形土器です。この種の形をした土器には珍しく、大きな欠損はなくほぼ完形の状態です。外面の上半と内面にかけてのくぼんだ部分には、鮮やかな赤彩の痕跡が残っていることから、もともとは全体が赤く塗られていたものと思われます。

重文・縄文土器。一戸町蒔前遺跡。

八戸市是川遺跡とともに馬淵川流域の亀ケ岡文化を代表する遺跡一戸町蒔前遺跡から出土した一括資料が重文に指定されている。

昭和5年、整地工事に際して多量の遺物が発見されたが、本件の大半はこの時の採集遺物である。土器158点、土製品20点、石器54点、石製品20点、大殊 1点の合計253点。

土器は、深鉢形土器、鉢形土器、台付鉢形土器、注口土器、壺形土器、皿形土器、香炉形土器、小形土器。

土製品は、土面、土偶、亀形土製品の3種類。石器は磨製石斧、打製石斧、掻器、磨石、凹石、敲石、石皿、石槍未製品。石製品は、石剣、石冠、円盤状石製品、岩版の4種類。

多彩な遺物は、縄文時代晩期の生活を如実に示す。なかでも鼻曲がり土面・亀形土製品など儀礼・習俗関係の遺物は注目に値する。「鼻曲がり土面」は、眉・両目・口を左上がりに表現し、鼻を強く左に曲げた特異な顔面表現で、見る角度によって様々な雰囲気を醸し出し、縄文時代に仮面を被る儀式が広く存在したことを示しており、亀ケ岡文化と精神生活を解明する上で重要な資料である。

重文・遮光器土偶。盛岡市手代森字大沢・手代森(てしろもり)遺跡。

この土偶は、旧都南村(現在の盛岡市)の手代森遺跡から発見された遮光器土偶です。いま見ると、黒っぽく見えるのですが、当時は朱(しゅ)が塗られていたようです。また、今はきちんと元の姿をしているこの土偶も発見された当時は、ほかの土偶と同じようにバラバラになっていました。それを、きれいに復元したものです。

手代森遺跡は北上川との合流点に近い大沢川のそばに位置し、北上川東岸の平野と北上山地に続く丘陵の間の段丘上にあります。合流地点までは、約400mの距離にあります。標高は115m前後です。

沢川の河川改修に伴い、昭和58年度に試掘調査、翌59年度に2,600㎡の本調査が行われました。その結果、縄文時代前期(約6,500~5,000年前)と晩期(約3,000~2,300年前)の遺跡だということがわかりました。

見つかった遺構は竪穴住居跡8、住居状遺構1、長方形柱穴列1、土坑33、焼土遺構・石囲炉(5、埋設土器2です。

ほとんどが縄文時代晩期前葉から中葉の遺構で、住居などがなくなったあとに土器などの捨て場になっていました。晩期前葉の遺構はやや東よりに、中葉の遺構はやや西よりから見つかっています。

また、都南村教育委員会(盛岡市との合併前)により、遺跡の北西の地点が調査され、ここからは晩期後葉から末葉の遺構と捨て場が見つかっています。

これらのことから、本遺跡では少しずつ場所を移動しながら晩期の全般にわたって、集落が営まれていたことがわかりました。本遺跡は遺物の量が多いことや立地などから、晩期の拠点的な集落ではないかと見られています。

遮光器土偶。岩手郡岩手町豊岡遺跡。縄文時代晩期。高さ22.7㎝。

縄文時代晩期前半(約2,800年前)の遮光器土偶です。大きな目が特徴で、シベリア方面の民族が用いたサングラスに似ていることから、遮光器土偶と名付けられました。遮光器大土偶は東北地方を中心に作られ、岩手県でも多数の遮光器土偶が見つかっていますが、完全な形のものはまれです。この土偶は高さ22.7㎝の中~大形品で、中は空洞に作られています。表面はよく磨かれ、光沢があります。美しく作られた大きな土偶は、集落全体に帰属するものと考える説があります。

遮光器土偶。岩手町豊岡遺跡。高さ17㎝。

縄文時代晩期前半(約2,800年前)の遮光器土偶。高さ17㎝の小形遮光器土偶です。大形遮光器土偶と異なる点は、中が空洞に作られていないことです。また、小形遮光器土偶は表面が摩耗しているものが多く、個人用のお守りとして日常的に用いられていたという説があります。

岩偶形土偶。岩手町豊岡遺跡。縄文時代晩期。高さ5.3㎝。

凝灰岩などの軟らかい石を加工して人がたに仕上げたものを岩偶と呼んでいます。同時期に作られた土偶とは形や文様が異なっているほか、土偶は広域に分布するのに対し、岩偶は馬淵川(まべちがわ)流域や米代川流域周辺に分布が限られています。そこから少し離れた北上川上流域に位置する豊岡遺跡から出土した岩偶形土偶は、岩偶の形・文様を粘土で表現しています。

土偶。盛岡市沢田遺跡。高さ14.8㎝。

盛岡市東中野字沢田から見つかった縄文時代晩期終わり頃(約2,400年前)の土偶です。縄文時代晩期前半の遮光器土偶の特徴である大きな目が退化し、横一文字に固く閉ざされた形に変化しています。中は空洞に作られていて、明るい色調です。デフォルメされていますが、乳房や正中線(妊娠線)があり、女性を表現していることが分かります。

土面(どめん)。出土地不詳。縄文時代晩期。長さ5.3×幅6.0㎝。

土面とは、縄文時代後・晩期にみられる土製の仮面のことです。東北地方に多く分布し、現在までにおよそ120点が確認されています。その大きさは、成人の顔をほぼ覆い隠すことができる15cmから20cmの大型品と、5cmから15cmの小型品があります。この土面は長さ5.3cmの小型品です。使用方法についてはまだよくわかっていませんが、縄文時代の精神文化の豊かさ示す貴重な資料です。

角塚古墳復元模型

円筒埴輪 複製 角塚古墳

角塚古墳は、日本最北端の前方後円墳で、奥州市胆沢区に所在する。内部構造(埋葬施設)は明らかとなっていないが、出土埴輪等により5世紀末から6世紀初の築造と推定される。

岩手県域にあっては本古墳1基(1代のみ)を除くと他はすべて末期古墳で、本古墳以南にあっては宮城県北部の大崎地方(約70㎞南)まで前方後円墳等の存在が認められないため、その特異性が注目されている。

角塚古墳の北西2㎞には、角塚古墳と同時期の大集落跡の中半入遺跡が発見されているが、その出土物からは宮城県域や久慈地域など広域の交流が見られ、角塚古墳との関連が指摘される。

蝦夷の末期古墳。石室復元模型。北上市長沼古墳群。

衝角付冑。 複製 。盛岡市上田蝦夷森古墳(7世紀)。

蕨手刀 複製 北上市長沼古墳。蕨手刀 実物 花巻市熊堂古墳群4号墳。

蕨手刀。花巻市上根子字熊堂 熊堂古墳群 奈良時代 長さ40.1×幅8.6㎝。

この蕨手刀は、昭和62年の県立博物館による花巻市熊堂古墳の発掘調査で出土したものです。蕨手刀が副葬されていた古墳は4号墳と名付けられており、直径約9m、高さ約0.5mの大きさで、川原石積みによって埋葬施設である石室が作られていました。蕨手刀は石室の北壁に接する位置に副葬されていました。他に石室内には小型の直刀、切子玉、ガラス玉が副葬されていました。

蕨手刀・直刀 北上市江釣子古墳群。

鯰尾兜(なまずおのかぶと)。安土桃山時代。

牛革黒漆塗、燕尾形。総高65.6cm。

盛岡藩主南部家伝来の兜(かぶと)です。会津を領した戦国武将蒲生氏郷(がもううじさと)(1556-1596)の養妹於武(おたけ)(源秀院・重直生母)が南部利直(としなお)(1576-1632)に嫁ぐ際、氏郷着用の兜を引出物として持参したと伝えられます。

尾の部分を革、鉢の部分を鉄板で構成し、総黒漆塗仕上げとした均整のとれた造形は、戦国の変わり兜のなかでも秀逸です。その形から燕尾形(えんびなり)兜とも呼ばれています。

馬面。複製 。時代不詳。 

 

見学後、滝沢市の湯舟沢環状列石・滝沢市埋蔵文化財センター(縄文ふれあい館)へ向かった。

盛岡市 岩手県立博物館①重文・大型土偶頭部 萪内(しだない)遺跡出土