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盛岡市 宮沢賢治の母校 旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)

2023年11月15日 15時46分21秒 | 岩手県

旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)。盛岡市上田。

2023年6月9日(金)。

安倍館稲荷神社(厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡)周辺の見学後、宮沢賢治の母校である旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)へ向かった。キャンパス東の一高前道路から構内に入り、正面奥の無料駐車場に9時30分ごろに着いた。資料館の開館時刻が10時からなので周辺を歩いてみた。温室開放の準備に来た若い女性職員が資料館の受付にいて、入館と退館時に少し話をしたが、武家の娘のような感じのいい人だった。

資料館内部は撮影禁止である。展示は歴代教授陣の業績紹介が多いが、宮沢賢治コーナーで、宮沢賢治から関豊太郎教授への手紙、関豊太郎教授の宮沢賢治追想文などを読みふけると宮沢賢治と関豊太郎の関係がよく分かった。

旧盛岡高等農林学校(岩手大学農学部)旧本館。

この建物は、我が国最初の高等農林学校として、明治35年(1902)に創立された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(明治45年)5月に着工、同年(大正元年)12月に竣工した。工事の設計管理は、旧文部省の営繕組織の技手であった谷口鼎(かなえ)が担当した。明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、現存する数少ない遺構のひとつである。広大なキャンパスの中央南寄りの植物園北端に南面して建つ。正面32.8m、側面14.6mの青森ヒバを用いた木造2階建で、外壁は下見板張り、寄棟造の屋根はスレート葺である。小屋組はトラスで、照明器具も当初のものが残っている。

中央に玄関が設けられた1階は東西に廊下があり、両端に階段を設けている。廊下両側は、正面中央の玄関ホールを除き各部が部屋となっている。当時、一階は校長室、事務室、会議室に、二階は大講堂として諸学校行事に使われていた。

昭和24年、学制改革により岩手大学発足後、大学本部として使われていたが、昭和49年(1974)に本部が現在地に移転し、昭和52年(1977)同窓生等の寄金により改修が行われ,農業教育資料館として使用されている。平成6年(1994)、国の重要文化財に指定され、ほぼ設立当時の状態に大修復が行われ現在に至っている。

宮沢賢治が学んだ経緯から、現在は賢治に関する資料を多数展示する教育資料館として一般公開されている。

宮沢賢治は大正4(1915)年から9年の間、岩手大学農学部の前身盛岡高等農林学校農学科第二部(後の農芸化学科)本科生および研究生として在籍した。色白で、人を引きつける独特の笑顔のまじめな学生で、成績良く、級長、特待生、旗手などを務めた。また、仏教に関心を持ち、短歌などもよくし、文芸同好会(アザリア会)や校友会での活躍を通し、友らとの親交を深め、さらに山野を跋渉しては自然との交感も重ねる学生であった。学業では、地質、土壌学などに興味を持ち、その道の権威、関豊太郎教授指導で同級生らと「盛岡付近地質調査報告」をまとめると共に、教授のゼミに参加し、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」を残した。

卒業後、研究生として恩師に協力し「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」の作成に参加した。この良き師との出会いや数回にわたる土性調査は、賢治自身の古里稗貫郡の農業環境を良く知る機会となり、それが後に地元花巻農学校教師や農業指導実践の場であった羅須地人協会での肥料設計などを支える基礎となった。

また師の石灰岩床による酸性土壌改良や、冷害克服にかけた願いも、得業論文や土性調査をとおして賢治の願いともなった。しかし志半ばで倒れ、その果たせなかった願いや夢は、作品「グスコーブドリの伝記」や数々の童話や詩に託された。

第四展示室。本学で学び自然と人間の調和、農の理想を目指した宮沢賢治の在学中に学んだ教材や、地質調査や得業論文作成時に使用した実験器材、彼が採取してきた岩石や作成した岩石薄片標本や、石灰岩(土壌改良剤)とのかかわりなど、賢治の生き方や作品に高等農林学校時代に学んだものが如何に影響したかを見ることができる。さらに、在学当時の「校友会会報」、賢治及び同級生らの得業論文(卒業論文)、「岩手県稗貫郡地質および土性調査報告書」、「アザリア」(一部)、「注文の多い料理店」、「雨ニモ負ケズ」、恩師関豊太郎宛「手紙」などの複写、学生時代の写真なども展示している。

 

他の展示では、盛岡高等農林学校創立以来掲げられた寒冷地東北での農業に対する思いが、玉利喜造初代校長「凶作の研究」や関豊太郎博士の「凶冷気象の原因研究」として始まり、現在の岩手大学の研究・教育へと受け継がれてきたことが分かる。

さらに、高等農林学校時代の実験器具、当時の教官の研究業績の一部(鈴木梅太郎博士研究報告、内田繁太郎博士の笹標本、門前弘多博士の虫瘤研究等)、卒業生の一部(鈴木梅太郎博士の下でビタミンB1の結晶化に成功した大獄了博士遺品や賢治に師事し、開拓と農業に情熱を燃やした松田甚次郎の遺品等)や高農生のノート、服装なども展示されている。

温室のあたりが、石川啄木の妻節子の生家跡で、古井戸が復元されている。

温室と農業教育資料館。

宮沢賢治モニュメント。

門番所は、明治36(1903)年盛岡高等農林学校の正門(現在の通用門)として建てられた。木造鉄板葺「寄棟風八角」造で、外壁は下見板張りである。正面は八角形の事務室、後方は方形の突出部(和室・事務室)が取り付く小規模な建物である。本館竣工により、現在地に移築された。門番所と旧正門(土塁の一部を含む)も同時期の学校施設として価値が認められ、重要文化財に指定されている。

旧正門は,高等農林の本館竣工(1912年)に伴い、本館西側の河岸段丘上台と下台の間に取り付け道路を築き、造られた。上台には土塁を盛り、花崗岩を積み上げた門柱がそれを支え、あたかも城郭のような構造である。門柱上には古い地球儀のような門柱灯が載っている。門扉は失われているが、門柱3本と土塁が残っている。門内部には1920年に並木の始点として植栽されたユリの木の巨木があり,今は無き旧並木を伝えている。

農学部食堂。528円。資料館の近くにあり、11時オープンと同時に入店した。

 

このあと、岩手県立博物館へ向かった。

盛岡市 安倍館稲荷神社・厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡