国史跡・志波(しわ)城跡。盛岡市上鹿妻五兵エ新田。
2023年6月7日(水)。
城内の竪穴住居群。
外郭築地塀から約100m内側には、竪穴住居群が帯状に密集し、当時1100棟から2200棟の住居があったと推定され、多くの兵士が駐屯していたと考えられる。
竪穴住居跡は方形から長方形で一辺4mから5mのものが多く、煮炊きのカマドが壁際につくられ、煙が外に出るようになっている。
城内の兵士の多くは城柵の造営と守衛のため関東・甲信越地方から徴発された鎮兵(ちんぺい)で、「上総」(千葉県)といった兵士の出身地をうかがわせる墨書土器がある。
多数の兵士が城内に居住している城柵は他になく、志波城が朝廷の最前線基地として軍事的役割が大きかったことが分かる。
政庁の構造。
志波城の中枢である政庁の築地塀は、基底幅が1.8mと推定され、築地各辺中央には門があり、政庁南門は八脚門(はっきゃくもん)である。
北門と東・西門は建て替えがあり、それそれ八脚門と四脚門(しきゃくもん)に改築されている。
政庁内部には、高床の正殿と東西脇殿がコ字形に配置され、これら建物に囲まれた広場で、朝貢するエミシに位階や禄物(ろくぶつ)を与えてもてなす儀式「饗給(きょうごう)」がおこなわれていた。
志波城には国司や鎮官(ちんかん)といった都から派遣された官人が城司(じょうし)として常駐し、儀式を行っていた。
政庁内にはこのほか多くの掘立柱建物があり、倉庫や官人の宿舎となっていたと考えられる。
復元された政庁南門。
政庁南門横から正殿跡・西門・岩手山。
政庁正殿跡。
政庁正殿跡から政庁南門。
正殿跡から政庁東門方向。
復元された政庁東門。
復元された官衙建物。
政庁周辺の官衙。
政庁のまわりには、役人が実質的な業務を行っていた官衙(かんが)建物群が発見されている。調査の進んでいる南東官衙では、長方形の広場を囲むように建物が配置され、2時期の変遷があることが分かっている。このほかの南西官衙と東官衙も、それぞれ役割分担をもって機能していたと考えられる。
役人たちは、城の維持や物資の中継、北上盆地北部の経営計画、北のエミシへの軍事計画をたてる仕事などを行っていたのであろう。
城内からは、人々が使っていた土器や鉄製品などの遺物が出土している。
土器は、須恵器という窯を使って高温で焼いたものが多いのが特徴で、食器である坏(つき)や椀、蓋のほか、役人が使う硯がある。
「厨」・「酒所」と墨書した土器があることから、儀式や饗宴の食事をつくる施設があったと推定される。
鉄製品は、弓矢の鏃(ぞく)や刀の鞘尻(さやじり)、鎧(よろい)の小札(こざね)といった武具のほか、鎌や斧、釘、刀子(とうす:小刀)といった農工具がある。
砥石や火をおこすフイゴの羽口(はぐち)もあり、鉄器を加工する小鍛冶が行われた跡も発見されている。
また、馬の歯や馬具である轡(くつわ)が出土していることから、城内に馬がいたことが分かる。
17時前に見学を終え、雫石町の道の駅へ向かった。翌朝は2度目の小岩井農場見学から始まった。