盛岡市遺跡の学び館。盛岡市本宮荒屋。
2023年6月8日(木)。
1時30分過ぎに雫石町の小岩井農場を出て、盛岡市南郊の盛岡市遺跡の学び館に12時20分頃に着いた。
盛岡市の北西部、雫石川北岸の厨川地区は多くの埋蔵文化財を包蔵する地域として知られている。特に大館町(おおだてえちょう)・大新町(だいしんちょう)を中核とする広範な大館遺跡群には、古くは約12000年前の縄文時代草創期から約 400年前の中世城館まで長期にわたる遺跡が残されている。
縄文時代草創期の土器は、大新町(だいしんちょう)遺跡出土の「爪形文(つめがたもん)土器」があり、約1万1000年前のものと考えられている。
爪形文土器。遺跡:大新町遺跡。年代:縄文時代草創期(約1万2000年~1万年前)。
土器の表面に動物の骨などで爪形の文様がつけられている。この土器は薄くつくられていて、厚さは5mm前後、小型だが市内で出土した最も古い土器のひとつ。
縄文時代早期の土器は底が尖り、小さな丸棒に線を刻んで回転させ菱形や格子目の文様をつける「押型文土器」、細い棒で横や斜めに直線を引く「沈線文土器」、貝殻の縁を押しあて文様をつける「貝殻文土器」、撚ったひもを回転して文様をつける「撚糸文(よりいともん)土器」、ヘラ状工具を引いてはみ出し盛り上がった線を文様とする「微隆起線文(びりゅうきせんもん)土器」などが出土している。厨川地区の大新町遺跡・館坂(たてさか)遺跡・宿田(しゅくだ)遺跡からは、まとまってこれらの土器が出土している。
キャリパー形深鉢土器。遺跡:大館町(おおだてちょう)遺跡(岩手県指定史跡)。RA102竪穴住居跡出土。
年代:縄文時代中期後葉〔約4500年前〕。大木(だいぎ) 8b式期 。
高さが約93cmもある国内最大級の縄文土器である。キャリパー形という口縁(こうえん)部分がふくらみ、胴部分がくびれる独特の器形をしている。遺跡ライブラリーの中央に展示している当館のシンボル的土器である。
深鉢形土器。重要文化財。複製。
遺跡:繋(つなぎ)遺跡。年代:縄文時代中期(約4500年前)。
1951年に校庭の整地工事の際に発見された7個の完形の縄文土器の1点である。大胆で整然とした構図のもと、全面に隆沈線(りゅうちんせん)による唐草状の大渦巻文を中心として、小渦巻文や懸垂文(けんすいもん)が描かれており、北上川流域における代表的な縄文時代中期の土器といえる。〔高さ46.5cm〕
縄文時代中期〔約5000~4000年前〕になると、人々は条件のよい場所に長く生活するようになり、大きなムラがつくられるようになる。盛岡では、主な川やその合流点をのぞむ高台に地域の拠点的な大集落がみられる。
繋(つなぎ)遺跡〔繋地区〕、大館町遺跡〔厨川地区・岩手県指定史跡〕、柿ノ木平(かきのきだいら)遺跡〔中津川地区〕、川目C遺跡〔簗川地区〕がその代表で、たくさんの竪穴住居跡が重なり合い、食料を貯蔵する巨大な穴も多数みつかっている。
縄文時代中期には、美しい造形の土器が大量に作られるようになり、その形も深鉢形・キャリパー形、樽形、浅鉢形、吊手付など、種類が豊富となります。盛岡では「大木式(だいぎしき)」と呼ばれる独特の美しい渦巻き文様が特徴的である。
大館町遺跡は、縄文時代中期(大木 8a . 8 b式期)を主体とする大規模な集落で、南面する緩やかな傾斜地全体を占地している。雫石川北岸の丘陵性台地の縁辺部に位置する遺跡の南西部には、北西から南西方向へ蛇行しながら流れる小諸葛川が遺跡の西端になっている。
遺跡の範囲は、東西220m、南北250mで、東端は縄文時代草創期・早期と古代を主体とする大新町遺跡と接している。
大館町遺跡のムラは、中央に広場をもち、それを竪穴住居などが囲む環状集落となっている。この時期の竪穴住居跡は、平面形が円形のものが多く、その床中央には石で囲んだ炉があり、煮炊きがされていた。
土器は、中期遺構及び包含層から多量に出土している。主体となるのは大木 8a~8b 式期であるが、 8b1・2式は量的に多くない。
1980年度発掘調査で検出されたRA102竪穴住居跡出土土器は、埋士からの層位的出土状況から大木 8b-1式期 (C. D層)、8b-2式期 (A・B層)に細分される。
RA102C.D層出土の土器は大木 8a式に近似していながらも、キャリパー形深鉢などの口縁部文様・体部文様帯に多くの変化が認められるものであった。口縁部文様帯は 8a式段階が隆線・隆沈線などによる波状文・波頂部に小渦巻文が加飾される波状文が主体的であるのに対し、8b-1式期は波状文を多用せず、渦巻文を端に加飾する横位展開による隆線状の文様を施す。また渦巻文には腕をもつものが多い。体部は横位平行沈線による文様区画が頚部付近で見られ、体部は横位平行沈線より底部にかけて垂直の沈線が施されるようになる。
8b-2式期段階になると短い隆沈線などで文様を連結・区画させるようになり、連結部は楕円状の区画になる。体部の文様帯には、沈線による大胆な渦巻文が描かれるようになり、精製された土器品に関しては隆沈線で渦巻文など主体となる文様を施す。
柿ノ木平遺跡では、多くの石を何重にも囲んだ大きな複式炉もみつかっている。また、住居の床に穴を掘り、底に穴をあけた深鉢形土器を逆さに埋めた「伏甕(ふせがめ)」が約50基発見されていて、全国的にも珍しい。
小型吊手形土器。縄文時代中期。川目C遺跡〔簗川地区〕。
単孔土器。縄文時代後期。向田遺跡。
土偶は、縄文時代中期から板状のものが作られるようになり、祭祀や呪術に使われたと考えられる。
後期には、繋地区の蒔内(しだない)遺跡でダム建設に伴う岩手県教育委員会の発掘調査の際、人間大の大型土偶の頭部が出土している。