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岩手県紫波町 高水寺城跡 斯波氏苗字発祥の地

2023年11月11日 13時28分43秒 | 岩手県

高水寺城跡。岩手県紫波町二日町古舘。

2023年6月8日(木)。

矢巾町歴史民俗資料館と国史跡・徳丹城跡の見学を終え、国道4号線を南下して紫波町の高水寺城跡へ向かった。城山公園の車道終点駐車場は本丸直下にある。草で覆われた本丸には愛宕神社があり、駐車場からは北西への展望がある。

高水寺城は、室町時代の管領家斯波氏の一族で紫波郡を領した高水寺斯波氏の本城であり、斯波氏の苗字発祥の地として所縁が深い。江戸時代初期に郡山城(こおりやまじょう)と改称した。

高水寺城は、北上川右岸の独立丘陵に位置し、規模は東西550m南北700mに及ぶ平山城である。最頂部は標高180mを測り、北上川中流域を一望できる。

最頂部の本丸(御殿)跡は東西60m南北120mで、二の丸跡は東西50m南北100mほど。本丸を中心に、南に若殿屋敷(二ノ丸)、姫御殿、東に家臣の右京屋敷、台所屋敷など、蓮弁状に連なる。各郭には階段状の腰郭が続く。主要な郭を巡る空堀と土塁は改変を受けて不明な点も多いが、急崖をなす東辺を除いて二重、三重の塁濠が中腹から山裾にかけて残っている。南西に「吉兵衛館」、その西方に「西御所」が続く。

高水寺城の築城は、建武2年(1335)に足利尊氏の命により奥州管領として下向した足利高経の長子・斯波家長が、『吾妻鏡』にも登場する当地方の古刹、高水寺の寺域の一部を城館として整備・造営したことに始まるとされる。

のちの斯波氏の祖で足利氏4代泰氏の庶長子である足利家氏が、鎌倉時代中頃に斯波郡を所領として以降、子孫は現地に代官を派遣していたとみられる。家氏の曽孫が高経である。

家長以降の斯波氏は現在の紫波郡・花巻市東部などの66郷を支配した。戦国時代に入り、平野部の城館のみでは防御上の不安が生じたため、郡山の丘陵上に詰の城を築き郡山の山城が斯波氏の本城と見なされ、高水寺城または志和館(城)と称された。斯波氏が隆盛をきわめていたころは「斯波御所」と称されていた。

大永元年(1521)および天文6年(1537)には南部氏と交戦し、岩手郡を攻略している。詮高(あきたか)の代には次男を雫石に、三男を猪去(いさり)に配して「三御所」といわれた。

しかし、三戸南部氏の南進政策は対立抗争を激化させ、天正16年(1588)岩清水右京の謀叛を契機に斯波詮直は南部信直に敗れ、斯波詮直は城を脱出してほぼ無抵抗のうちに陥落した。

天正十九年(1591)南部信直は高水寺城を郡山城と改め、中野康実(やすざね)を城代に任じ、郡山は郡治の中心となった。盛岡城築城に際しては南部利直の10数年間の居城になり南部領の中心となった時期もあったが、寛文7年(1667)に至って廃城となり、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。

本丸の石垣は、弘化三年(1847)38代藩主、南部利済によって郡山古城東側に架設された承慶橋建設に用いられたという。

現在は、総合公園「城山公園」として整備されている。

斯波氏は、室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。嫡流は、鎌倉時代は足利尾張家、室町時代は武衛家とよばれ、足利高経の四男斯波義将(よしゆき)以降、越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、12代斯波義寛(よしひろ、義良)以後は本拠地を越前から替えて尾張に下向、守護代の織田氏に擁されるが、戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した。

越前守護職は1379年ころの義将以後世襲化した。尾張守護職は1400年ころ,斯波義重が尾張守護に着任以後戦国期に至る150年間世襲し、越前時代からの被官甲斐・織田・二宮氏らが尾張に送りこまれた。遠江守護職は1419年に斯波義淳が任ぜられて以降世襲した。しかし斯波氏は遠江を本拠としなかったため,今川貞世(了俊)や仲秋系の遠江今川氏の勢力が根強く残っていた。

斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の庶長子家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん、現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。

家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、家氏も嫡子から庶子へと改められた。代わって得宗家の北条時氏の娘が泰氏の正室となって頼氏を儲け、足利氏宗家を継承する。

だが元は嫡子であった家氏は、足利一門中でも宗家に次ぐ格を有し、足利宗家とは別に鎌倉殿御家人となった。また弟の頼氏が早世したため、相続した家時の後見人となって惣領も代行した。

この子孫が代々尾張守に叙任されたため、足利尾張家と呼ばれる家となる。このように鎌倉時代の斯波氏は足利姓を称する足利別流の扱いであり、斯波氏として散見され始めるようになるのは室町時代の半ばになってからである。「斯波」の読み方についても「斯和」「志王」などの別表記から、元々は"しわ"だったものが後に"しば"に変化したと考えられる。

足利尾張家当主高経の嫡男家長が『太平記』に「志和三郎」あるいは資料に「志和尾張弥三郎」などの名で現れるあたりが斯波(志和)氏を名乗るはじめで、家長は所領斯波郡のある陸奥国で奥州総大将兼関東管領となり、南朝方の北畠顕家らと対抗し、17才の若さで鎌倉において戦死した。

奥州斯波氏は奥州・羽州に定着した斯波氏の庶流をいう。高経の弟の斯波家兼の系統である大崎氏、最上氏、黒川氏、高経長男家長の系統という高水寺斯波家などがあり、特に大崎・最上両氏は奥羽両国の探題職を歴任した。

斯波氏の名乗りの起源は陸奥斯波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。家氏のあとを継いだ宗家は、陸奥の斯波郡と下総の大崎荘とを相続した。南北朝時代の建武2年(1335年)斯波家長が南朝側鎮守府将軍北畠顕家を抑えるために奥州総大将に任じられるが、足利尊氏の子足利義詮の執事を務めていたため下向はしなかったとみられる。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断・沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。斯波家兼が管領に任ぜられ、子孫である大崎氏がやがて世襲する。

高水寺斯波家。

奥州斯波郡の高水寺城(現・岩手県紫波町)を拠点に栄えた斯波氏は、斯波家長の直系子孫と称する。家長には詮経という子があったと系図に記され、この詮経が高水寺斯波氏の祖になったとされている。詮経は一族からの養子と言う説もある。一方で、奥州斯波氏は高経の弟で奥州探題として下向した大崎家兼の子孫が祖になったという説もある。

斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称され、大崎氏と同格であった。永享7年(1435年)に発生した和賀の大乱では大崎氏の職務代行者として南部氏など北奥の諸氏を指揮している。しかし、応仁の乱を契機として足利政権が衰微していくとともに斯波氏も相対的に勢力を失っていった。その結果、郡内諸臣の信望をも失い、ついには三戸南部氏の攻勢にさらされるようになる。

南部氏が天文9年(1540年)に岩手郡に侵攻して滴石(雫石町)の戸沢氏を攻略し角館へ退去させると、これに対し斯波詮高は天文14年、南部氏から太田(盛岡市内)、滴石地方を奪い取るなど積極的な拡大を見せている。詮高は嫡男経詮に家督を継がせ、次男詮貞を滴石から改称した雫石城に置き、三男詮義を猪去城(盛岡市猪去)に置いて、南部氏の反攻に備えた。

だが後に南部氏の圧力が増すと、斯波詮真は南部氏24代晴政の圧力に屈して、南部一族九戸政実の弟弥五郎を娘婿に迎え、高田村を知行地として与えた。弥五郎は高田吉兵衛を称して、高水寺城の一角に居住した。詮真の子詮直(詮元・詮基)の代になると確執して、弥五郎から改名した高田康実は天正14年(1586年)、南部氏26代信直の下へ出奔する。それに対し詮真は南部領へ攻め入るも南部軍の反撃にあい逆に侵攻されてしまい、高水寺斯波一族の雫石久詮と猪去義方は攻められて本家の斯波御所に逃れ、雫石御所ならび猪去御所が滅ぼされる。結果稗貫氏立ち会いの下で両家は和睦し、斯波氏は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失ってしまう。

斯波詮直は家中の統率が取れず、天正16年(1588年)、南部に仕えた康実に岩清水義教らが内通し謀反を起こす。詮直は岩清水義教の兄岩清水義長に命じて、弟の居城である岩清水城(矢巾町)を攻めさせるが、この混乱に乗じて南部信直が自ら出陣してくる。詮直は領内に動員令を発するが、主家存亡の危機に際して、志和郡東部の大萱生氏・江柄氏・手代森氏・乙部氏・長岡氏・大巻氏らは参陣せず離反して南部軍に投降するか屋敷に籠り、高水寺城に駆けつけたのは岩清水義長、家老細川長門守、稲藤大炊助など少数だった。詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡し、義長は高水寺城で戦死する。詮直はその後諸国を放浪し、戦国大名としての高水寺斯波氏は滅亡した。

『岩手県史』では、諸記録・諸系図から、「詮元(詮直・詮基)」の時に滅亡し、その子に詮森、孫に詮国があったとみなしている。

かつて本家の高水寺御所と合わせて三御所と称された一族の雫石御所雫石氏、猪去御所猪去氏はともに盛岡藩士として続いた。

 

高水寺城跡を見学後、道の駅「紫波」へ向かった。10日(土)の「チャグチャグ馬っこ」に合わせ、翌朝は盛岡市・滝沢市の見学を予定し、福田パン本店から始まった。

岩手県矢巾町 矢巾町歴史民俗資料館②木製冑 南部曲り家


岩手県矢巾町 矢巾町歴史民俗資料館②木製冑 南部曲り家

2023年11月11日 09時38分09秒 | 岩手県

矢巾町歴史民俗資料館。岩手県矢巾町西徳田。

2023年6月8日(木)

木製冑コーナー。

2006年(平成18年)7月31日に徳丹城跡遺跡の西側に発達する後背湿地で確認された工房施設群の井戸跡から、国内初となる木製の冑が発見された。過去の文献には木製冑の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。

前後長24.5cm、左右長20cm、高さ16.8cm、厚さ2cm、樹種はトチノキで、黒漆が薄く塗布してあった。

放射性炭素による年代測定の結果、塗られた漆は7世紀後半のものと測定された。これは、徳丹城造営の9世紀から百数十年も古く、武具として徳丹城に持ち込まれた冑が水桶として転用されたものと思われる。

佐々木家曲家は、南部地方特有の家屋形態を今に伝える町内でも数少ない貴重な建造物として、昭和61年1月27日に町指定有形文化財に指定された。同年に、もとの所在地であった藤沢地区から、資料館の北側の敷地に移設復元された。

母屋(おもや)の北側に、南向きの馬屋(うまや)が取付く典型的な形式で、藩政時代は村役と呼ばれる、現在の村長にあたる役職の家であったため、建坪は90坪と大きいものになっている。

母屋は基本的には、食違い四間取型式の前常居型で、庭寄りに常居(じょい)と寝間(ねま)があり、その南隣には上座敷、中座敷、下座敷の畳敷きの3間が外庭に面している。

母屋と馬屋を連結する土間(どま)は別名『庭』と呼ばれ、生活の主体をなす空間であった。小作農家から収められた米を計量する計り場(はかりば)と呼ばれる板間もこの空間に含まれている。

外庭には、塀中門(へいじゅうもん)と呼ばれる門があり、座敷と外庭とが一体化し、その格式高さを今に伝えている。

 

矢巾町歴史民俗資料館と国史跡・徳丹城跡の見学を終え、紫波町の高水寺城跡へ向かった。

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