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盛岡市 岩手県立博物館①重文・大型土偶頭部 萪内(しだない)遺跡出土

2023年11月16日 17時09分47秒 | 岩手県

岩手県立博物館。盛岡市上田松屋敷。

2023年6月9日(金)。

宮沢賢治の母校・旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)の見学を終えて北上し、岩手県立博物館に着いた。

気仙隕石(けせんいんせき)。

採集地。岩手県陸前高田市気仙町長部字丑沢 長圓寺境内。

1850年6月13日(嘉永三年五月四日)落下。標本は実物の一部で、幅は約13cm 、1080g。

解説。隕石はおよそ46億年前に誕生した太陽系の様子を物語っています。気仙隕石は石質隕石としては日本最大(135kg)であり、多くの人々に落下のようすが目撃されています。明治27(1894)年に帝国博物館(現国立科学博物館)に寄贈され、地元ではぎ取られたものや海外に流出したものもあって、現在は106kgとなっています。

南部北上山地。

特に古い時代の地層や岩石は、主に北上山地の南側(南部北上山地)に分布します。最も古いものは約5億年前(古生代のカンブリア紀)の岩石で、大船渡市や奥州市などで見られます。また、大船渡市で見つかった4億年以上前(古生代のシルル紀)のサンゴ化石などを含む石灰岩は、かつて日本で最古の岩石とされていました。こうした化石などから、大昔の南部北上山地は赤道近くに位置する、温かく浅い海の中であったと考えられています。

北部北上山地。

一方で北部北上山地は、もともとは深い海の底であったとされています。しかし、大規模な造山運動が生じ、中生代の白亜紀(約1億4500万年~6600万年前)の初めまでに現在の北上山地の原形ができました。また、白亜紀の中頃~新生代の古第三紀(約6600万年~2300万年前)の北部陸中海岸の地層からは、アンモナイトやサンゴなどの化石が見つかるほか、岩泉町では日本で最初の恐竜化石「モシリュウ」も見つかっています。

細石刃。旧石器時代後期。盛岡市玉山区 大橋遺跡出土  。  

細石刃(さいせきじん)は、まるでカミソリの刃のようなとても小さい石器で、後期旧石器時代終末に作られたものです。これを製作・使用していた文化を「細石刃文化」と呼んでいます。

細石刃の特徴は、規格のそろったものが量産される、という点にあります。そのため製作方法もきわめて規則的で、旧石器人の高度な石器製作技術がうかがえる石器です。

石の割れ方には法則性があります。細石刃のような繊細で規格のそろった石器を量産するためには、その基となる石核(細石刃核)を一定の形に整える必要があります。

細石刃核を作る過程で出るくずも、一定の形をしています。打面形成・再生剥片はその最たるもので、細石刃を剥がすための打面(平坦面)を形作る時に生じるものです。一見、小さなくずですが、ここから細石刃製作技法に迫ることができます。

狩猟文鉢。縄文時代後期。馬立II遺跡(二戸市)出土。

馬立Ⅱ遺跡は安比川支流の段丘上に立地する縄文中期から晩期の集落跡で、竪穴住居跡19棟、土坑24基などが見つかっている。

遺物の中でもっとも注目されるのはフラスコ状土坑の底から発見された狩猟文土器である。朱塗りされた口縁部から体部までの破片には、動物、弓矢、陥し穴、木と推定されるレリーフ状の文様が施されている。

縄文土器(切断蓋付壷)。縄文時代時期。二戸郡浄法寺町 合名沢遺跡出土。

高さ13.5×幅11.0㎝。

二戸市浄法寺町合名沢(あいなざわ)遺跡から出土した縄文時代後期初頭の壺形土器です。高さは13.5㎝で、手のひらに乗る程度の大きさです。煮炊きの痕跡が無く、全体的に赤い顔料が残っていますので、日常に使ったとは考えにくい土器です。

上から3分の1位のところに切れ目があり、上の「蓋」と下の「身」に分かれています。いったん壺の形に成形し、生乾きの時に切り離されたようです。蓋と身の向かい合った二箇所に小さな孔(あな)があります。身に何か納め、蓋をし、紐(ひも)で結わえて大切に保管することができます。

単孔土器。縄文時代後期後半。岩手郡岩手町小山沢付近出土。高さ(17.0)×底径4.4㎝。

縄文時代後期後半の壺形土器です。岩手郡岩手町小山沢(こやまざわ)付近で出土しました。下の方に孔(あな)が一つ開けられているのが特徴で、「単孔土器」と呼ばれています。孔の部分に栓をすると液体を溜めておくことができます。孔が底ぎりぎりではなく少し上にあることから、液体に含まれる雑物を沈殿させ、上澄みだけを注ぎだすことが可能です。

大型土偶・頭部(重要文化財)。縄文時代後期。盛岡市萪内(しだない)遺跡出土。

高さ23cm。文化庁蔵。

土製素焼。顔面は眉弓上部に隆起帯をつくり、頬の外側から顎上部にかけて太い沈線をめぐらし、しかも全体を一段高くつくり、他と区分している逆三角形状の仮面を着装した状態を示しているものと思われ、また縦横の綾杉状沈線文は組み合わせ仮面(土製の耳・鼻・口を皮や布に閉じて使用する)の装飾と解される。

大型土偶は、全身像であったと見られ、少し離れた地点から脚の一部分もみつかっています。身長は120cm位と推定され、一般の土偶は大きなものでも30cm位ですので、もし全身があったなら全国でも類を見ない大きさとなります。墓壙群の周辺から、大型土偶の頭顔部が見つかりました。復元されたものは、頭のいちばん上から顎までの長さが23cm、左右の耳から耳までの幅が22.3cmもあり、実際の人間とほぼ同じ大きさに作られていることが分かりました。

頭部には縄文を施して頭髪を表し、耳は細部にわたるまで人体の特徴を写実的に表現しています。頭のてっぺんの部分には、径0.5cm、深さ1.5cmの穴が5つ、十字に並んでいます。これは羽毛などを刺し、装飾にするために開けられたと考えられます。同じような穴は耳から顎にかけてのラインにも等間隔に並んでおり、飾りを付け、ひげを表していたようです。

大型土偶に刻まれていたイレズミと同じ文様(もんよう)を顔に入れ、歯を抜いたり、削ったりして手を加えています。そして、縄文人の特徴といえる張り出した眉間(みけん)、あご、大きな鼻をしています。

作られた時期は縄文時代後期と推定されていますが、このような大型土偶は縄文時代全体を通しても最大級のものです。縄文時代の風俗や信仰を知るうえで極めて貴重な資料であることから、昭和59年、国の重要文化財の指定を受けました。

萪内(しだない)遺跡は、繋(つなぎ)温泉の西1kmに位置する縄文後期を中心とした遺跡。雫石川によって形成された雫石盆地の南東縁で、同川右岸に発達した沖積世段丘上にあり、標高は165m前後。

昭和51年(1976)および同53―55年に御所ダム建設に伴って行われた調査によって、竪穴住居跡55棟・土壙927基・漁労遺構1基、階段状杭列・土止杭列・洗い場各1、足跡98、旧河道1条などを検出。住居跡は縄文後期28棟・晩期16棟・時期不明8棟・平安時代3棟。縄文時代の竪穴住居跡の平面形は円形、規模は径4m前後で、周溝はない。

住居跡の中央付近に石囲炉・石組炉・埋設土器炉が設けられており、柱穴は壁際に沿って配置されるものと、竪穴の外周に配されるものがある。床面は自然堤防上のものに貼床されているものもあり、段丘上のものに張出部をもつ柄鏡状と、不整方形で周辺部に列石をもつものもあった。

住居跡や墓壙・貯蔵穴は比較的標高の高いところから、一方、木造遺構と足跡は雫石川側の低い湿地部分(旧河道)から見つかった。
木造遺構にはえりや階段状の杭列、水汲み場・洗い場と考えられる施設があった。えりとは、川などに設置される、漁のための「わな」で、魚の習性を利用したつくりになっている。これらの遺構から、萪内の縄文人は川をたくみに利用し、その恩恵を受けながら生活していたことが想像される。

発見された遺物。深鉢・浅鉢・注口などの土器。大型土偶を含む250余点の土製品、勾玉、耳飾り類、土器片製の円盤、土錘、スタンプ状、動物形、鐸形(たくがた)、中空球形(小球内蔵)、腕輪形などの土製品。

石鏃、石錐、石匙、石斧などの石器。石棒、石剣、岩板、岩偶類などの石製品。皿、浅鉢、漆器などの木器。

櫂(かい)状、砧(きぬた)状、トーテムポール状、杭などの木製品。櫛、籃胎漆器、弓類などの漆製品。

「トーテムポール状木製品」はクリ材に顔面の彫刻がほどこされたものである。

魔よけ、あるいはお墓のしるしに使われたものではないかと考えられている。

盛岡市 宮沢賢治の母校 旧盛岡高等農林本館(岩手大

学農学部附属農業教育資料館)