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岩手県花巻市 花巻市博物館④稗貫氏 永徳四年板碑 岩手軽便鉄道

2023年11月27日 13時35分28秒 | 岩手県

花巻市博物館。花巻市高松。

2023年6月10日(土)。

稗貫氏(ひえぬきし)は、陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。稗貫氏の始祖は源頼朝に仕え、奥州合戦によって北上川流域の稗貫郡を給されたことに始まるといわれる。

平安時代末、武蔵七党といわれる武士団のうち、最も大きな勢力をもっていたのは、横山党といわれた小野氏で、武蔵国埼玉郡小野保(埼玉県熊谷市中条)を本貫地とした。

小野義勝の代には領地の地名でもある中条(ちゅうじょう)を名乗っている。中条義勝(成尋)は、治承4年(1180年)源頼朝の挙兵のさい頼朝に協力して石橋山の戦いで活躍する。成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。家長は鎌倉幕府の評定衆に登用され、尾張国守護や三河国高橋庄地頭に補せられるなど、幕府で重用された。

次男義季は奥州刈田郡(宮城県刈田郡)に領地を与えられ移住し、領地の郡名である刈田を名乗った。その長男の義行が和賀氏の始祖となり、奥州和賀郡に領地を与えられ、刈田郡から和賀郡に移住し郡名である和賀を名乗った。

南北朝時代では北朝方として派遣された奥州探題の斯波氏に与したため、興国元年(1340年)に南朝方の南部政長に攻められて、興国2年(1341年)には壊滅的打撃を受けて衰退した。

南北朝時代が終わっても南部氏との抗争はとどまらず、永享7年(1435年)和賀の大乱で和賀氏支族・須々孫氏方に味方し和賀惣領家の飯豊城を落したところ、惣領家方についた南部守行が子・義政に3万近い大軍で参戦させて稗貫郡で大合戦となった。翌永享8年(1436年)2月、南部軍は稗貫領寺林城、台城を落とし、つづいて当時の稗貫氏本城・十八ヶ城(さかりがじょう)を包囲、ついに5月稗貫勢は南部氏配下になることで和議を結んだ。

室町期に奥州探題大崎家の傘下に入り、伊達、葛西、南部、その次位の留守、白河、蘆名、岩城に次ぐ位置で処遇されている。天文24年(1555年)には、時の当主である稗貫輝時は、上洛して将軍の足利義輝に謁見、義輝に黄金10両を献上し、偏諱を授与されている。

戦国期になると、南下政策の三戸南部氏へ対抗して衝突を繰り返した、紫波地方を領する高水寺斯波氏を、和賀氏と結束して支援した。天正14年(1586年)夏、斯波氏の女婿高田康実(九戸政実の弟)が三戸南部氏当主・南部信直に降ったことにより斯波詮真が南部領へ攻め入ったが南部勢に逆襲され、斯波方は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失った。稗貫氏立ち会いの下で一旦は斯波氏と南部氏の和睦がなったが、天正16年(1588年)南部信直は再び斯波氏攻略の軍を起こし、斯波詮真は居城・高水寺城を捨てて逃れ、高水寺斯波氏は滅亡した。

稗貫氏最後の当主である稗貫広忠は和賀義忠の子もしくは実兄である。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により、小田原征伐の際に参陣しなかったことを理由に所領を没収され、領主としての稗貫氏は滅亡した。天正19年(1591年)、広忠は実家の和賀義忠と共に豊臣氏体勢に対して反乱を起こし、和賀義忠の居城だった二子城を奪回し、広忠のかつての居城の鳥谷ヶ崎城を包囲、落城寸前まで奮戦したが、秀吉の命令を受けた奥州鎮定軍に攻められて和賀義忠は戦死し、広忠は逃亡して程なくして死去したと伝わる(和賀・稗貫一揆)。鳥谷ヶ崎城一帯は南部氏のものとされ、南部信直が派遣した北秀愛により、城は花巻城と改名された。

「和賀系図」。鬼柳文書という、鬼柳家(和賀氏の庶流で、後に盛岡藩士)に伝えられた古文書(東北大学所蔵。『北上市史 第2巻』などに所収)の中にある。

 「和賀系図」は現在の裁判にあたる相論に使われたものと考えられている。仁治4年(1243)2月29日に死去した、行蓮(和賀義行)が、子供たちに譲り渡した土地について記され、鎌倉時代前期の和賀氏の所領と、その分割方法を知ることができる貴重なものである。

系図の最初に記されている「中条法橋盛尋」は、中条義勝といい、治承4年(1180)の源頼朝の初戦であった石橋山の合戦で活躍し、文治5年(1189)平泉の藤原泰衡の追討や、翌年の平泉の残党大河兼任の鎮圧に嫡子家長とともに出陣し活躍した。そのような功績により、鎌倉幕府では重く用いられ、法橋となり、幕府の建物や寺院の普請奉行としても活躍した。

 その次の義行の父「苅田平右衛門入道俗名義季西念」については、詳しいことはわかっていない。鎌倉幕府の侍所別当の和田義盛の養子となり鎌倉に出仕するとともに、苅田郡(現宮城県白石市、苅田郡)の領主にもなった人物である。

永徳四年の碑。中根子駒形神社境内。

板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。

この板碑は流紋岩をほとんど加工することなく利用して造られ、立方体の形をした石の四方に梵字(種子)が、正面には「永徳四年(1384年) 大才 三月八日」と刻まれている。梵字は正面が「サ(聖観音)」、左側が「キリク(阿弥陀如来)」、右側が「ハイ(薬師如来)」、背面が「ハク(釈迦如来)」と刻まれている。過去の調査によると、背面には「ハク」のほかに「バン(大日如来)」が刻まれ、正面の年号には「大才」の左側に干支の「甲子」きのえね)」という文字が見えていた。

板碑の多くは「十三仏信仰」により立てられている。これは唐代に中国で確立した十王信仰がもとになっている。

十王信仰は、仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で晩唐の時期に生七斎と七七斎という二つの仏教儀礼として成立した。全ての衆生は、初七日から七七日(四十九日)までの毎七日及び百か日、一周忌、三回忌に、順次閻魔大王など十王の裁きを受け、十王は死者の罪の多寡に鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなどの職掌を持つため、畏怖の対象となった。

生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを「預修」または「逆修」と呼んでいた。

日本では、平安時代末期に仏教由来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透した。鎌倉時代には十王をそれぞれ故人の救済・弁護をおこなう十仏と対応させるようになった。

南北朝時代には十三仏信仰が生まれる。十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地仏のことである。

この板碑の梵字を十三仏にあてはめると、「サ(聖観音)」が百か日、「キリク(阿弥陀如来)」が三回忌、「ハイ(薬師如来)」が七七日、「ハク(釈迦如来)」が二七日、「バン(大日如来)」が十三回忌に相当する。

花巻市内に残る南北朝時代の板碑の年号は、全て北朝側の年号になっており、板碑が立てられた地域が北朝側の支配下にあったことを示している。

 

花巻城、久慈城、高水寺城についての展示は該当記事に使用。

岩手軽便(けいべん)鉄道。

岩手軽便鉄道は、花巻駅と太平洋側の釜石駅を結ぶローカル線である現在の釜石線のうち、内陸側の花巻駅~仙人峠駅間を運行していた762mm軌間の軽便鉄道である。釜石線は、前身の岩手軽便鉄道が宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』のモデルといわれることから「銀河ドリームライン」の愛称で親しまれている。

1913(大正2)年10 月に花巻~土沢(つちざわ)間を開業させ、翌年4月に晴山(はるやま)駅まで延伸。東側からも建設が行われ、遠野~仙人峠間が同じ4月に開業した。同年12月に晴山~岩根橋(いわねばし)間と鱒沢(ますざわ)~遠野間、1915 (大正4)年7月に柏木平(かしわぎだいら)~鱒沢間、11月に岩根橋〜柏木平間が開業して全通し、花巻から仙人峠までが結ばれた。

岩手軽便鉄道は、さらに陸中大橋、釜石への延伸を計画していた。仙人峠駅から直線距離で4kmほどのところにある大橋までは釜石から既に1911年(明治44年)11月3日に釜石鉱山鉄道が開通していた。これにより、中間の徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。しかし標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅の間の標高差は大きく、さらに間に標高887mの仙人峠があることから、この間を直接鉄道で結ぶことができず、断念した。

1936(昭和11)年8月に国有化され釜石線となった。釜石側は、釜石東線(とうせん)として1944(昭和19)年10月に釜石~陸中大橋間が開業し、同時に旧・岩手軽便鉄道の釜石線は釜石西線(さいせん)となった。

また、西線の軌間を762㎜から東線と同じ1067㎜へ改軌する工事に着手。戦後の1950(昭和25)年10月に陸中大橋~足ヶ瀬(あしがせ)間が延伸開業し全通、今にいう釜石線が完成した。

 

岩手県花巻市 花巻市博物館③熊堂古墳群 蝦夷(えみし)の末期古墳