ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2010年8月30日、黒崎駅周辺を歩く

2013年07月12日 03時08分23秒 | 旅行記

 何度か記していることですが、川崎市に生まれ育った私は、28歳の時まで西明石駅より西へ行ったことがなく、1997年大分大学教育学部(当時)に就職することになって初めて九州に足を踏み入れたのでした。しかし、それからは、大分市に7年間住み、その後も9年にわたり、福岡市で集中講義を担当してきました。

 元々、あちらこちらへ行っては歩き回ることが好きな私は、頻度こそ福岡市に劣るものの、何度か北九州市を訪れています。九州最初の政令指定都市は、門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、そして若松市が合併して誕生しました。現在は7つの区で構成されていますが、区名を見れば歴史は明らかです。

 北九州市にある駅と言えば、何と言っても小倉駅が最も有名でしょう。また、門司駅、門司港駅、そして折尾駅が有名です。私はそのどれにも行っていますが、同市の西の中心とも言える黒崎駅を忘れてはなりません。隣に八幡駅がありますが、八幡西区の中心部は黒崎駅前地域です。それだけではありません。JR九州の駅で、黒崎駅の乗降客数は、長らく博多、小倉に次いで第3位でした。しかし、21世紀に入ってから低落傾向にあり、現在は鹿児島中央駅、折尾駅、大分駅に抜かれています。

 私は、これまで何度か黒崎駅周辺を歩いています。現時点での最後は2010年8月30日です。今回はその時の模様を取り上げます。なお、内容の基本は「待合室」の第389回「黒崎駅周辺を歩く」(2010年11月15日~22日掲載)であり、修正などを施したことをお断りしておきます。

※※※※※

 集中講義の期間中に、太宰府天満宮を訪れ、そこから北九州市へ行きました。黒崎駅周辺の様子が気になったことと、門司港駅付近に行ってみたかったことからです。しかし、宿泊先として滞在していた福岡市中央区から行くとなると、太宰府天満宮と北九州市では方向が全く逆になります。そのため、どのようなルートで行こうかと考えることになりました。とりあえずは西鉄天神大牟田線と太宰府線を乗り継いで太宰府天満宮へ行き、参拝を済ませました。或る意味で気楽な一人旅なので、ここから先は変わったルートをたどるのも面白いものです。

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 太宰府駅の前にバス停があり、そこから宇美営業所へ行くバスがあることがわかりました。しかも、それほど待たずに乗ることができそうでした。そこで、そのバスに乗ることとしました。途中の勝田あたりから、廃止された旧国鉄勝田線の跡に沿うように走ります。吉塚から志免(しめ)、宇美を経由して筑前勝田までの路線であった勝田線は、福岡都市圏の路線であったにもかかわらず本数が少なく、その結果として廃止されたのですが、旧国鉄の経営状態の悪さと問題点を極端な形で示した路線として有名でした。起点の吉塚は博多の隣の駅ですし、志免駅があった志免町は福岡県内の市町村でも有数の高い人口密度の市町村です。通勤路線としても活用できたはずです。これより悪い条件の路線が生き残っていることを考えると、当時の国鉄が勝田線を赤字のまま放置していたことの不可解さが際立ってくるのです。

 バスの終点の宇美営業所は宇美町の中心部から少し外れたところにありますが、宇美駅まで歩いてもそれほどの時間はかかりません。そこで宇美町役場のある市街地をゆっくり歩きました。勝田線の宇美駅の跡はよくわからなかったのですが、どういう訳か、香椎線の宇美駅と勝田線の宇美駅は離れていたそうです。我が川崎市にある浜川崎駅と同じような構造であったということになります。

 太宰府から北九州市の黒崎へ向かうのに宇美経由のルートを使うというのは、常識的に考えるとおかしいかもしれませんが、私は宇美に出てしまいました。ここから香椎線に乗り、長者原で篠栗線に乗り換えるつもりです。勿論、香椎で鹿児島本線に乗り換えるという手もあります。

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 長者原で篠栗線に乗り換え、そのまま筑豊本線を通り、黒崎駅に出ました。雨に降られた2006年9月4日以来、およそ4年ぶりのことです。

 ここは折尾駅ほどの知名度がありませんが、ソニックなどの特急電車も停車します(かつては寝台特急などが通過していましたが、現在は通過列車がないようです)。

 黒崎は八幡西区の中心であり(駅の近くに区役所もあります)、北九州市では副都心としての地位を得ています。しかし、最近はあまり明るい話題がありません。黒崎駅の乗客数も減少傾向にあり、かつてはJR九州の駅で博多駅、小倉駅に次ぐ利用者がいたということですが、現在は6位となっています。

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 私が降りたのは南口です。御覧のようにペデストリアンデッキとなっています。下を通るのが国道3号線です。

 西側にコムシティ(COM CITY)があります。複合商業施設で、2001年に開業したのですが、運営会社である第三セクター、黒崎ターミナルビルが2003年に自己破産に至ります。現在、北九州市立こどもの館、西鉄イン黒崎などが入っており、また、1階がバスターミナルと筑豊電気鉄道の黒崎駅前停留所となっていますが、かなりの部分が空き家状態となっているようです。

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 今度は東側です。地元では有名な百貨店である井筒屋黒崎店があります。メイト黒崎ビルという建物で、ここに黒崎そごう、黒崎フォーラス(ジャスコから転換)があったということです。1999年に黒崎フォーラスが閉店し、翌年には黒崎そごうも閉店しました。井筒屋黒崎店がここに移転したのは2001年のことです。

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 黒崎のアーケード街が見えてきました。月曜日の昼です。2006年に来た時もこの商店街を歩いています。その当時、やはり空洞化の波がこの黒崎をも襲っていましたが、開いている店舗は比較的多かったと記憶しています。さて、今回はどうでしょうか。

 この商店街はカムズ黒崎といいます。アーケードの入り口にはCAMS KUROSAKIと書かれているのですが、読みにくいデザインです。「繁昌横丁」と書かれていますが、歩いている人は少なそうです。

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 アーケード商店街を歩き始めてほどなく、人通りの少なさもさることながら、営業中の店舗が少ないことがわかります。シャッターが下りている店舗は、私の印象では4年前より増えているような気がします。昼とはいえ、お客が入っている店舗もあまりないようです。黒崎は、商業地域としては地盤沈下の傾向が続いていると指摘されているところで、実際に歩いてみるとよくわかります。

 シャッター通りと言われる商店街を歩くと、シャッターや窓などに「売物件」とか「貸店舗」などと書かれた不動産屋の案内板が貼りつけられているのをよく見かけます。右側にある建物もまさにその「売物件」で、2階にもかつては店舗があったのであろうと推測されます。アーケードから吊り下げられている案内表示に、閉店した店舗の名称が今でも残されています。黒崎の場合はそうなのですが、商店街によっては店舗の名称が消されている場合もあります。

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 4年前に歩いた時に、ここがどうであったか、全く覚えていません。今回は空き地となっていました。アーケードがあることからして、ここには大型の建物があったものと思われます。奥のほうに大型のパチンコ屋があるだけに、この空白は目立ちます。

 奥に見えるのが井筒屋Annex-1です。ここには無印良品、ブックセンタークエスト、アイ・メゾンなどが入っています。実はここがかつての黒崎店でした。また、ブックセンタークエストは、元々、井筒屋が展開してきた書店で、現在は福岡市の積文館書店が経営しています。

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 黒崎のアーケード商店街を歩き続け、アーケードがなくなったところで西のほうへ向かいます。風俗関係の店舗が多く並んでいる一角があり、再びアーケード商店街になりますので、今度はその商店街を駅のほうへ向かって歩き続けます。三角形のような感じでしょうか。

 ここも人通りはそれほど多くなく、閉まっている店舗もあります。4年前に偶然見つけたゲームセンターに入ってみたら、まさに昔ながらのゲームセンターであったので、懐かしくなり、つい長居をしてしまいました。


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2 コメント

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 三十年ほど前、黒崎の商店街は週末など肩と肩が... (白蛾)
2013-07-14 23:49:09
 駅前には数珠繋ぎの路面電車が折尾、直方、門司、戸畑へ向け、走っていました。相当な頻度でした。
 当時はバブルの前でした。今と比べると豊かさの尺度が違っていたように思います。格差もそれなりにありましたが、身の丈にあった生活を楽しめましたし、社会全体に心の余裕がありました。コミュニケーションの基本が成り立つ暗黙の同意があったからこその暮らしやすさだったのでしょうね。
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 コメントをお寄せいただき、ありがとうございます。 (川崎高津公法研究室長)
2013-07-15 08:39:26
 今から30年ほど前というと1980年代です。私にとっては10代の大部分ということになるでしょうか(1981年から中学生、1984年から高校生)。
 豊かさの尺度を初め、多くの基準が、1980年代から徐々に変わってきたのではないかと思っています。この頃は土光臨調による第二次行政改革で、国鉄の分割民営化を筆頭とする民営化が行われましたし、規制緩和の端緒もこの頃に見られます。バブルで価値観などが大きく変わった、ということは言えるのかもしれません。
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