ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

長崎市へ行ってみたくなって その2

2013年03月02日 00時06分16秒 | 旅行記

 〔以下、「待合室」第101回の「2001年冬の長崎市(その2)」(2004年6月18日から25日まで掲載)の再掲載です。なお、今回の写真は、全て2001年12月23日に撮影したものです。〕

 前回に引き続き、長崎への旅を取り上げます。蛍茶屋から長崎電気軌道の5号系統に乗って西浜町で降りたのですが、浜町、思案橋、新地中華街については撮影を行っておらず、写真が1枚もありません。新地中華街を抜けてしばらく歩き続けると、大浦天主堂下電停に出ます。

 急な坂を登っていきますと、大浦天主堂があります。江戸時代の末期、文久3年(1863年)末に建設が開始され、元治元年(1864年)末に竣工、慶応元年(1865年)の2月に祝別式が行われています。設計はフランス人神父が、工事は天草出身の棟梁が中心となって行ったそうです。長崎駅付近に日本二十六聖殉教者記念館がありますが、その事件にちなみ、正式には二十六聖殉教者天主堂といいます。この建物は、昭和8年(1933年)昭和8年1月23日、文部省によって国宝に指定されており、昭和27年(1952年)の修復工事終了を経て、昭和28年(1953年)3月31日には、文化財保護委員会によって、再度、国宝に指定されています。

 勿論、大浦天主堂の中に入りましたが、たしか撮影が禁止されていたはずです。私が入った時には、オルガンが響き、合唱の練習が行われていました。時折、教会に行くのですが、やはり荘厳な空気に包まれており、日常から解放されたような気分と、或る種の緊張感を味わいます。

 1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されました。その地点は浦上天主堂の近くですが、大浦天主堂も甚大な被害を受けています。おそらく、実際に原子爆弾を投下したアメリカ軍の兵士たちは、この長崎にキリスト教の歴史的施設があることなど、全く知らなかったのでしょう。彼らがこのようなレリーフなどをみたら、どのように思うのでしょうか。

 大浦天主堂を出ると、すぐにグラバー園に着きます。南山手にあり、坂に囲まれています。グラバー園は、安政時代に長崎に来た英国人商人、グラバーの邸宅があることから付けられている公園で、リンガー邸、オルト邸など、国が指定する重要文化財などの洋館が集められています。何かの本で読んだのですが、日本で最初に蒸気機関車が走ったのはこの長崎だそうです(もっとも、営業運転などではなく、デモンストレーションのようなものだったそうですが)。

 どういう訳か、グラバー園の中にある洋館の写真が一枚もないのですが(撮影しにくかったからかもしれません)、長崎の街の遠望を紹介するということで、御容赦下さい。

 グラバー園を出て、再び山の下へ出ます。孔子廟のそばを歩き、新地中華街のほうに少しばかり戻ると、有名なオランダ坂があります。元々、オランダ坂というのは特定の坂の名称ではなく、外国人居留地のある場所の坂の総称だったようです。その中で、東山手のオランダ坂が有名になったという訳です。入口には、長崎市による石碑が建てられています。

 この坂の入口付近は、道幅が狭い割に自動車の通行量が多く、歩きにくさを感じました。また、いかにも裏通りという感じで、少々寂れているのではないかとすら思えてきました。九州では、県庁所在地に人口などが集中し、増加するというのが一般的なのですが、長崎市は例外で、人口が減少しているそうです。

 それはともあれ、このオランダ坂には風情があります。次の写真でおわかりのように、石畳で、自動車は入れません。この坂を進むと活水学園があります。また、逆の方向に進むと港があります。

 ここから、私は石橋電停まで歩き、5号系統と1号系統を乗り継いで松山町で降り、平和公園、原爆資料館へ向かいました。この時も、長崎のような街に原子爆弾が投下されたことは歴史の皮肉以外の何物でもない、と考えながら。


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