ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

また古い写真で恐縮ですが、西鹿児島駅の写真などです。

2013年04月19日 00時57分20秒 | 旅行記

 デジタルカメラの登場により、静止画および動画の撮影、そして保管も容易なものとなりました。私は、これまで撮影した写真や動画をSD、メモリースティック、USBメモリ、CD-R、DVD-Rなどで保管しています。さらに、アナログカメラで撮影した写真をデジタル化したものもいくつか保存しています。

 時々、そうしたデータを見返すことがあります。これまでにも、掘り出してはブログに掲載してきましたが、今回もそうです。1999年8月、私は宮崎県と鹿児島県を当時の愛車、日産パルサーJ1Jを運転して周るという旅をしました。その記録を、ここに載せておくこととします。以下は、「ひろば」に第145回「鹿児島での夏」として、2005年8月9日から9月21日まで掲載した記事の再録です。なお、一部に修正を施しています。

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 デジタルカメラを購入するまで、私は、それほど写真に関心がなく、あまりカメラを持ち歩いたりしていません。そのため、大分大学での卒業式(教育学部時代に私が代表を務めていた法律学科のもの)などを別とすれば、旅先の写真などもあまりありません。また、少ない写真も、整理をあまりうまくやらなかったこともあって、散逸しています。多分、何枚かは紛失しているのではないかと思われます。惜しいことをしたものです。

 もっとも、私は、いつも近所などを歩き回り、時には車で走り回っているのに、本格的な旅はあまりしていません。日帰りばかりなのです。大分に住んでいた頃も、福岡や佐賀、熊本や宮崎には何度か行っていますが、仕事の時を除けばどこかで宿泊することなく、たとえ真夜中であっても帰ります。自家用車を持つとこういうことになるのでしょうか。目的の一つが買い物だから、ということかもしれません。

 そんな私ですが、鹿児島と長崎に行った時は本格的な一人旅でした。既に長崎についてはこのコーナーでも取り上げていますので、今回は鹿児島です。撮影日は1999年8月13日と14日です。ちょうど、ザビエル上陸450周年にあたる時で、市内では関連の行事などが行われていたはずです。

 なお、アナログ二眼レフで撮影した写真をスキャナで読み込んだものばかりですので、画質の悪さについては御了承下さい。

Kagoshima01

 鹿児島市の代表駅、西鹿児島駅です。地元では西駅と言っていました。市の代表駅が鹿児島駅でなく西鹿児島駅というのも珍しく、とくに県庁所在地ではここだけでした。九州新幹線の開業日に鹿児島中央と改称しましたが、今も私は西鹿児島駅と言ってしまいます。それは、おそらく、私が小学生だった頃に訪れたブルートレインブームのせいでしょう。東京駅で「はやぶさ」や「富士」を見て、この西鹿児島駅まで行ってみたいと思っていたのです。「はやぶさ」は鹿児島本線(博多、熊本)経由、「富士」は日豊本線(大分、宮崎)経由で、どちらも24時間以上かかっていました。今は「はやぶさ」も「富士」も西鹿児島まで行きません。

 この駅は、私が訪れた九州島内の駅で、博多駅および小倉駅の次くらいに立派で大きな駅です。九州各県を代表する駅と言えば、博多駅、佐賀駅、長崎駅、大分駅、熊本駅、宮崎駅、そしてこの西鹿児島駅ですが、これらの全ての駅を利用したことがある私としては、西鹿児島駅の印象が非常に強く残っています。もっとも、それは大きさだけでなく、売られているお土産品のためかもしれません。商品を見ていたら、サツマイモで作ったものばかりが並んでいるのです。サツマイモそのものが段ボール詰めで売られていて、その隣に芋焼酎があり、という具合なのです。

 私が宿泊したのは、この西駅の近くにある鹿児島東急インですが、すぐそばに西郷隆盛と大久保利通の生家らしい場所があります。

Kagoshima02

 西駅の前に鹿児島市電の停留所があります。何日の何時頃に撮影したかわかりませんが、市内はこれに乗ってめぐることにしました。通勤用であれ観光用であれ、路面電車が走っているのは便利です。

 この時の旅行は、当初、鉄道を使うつもりでしたが、時刻表などで調べた結果、私が周りたいコースを取ると接続などに問題が生じることがわかりました。しかも、鹿屋には鉄道路線がありません(1980年代に大隅線と志布志線が廃止されました)。そのため、当時の愛車日産パルサーJ1J(川崎ナンバーで茶色のメタリック)を運転しました(この1ヶ月後にウイングロードXに乗り換えています)。

 8月12日に大分の自宅を出て、まもなく走行距離の総計が40000キロメートルを突破し、延岡で昼食のために休憩しただけで、宮崎市を南下して青島海岸を通り、鬼の洗濯岩を遠くから眺め(もっと近くで見たかったのですが駐車できなかったのです)、日南市に入って飫肥や油津などをまわり、都城へ出たのでした。都城駅前で一泊し、翌日は都城から鹿屋市と垂水市を周って桜島に入り、活火山の様子を見ていました。それからフェリーで鹿児島市街へ出ています。午後には指宿枕崎線に乗って山川へ行っているのですから、いかに気ままな一人旅とはいえ、よくぞここまで無茶苦茶なコース選択をしたものだと思います。もっとも、列車のダイヤなどがよければ終点の枕崎まで行くつもりでした。

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 西駅から市電に乗り、終点の郡元に到着しました。市電は、鹿児島駅から交通局前を経由して谷山へ行く1系統と鹿児島駅から西駅を経由して郡元へ行く2系統があります。奥のほうが、交通局、天文館、そして鹿児島駅の方向です。

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 もう6年前のことで、どのような行動をとったのか、日記を見返しても思い出せない部分もありますが、8月14日の午前中に、2系統に乗り、郡元で1系統に乗り換えて終点の谷山へ出ています。郡元から少し走ると、道路の上ではなく、専用の軌道に移っています。指宿枕崎線と並走しつつ、鹿児島市電で最も乗降客が多いという終点に到着しますが、指宿枕崎線の谷山駅は少し離れた所にあり、最初は迷います。

 谷山駅の周辺は、昭和42年まで谷山市という独立の市でしたが、同年に鹿児島市と合併しています。昭和40年前後は、昭和28年から30年あたりまでほどではないのですが、ちょっとした合併ブームだったようです。大分市と鶴崎市、大在村、坂ノ市町などが合併したのは昭和38年、宇佐町、駅川町、四日市町、長洲町が合併して宇佐市が誕生したのは昭和42年です。旅をしていた時には、合併のことを全く知らなかったのですが、合併後の谷山地域の発展はどうなのでしょうか。合併してよかったのか、悪かったのか。

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 多分、市電で谷山から鹿児島駅前まで乗ったのでしょう。鹿児島駅から少し歩くと港に着きます。1549年8月15日、ザビエルは鹿児島に上陸します。その地点の付近なのでしょうか。それから450年、私が歩いた時は晴天でした。気温は30度を超えていたはずですが、東京のような異常な暑さを感じた記憶がありません。

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 ザビエル上陸の記念碑などがある場所です。8月14日に撮影しました。この後、鹿児島県歴史資料センターに行き、ちょうど行われていた大ザビエル展に行きました。そこで色々な資料を見たのですが、かなり興味深いものばかりが並べられていました。

 ザビエルは、1549年8月15日に鹿児島に上陸しています。この鹿児島には10ヶ月ほどしか滞在していなかったそうですが、その後、平戸など、九州、中国地方などを周っており、現在の大分市を最後にして日本を離れています。そのためなのかどうか、当時のヨーロッパ人による日本地図では、九州がBungo(豊後)と記されています。最初の地点である鹿児島(薩摩)ではなく、最後の地点である大分(豊後)が選ばれている訳です(どうでもいいことですが、大分市の銘菓に「ざびえる」があります)。また、当時の地図には北海道が記されていません。日本人も北海道を知らなかったような時代だからでしょう。

 さらに、鹿児島は、大伴家持による「海行かば」に関係の深いところでもあります。万葉集に収録された長歌として知られていますが、続日本紀にも登場します。大日本帝国憲法時代の昭和12年に曲がつけられましたが、その際には万葉集のほうが選ばれています(続日本紀とは若干の違いがあります)。

 似たような例が、万葉集に撰ばれている持統天皇の短歌でしょう。百人一首にも登場するのですが、一部だけ言葉が違っており(変えられたのでしょうか?)、意味も違うものになっています。私は万葉集のほうがストレートで好きなのですが、いかがでしょうか。

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先ほどの記念碑の場所にある説明板です。ここで、以前の水前寺公園の時と同じく、私自身が登場しています。別に狙った訳ではありませんので、あしからず。

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 また市電に乗り、或る電停で降りました。鹿児島と言えば西郷隆盛、という訳でもないのですが、代表する人物であることは間違いありません。上野公園の銅像は幼い頃から何度も見ていますが、鹿児島の銅像はこの時1回だけです。こちらは犬を連れていません。

 さらに歩いて喫茶店で昼食を取ります。12日に都城駅前で夕食をとった時、地元の人に話しかけられたのですが、大分の方言には慣れた私でも理解しにくい方言であった上に相手が完全に酔っ払っていたので理解不能で、店の人に通訳をしてもらう始末でした。鹿児島市でも同様でした。当時の日記には「ハングルにも似た抑揚」と記していますが、熊本、鹿児島、宮崎の言葉を聞いていると、東北地方の人が九州の言葉を話しているようにも聞こえるのです。そのためか、テレビの時代劇などで西郷隆盛の役の人の台詞を聞いていても違和感があります。もっとも、西郷隆盛や大久保利通が公式の場でどのような言葉をいかなる口調で話していたのかは、もはや明らかにしようがないことでしょうが。

 今思い出したのですが、大分県の方言は、九州ではかなり異質で、中国地方や四国地方の言葉に近いような気がします。

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 現在、鹿児島県歴史資料センターがある場所のあたりが鹿児島城(鶴丸城)でした。説明板にもあるように、17世紀の初頭、つまり江戸時代の初期に島津家の居城として建築されたものです。天守閣はなかったとのことです。明治6年に本丸居館群が焼失し、明治10年には西南の役によって二の丸が焼失しています。

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 さらに歩き、西郷洞窟に出ます。ここは、西南の役の際に西郷隆盛が隠れた洞窟です。一日で回ると、頭の中が奈良時代と戦国時代と明治初期とでごちゃごちゃになりますが、ここは明治初期の話です。宮崎県の延岡市などにも西南の役の合戦場が残されていますが、やはり西郷隆盛の最期の場所であるこの周辺が最も有名でしょう。

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 西郷洞窟のある場所からはバスに乗り、城山へ出ました。ここがまさに西南の役の最後の場所です。ここからは桜島がよく見えます。書いているうちに思い出し、また行きたくなりました。鹿児島最大の繁華街、天文館も見えます。

 この辺りを歩いていた時でしょうか、ごみの集積場に火山灰専用のコーナーがあることを知り、少しばかり驚きました。私が訪れた時はよくわからなかったのですが、活火山の桜島からは灰が噴出されます。風向きによっては鹿児島市内にも降り注がれますから、天気に関係なく傘が必要であるとのことです。ホテルで天気予報を見ていると、火山灰情報を目にすることができます。

 この後は、バスで天文館に行きました。南九州では最大の繁華街だということですが、たしかにその通りです。熊本市の通町筋電停付近もかなりの繁華街ですが、それより規模が大きいかもしれません。さらに西鹿児島駅前に行き、芋焼酎を数本買って一本を飲みながら無料のロックコンサートを見ました。この時の酔っ払ったおじさんが、演奏中のバンドにからんでいるのか楽しんでいるのかわからない状態で、しまいには曲にのって拍子をとったりしていました。

 8月15日に鹿児島市を離れたのですが、この日がまさに一人旅というべき、しかも出鱈目といえるコースで、まずは谷山を経由して薩摩半島を南下、長崎鼻へ出て、開聞岳を見ながら(かなり強い雨だったのであきらめました)枕崎に出て、廃止された鹿児島交通鉄道線の跡に沿うように加世田などを通り、串木野、出水を通り、水俣、日奈久温泉を通って八代へ出て昼食をとり、松橋などを通って熊本市に出ました。その間、高速道路は使っていません。さらに、国道57号線を使って阿蘇を抜け、朝地町から国道442号線を使って大分市の木ノ上に抜け、田尻を通って光吉で買い物をして帰りました。朝から夜まで運転し続けていたのです。パルサーのトランクの中には、都城と鹿児島で買った10本ほどの焼酎が入っていました。


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