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ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

豊橋鉄道渥美線三河田原駅→渡邊崋山の墓所、城宝寺

2015年02月07日 07時02分20秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第515回(2013年2月28日から3月8日まで)として掲載した記事の再掲載です。一部を修正しております。なお、写真撮影日は2012年5月3日です。〕

 2012年6月5日掲載の「待合室」第481回において豊橋鉄道渥美線を取り上げました。そこでも記しましたが、今年のゴールデンウィークの後半に名古屋市へ行き、名古屋市営地下鉄と名古屋鉄道を乗り継ぎ、豊橋に着きました。目的の一つが、豊橋駅に隣接する新豊橋駅から、渥美半島の中程にある田原市の三河田原駅まで走る、渥美線に乗ってみることでした。元東急7200系である1800系の3両編成が、この路線では現役で走っているのです。

 新豊橋駅から1800系に乗り、終点の三河田原駅まで乗ります。東急7200系は、初代5000系以降の車両のうちで、私にとっては馴染みの薄いほうに入るのですが、田園都市線、大井町線、東横線などで何度も乗りました。1800系を見て、そして実際に乗ってみると、すぐさま東急線を走っていた頃を思い出します。 

 新豊橋を出ると、柳生橋→小池→愛知大学前→南栄→高師→芦原→植田→向ヶ丘→大清水→老津→杉山→やぐま台→豊島→神戸、そして終点の三河田原駅に到着します。上の写真は、三河田原の駅舎です。右側の、タクシーが停まっている所のそばに改札口があります。御多聞に漏れず、渥美線にも無人駅が多いのですが、この駅には駅員がいます。

 ここは渥美半島の中央部に近い所であり、田原市の中心部でもあります。今回は訪れなかったのですが、この駅から伊良湖岬まではバスが通っています。

 駅の先には車止めがあります。ここで線路は終わっているのですが、実はその先の道路が渥美線の跡です。1944年6月まで、渥美線は三河田原の次の駅、黒川原まで営業していました。しかし、時は戦争真っ只中です。三河田原~黒川原は不要不急路線とされ、休止となりました。結局、この区間は復活することなく、1954年11月に廃止されました。

 ここで、簡単に豊橋鉄道渥美線の歴史を振り返っておきましょう。線名が示すように、元々は渥美電鉄の路線で、現在の愛知大学前(当時の師団口。1944年から休止され、1968年に再開)~三河田原が1924年に開業し、三河田原~黒川原が1926年に、新豊橋~愛知大学前が1927年に開業します。これにより、新豊橋~黒川原が全通しました。

 しかし、三河田原駅といい、黒川原駅といい、渥美半島のほぼ中央の部分にあります。半島の先端には伊良湖岬がありますが、現在の終点である三河田原駅からかなりの距離があるのです(黒川原駅からでも同じことです)。渥美電鉄は伊良湖岬により近い、現在の田原市福江町までの延長も考えており、免許も取得していたようですが、資金の関係で断念しました。

 ここで簡単に終わらないのが歴史というものです。渥美半島には、当時、軍事施設が点在していました。国防などの観点からすれば、鉄道路線の需要があります。事実関係を調べきれなかったのですが、鉄道敷設法の別表には「七十  愛知県豊橋ヨリ伊良湖岬ニ至ル鉄道」が掲げられています。そこで、黒川原から先は鉄道省が建設主体となり、やはり渥美線の名称で建設が進められます。しかし、工事は完成せず、未開業のまま終わりました。そればかりか、1940年には渥美鉄道が名古屋鉄道に合併され(それ以前に国有化される可能性もありました)、1944年には三河田原~黒川原が休止となります。1954年、渥美線は名古屋鉄道から豊橋鉄道に譲渡されたのですが、何故か三河田原~黒川原のみは名古屋鉄道の下に残り、同年に廃止されています。

 三河田原駅がある田原市は、平成の市町村合併により、渥美半島の大部分を占める領域を有していますが、中心部は三河田原駅の周辺であり、そこは城下町でもあります。田原城があり、江戸時代には田原藩も置かれていたからです。

 その田原藩から、日本の歴史に名を残す人物が登場します。1793(寛政5)年に生まれ、1841(天保12)年に没した渡邊崋山です。彼は田原藩の家老にして海防掛、蘭学者にして画家でした。1839(天保10)年、蛮社の獄が発生します。この事件により、渡邊崋山は蟄居を命じられ、高野長英は投獄されました。そして自殺したのでした。

 1837(天保8)年、アメリカ船のモリソン号が浦賀に来航しました。目的は対日通商とキリスト教布教です。この際に日本人の漂流民も伴っていました。しかし、当時、幕府は異国船打払令に基づいてモリソン号に砲撃を加えていました。この事件をきっかけとして、崋山は「慎機論」という著書において、当時の幕府による対外政策を批判します。その結果、幕府から弾圧されたのでした。

 崋山の墓所が、三河田原駅から徒歩で数分という所にありました。城宝寺です。早速、行ってみることとします。

 ここが城宝寺の山門です。右側の奥に小高い丘がありますが、これは崋山と無関係であるようです。

 

 山門の右側に「起源」を示す案内板が記されています。もっとも、この寺の由来などはほとんど書かれていません。また、田原市のサイトには観光案内のページも載せられていますが、やはり由来などについては書かれていません。幾つかのサイトに書かれていたところを総合すると、平安時代に弘法大師によって開山されたそうで、元々は真言宗の寺院でしたが、室町時代に浄土宗に改めたようです。

 また、この「起源」には古墳についても書かれています。先程の写真で右の奥に写っていた小高い丘がその古墳です。何世紀のものかが書かれていませんので「先住民族首長」のものであるかどうかはわかりません。しかも前方後円墳ということですが、そうであるとすると、大阪府は堺市にある百舌鳥耳原中陵(大仙古墳、仁徳天皇陵と伝えられる)や、羽曳野市にある誉田御廟山古墳(応神天皇陵と伝えられる)と同時代のものなのでしょうか。

 山門を入り、すぐに右側に進むと、古墳に関する案内板があります。田原市教育委員会によるもので、渥美半島の古墳の中では最大であるとのことです。6世紀中頃のものであるとすると、百舌鳥耳原中陵や誉田御廟山古墳よりも後に建設された、ということになります。この地域の豪族の陵墓なのでしょう。副葬品がないのは、当初からなかったというより、盗掘などにあったために失われた、ということかもしれません。

 古墳と言えば、堺市の百舌鳥耳原中陵に足を運んだことがありますが、中に入ることはできませんし、外を回っただけでは、そこが日本最大級の古墳であるということになかなか気づきません。

 「穴倉の由来」に、城宝寺の由来も書かれています。穴倉、つまり石室のそばにある立札で、左側に石室の入口があります。現在は中に入ることができませんが、平安時代には自由に入ることができたのでしょうか。愛知県が史跡として指定したのが1975(昭和50)年12月26日ですので、それまでは立入なども自由にできたのかもしれません。そうでなければ、弘法大師が石室に入って修行をすることなどできないでしょう。なお、立入はできないものの、内部を覗くことはできます。

 石室の入口です。ほぼ真上に弁天堂があり、右にある石段を昇ればすぐに着きます。おそらく、寺の創建に伴い、古墳の土などは多くが削られたのではないかと思われます。日本に多くの古墳が存在しますが、原型を留めているものとなるとかなり少ないのではないでしょうか。

 城宝寺を出て、駅の周辺を歩いてみました。大型連休後半の某日、午前中です。住宅地という感じの所ですが、古い建物が点在しています。かつての商店などもあるのでしょうか。私の地元の溝口にも、僅かながら古い建物が点在しています。

 家屋の玄関を見ると、建物そのものの新旧、家主の考え方などが表れているような気がします。旧来の日本家屋では、玄関の扉が横開きになっているのが一般的です。アパートやマンションなどではまず見かけませんが、横開きのほうが、世代の相違に関係なく、利便性が高いと思うのです。いかがでしょうか。

 奥にある三河田原駅からの通りです。何軒かの商店がありますので、商店街ということにはなるのでしょう。街灯の形も、この通りが商店街であることを示しているかのようです。しかし、曜日のためなのか、時間帯のためなのか、閑散としており、人通りはかなり少ないようです。

 少し離れた所に田原街道が通っており、この道路との交差点にセントファーレという商業施設があります。スーパーマーケットかと思って入ったのですが、幾つかの業種の小売店が入居している形態です。

 今回は伊良湖岬まで足を運んでいませんが、機会があれば参りたいと考えています。勿論、豊橋鉄道渥美線を使い、元東急7200系の1800系に乗って、です。


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