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1945年2月4日、ヤルタ会談始まる

2020-02-05 01:37:00 | WW1&2

1945年2月4日から11日日にかけて、ソ連のクリミアでソ連、アメリカ、イギリスの3首脳が集まって、終わりを迎えている大戦争の処理を話し合った。

この写真がよく使われてる写真って感じか。

 

最近ロシアは、第二次世界大戦関係の資料をたくさん公開している。

Churchill sightseeing in Crimea and FDR saluting the flag: Russia declassifies PHOTOS taken ahead of 1945 Yalta conference 

https://www.rt.com/news/479635-yalta-1945-photos-declassified/

 

このへんは珍しい写真では?

クリミアの空港に到着したチャーチル(敬礼してる人)とその右がルーズベルト。チャーチルの左がソ連のモロトフ外相。

 

率直に言って、やっぱりみんな真面目な顔してるなと思った。

どうしてかというと、まだ戦争は継続中で、そこら中が残骸となり、血と消炎の臭いが消えやらない状態だから。

彼らが立ってるその地クリミアもまた、1941年にドイツ軍がソ連侵略戦争開始直後にセヴァストポリを包囲し、ドイツ軍とルーマニア軍が相当量の空爆を重ねてそこら中ぼこぼこにしてたところを、最終的に1944年の春ソ連軍が完全解放したところ。

さすがに、そんな現地に立って、戦争なんてちょろいぜといった態度でいられる人はいないということかと思う。まぁ最近の西側の人間はプラスチック製みたいな人が多数見受けられるから平気かもしれないが。

クリミアの奪還はあまり語られないけど、ここを奪還したことによって南の戦線に対する黒海側からのアプローチという脅威が莫大に減ったので、ここからはソ連はかなり楽になったといっていいかと思う。

逆にいえば、ここに異常な拘りを見せてたドイツはやっぱり、現在ウクライナを狙った人たちと同様、是が非でも黒海を取りたいということだったんだろうと思う。

黒海をゲットすると、そこからイランに繋げ、中東が狙えるという位置関係だから。

 

そこで、イギリス代表団は、1945年のクリミアで、100年前のクリミア戦争を思い出したらしいわけですよ(笑)。

イギリス代表団がセバストポリ郊外のクリミア戦争のメモリアルMalakhov Kurganを訪問した写真だそうです。

 

エライ人の動向をよそに、将兵は将兵で仲良し。アメリカの水兵とソ連の将校。

 

という感じで、英米仏の奥の院が何を考えていようとも、大きな戦争のクロージングに向かう期間中に、大きな貢献をした人たちの国に仲間が集まりましたといった感じですね。

そもそも、チャーチルは、ソ連の奮闘に頭が上がらないことは重々理解している人。ここらへんは西側の記述にあまり出てこないけど、本人はいろんなところで言いもし、書き残してもいる。

にもかかわらず・・・ではあるんだけどもね。

 

■ ヤルタの前にも話し合いは行われていた

それはそれとして、日本語wiki ヤルタ会談 を見ると、何かこう、いろいろとひっかかる。まず最初が、これだもんなぁって感じ。

1945年1月にポーランドを占領したソ連軍(赤軍)がドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリスの連合軍がライン川に迫る情勢のもと、連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた。

まだ、ドイツ軍は降伏していないんだから、すべては作戦決行中という状況。したがって、ソ連がドイツ軍を追い出した作戦後のポーランドを占領していると言うのなら、アメリカ、イギリス連合軍はフランスやイタリアを占領していると言わねばならないでしょう。

次のここもあんまり正しくない。

会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められた。 

 

英語版にあるように、ソ連・米・英の3つの大きな国、すなわちビッグ・スリーがあったのは、

1943年11月 テヘラン

1945年1月 ヤルタ

1945年7日 ポツダム

それ以外にもう1回、1944年にモスクワで、チャーチルとスターリンが会ってる。ここで、いわゆる西欧とソビエトの影響圏を話し合った。

これがいわゆるパーセンテージ協定などと言われる合意で、パーセンテージを使って影響圏を決めたと言われている。

ルーマニアはロシアが90、West等が10、

ギリシャはイギリスが90、ロシアが10

ユーゴスラビアが50 vs 50

みたいな感じ。

パーセンテージ協定

で、これは、スターリンが申し込んだんじゃなくて、チャーチルがモスクワに飛んでいって話し合った。なぜこうなるかというと、

こうやって始まったドイツのソ連侵攻が、逆回転してくるので、

「barbarossa operation map」の画像検索結果

1944年8月、9月にはソ連がルーマニア、ブルガリアに迫ったため。こりゃ大変だ、みんなソ連の影響下になっちゃう、という感じだったのが米というより英だったから。

1943年から1944年後半の赤軍の攻勢。まったく逆になった。

 

チャーチルは明らかにギリシャを確保するためにスターリンさんに会いに行ったわけですよ。

他は全部譲ってもギリシャはダメだ、ってのが英にとっての常。今もそう。東地中海は是が非でも取らないとならないと思ってるのはイギリスの戦略。

したがって、ヤルタですべて話し合ったみたいな書き方は正しくない。

 

■ 戦後の作文

また、wikiのこれも問題含み。

1939年、ドイツとソ連はともにポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領したが、1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破りポーランド東部に侵攻、全域を占領するに至った。その後ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、1944年、ルブリンにおいてポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権)を樹立した。 

当時ロンドンにはポーランド亡命政府が存在し、イギリスはこれをポーランドの正式な政権として承認していたが、(略)

ヤルタ会談では、この両政権のどちらが正式な政権であるかを巡って、イギリスとソ連が対立した。

 

1945年1月、つまりヤルタ会談のつい何週間か前に、ナチ政権下のドイツと戦いながらポーランドを解放したのはソ連軍なわけですよ。

1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放

 

そこで、ポーランドはロンドンに亡命政権作ってたのでそこに政権任せてください、亡命政権だけでなく、20万人とも言われるポーランド人がイギリス指揮下でイギリス軍と同行していたので、当然これらの政権はイギリスの支配下なんですが、どうかここに政権取らせてください、とかいうのを、この時点でどうやってソ連に飲ませられるんだよ、という話でしょう。

英語のwikiはかなりちゃんと書いてるじゃんか。

At that time, over 200,000 soldiers of the Polish Armed Forces in the West were serving under the high command of the British Army

These Polish troops were instrumental to the Allied defeat of the Germans in North Africa[22] and Italy, and hoped to return to their homes in Kresy in an independent and democratic Poland at the end of the War.

 

そして、事実、チャーチルはできなかった。

チャーチルは亡命政権案を通せなかったことで、後でイギリスに残ってる議員の一部がチャーチルを難詰するんだけど、だからといって、この時点でのイギリスに何ができたわけ? 

というか、そもそも、イギリスは戦力もないのにドイツに宣戦布告なんかするからこんなことになってるとも言えるわけで、イギリスの自己都合を持ちこまれても、ソ連にとっては関係ない。

 

ポーランドはそもそもベルサイユの講和条約で、米ウィルソンが「十四か条の平和原則」なるものを持ち出して、みんなに飲ませるからなぁと張り切っていた提案書の中に入っていた国。

つまり、ドイツもロシアも、あずかり知らない(ドイツは負けた側、ロシアは革命中)ところで、100年以上国が存在しなかった場所に、英米仏が勝手に作った国と言える。

どちらも大声では言わないだろうが、ドイツにもロシアにも、英米の奥の院勢力とポーランドの関係を考慮しないとならない義理はないでしょう。

ついでにいえば、赤軍がドイツを追い出したことで、一部ドイツにとっては是が非でも失いたくない領土が現在ポーランド領になっている。

このへんを考えると、今に至るまで、あたかも亡命政権が正しかったのに親ソ政権が出来たことはポーランドにとっての不幸なのだ、なぜなら、これによってソ連という悪の帝国に入ってしまったのだから、という主張は、まあ主張でしかないって感じ。

 

単純に、ソ連が各国の解放の際に、各国のソ連シンパを中心にナチ側の政権が倒れた後の政権を作ろうと準備していって、それが実際できちゃった、というのが西側にとって不都合だったから、ソ連は各国を支配下に置こうとしている、横暴だ、けしからん、という話をしてるつもりなんでしょう。

しかしながら、であれば、ナチを倒したわけでもないのに勝手に入ってきて、イタリア、フランス、低地諸国を米英仏のエリートの趣旨にかなった国にしていった the West の方はどうなわけ?

こっちは裏約束が出来てたからそれでいいってか? 

で、次にはNATOなんか作って、75年経っても、100年経っても実質的に占領する、と。

「ソフト占領」:米の占領下にあり続けるドイツ

 

NATO(1949年)なんか作らなければ、ワルシャワ条約機構(1955年)もなかっただろうし、ソ連封じ込めなんかしなければ、それぞれにもっと緊張のない発展と成長もあっただろうにね、と思いますよ、ほんと。

 

ということで、現在「ヤルタ体制」みたいにして語ってる話というのは、実のところ戦後の作文が多々あって、当時、1945年における英米の指導者は、スターリンに詰め寄ることのできるロジックもリソースも大して持ち合わせていなかったと思う。

まとめていうのなら、1918年に周囲の了解もなく米の力によってポーランドを作り、そこに軍事独裁色の強いリーダーを据え付けたことがドイツとソ連に緊張を敷き、不幸を招いた1つの大きな要因だった。その後の1930年代もまた、ポーランドというトリッキーな存在によって、大戦争を回避するメカニズムを作れなかった。ヤルタに至る道筋でも見えたであろう瓦礫、残骸はその結果だ。

そこにおいて、どうして、再びイギリス(または英米仏)の支配下にあることは明白なポーランド亡命政権をドイツとソ連の間に据え付けることができただろう?

 

■ オマケ

日本の話にまで追いついてないんだけど、これはここから夏までの間にまたチャンスがあると思うので今日はパス。

 

■ WW2シリーズ

1943年2月2日:スターリングラードでドイツ軍降伏

1944年1月18日、レニングラード包囲解消(プーチン献花

1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放

1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放

 

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

 


 

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