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1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放

2020-01-29 00:01:30 | WW1&2

アウシュビッツ解放の話はもう書いたのでこのエントリーには特に考察みたいなのはない。

感染症とデマの流布には早期対応が有効であるわけだが...

「ホロコースト」犠牲者の4割はソ連市民

 

単純に、

1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放

1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放

と並べたかった(笑)。これはベルリンまで行く!

 

で、今日は#HolocaustRemembranceDay のタグでいろんなtwitterが出ていた。

その中で拾った写真を見て、こういうアプローチこそ必要だったと思った。

そもそも、第60軍のライフル師団がヴィスワ=オーデル攻勢の途中で、つまりソ連軍がドイツ軍と戦いながら西へ西へ押していった中でポーランド南部において強制収容所が解放されたんだから、バリバリに元気な、活動量の多い兵隊がゲートを開けたことが印象としてあるべきだった。

ゲートを開けてる元気な兵隊。

そりゃゲートがあいたら嬉しい。

 

 

それに対して、こういう写真で「1月27日、アウシュビッツが解放されました」といった表現で慣らされてきたのが間違ってたと思う。これじゃ誰がどうしてそうなったのわからない。

Birkenau múzeum - panoramio (cropped).jpg

また、これでも話が見えない。

 

思えば、こんな悲劇を前に解放作戦が喜ばれていないという事態はとてもおかしい話だった。

1945年1月27日、ソビエトの兵士がドイツ軍の掃討作戦中に強制収容所を解放しました、と書き、今日はこういう写真を見せるべきでしょう。

 

白衣の人はソ連の医療班の人でしょうね。

 

■ ポンペオとは違ったボリス・ジョンソン

この間、アメリカのポンペオが、イスラエルに行ってまでアウシュビッツを「兵士」が解放したと発言して(ソ連と言えなかった)、ちょっとした驚きが走ったばかりだったけど、イギリスのボリス・ジョンソンは自分で書いた文章で、

赤軍の第322狙撃師団がアウシュビッツに近づくにつれ、ナチは自分たちの犯罪を隠蔽するためにガス室と遺体焼却炉を破壊した

As the Red Army’s 322nd rifle division closed in on Auschwitz, retreating Nazis destroyed the gas chambers and crematoria in a desperate attempt to cover up their crimes.

https://jewishnews.timesofisrael.com/opinion-boris-johnson-the-darkest-of-nights-must-never-again-fall/?utm_medium=Social&utm_source=Twitter#Echobox=1580121892

 

と、微妙ではあるけど書いている。

まぁその、ポンペオ、ペンスは相当困った人たちだから、あそこと一緒ではないという意思表示である可能性もある。

ここらへんは今日の政治。

 

■ 関連記事

スプートニクに少し写真があった。

https://sputniknews.com/multimedia/202001271078149357-auschwitz-liberation-75-th-anniversary/

 


 

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9 コメント

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ロガトィフカ兵は来なかった (И.Симомура)
2020-01-28 04:20:16
ポーランドに住んでおりますので,また投稿させてください.明けて二年前,南部の小都市ジョルィに民族学博物館が開設され,アイヌ民族特別展が平取町ーびらとりちょうー後援のもと開かれました.立派な展示でした.館内には地元市民の寄贈になるアウシュヴィッツ収容者の品々の展示室もありました.収容者をモスレムーこの場合はトルコ人の意ーと呼ばせた,写真の縦縞の衣服のどれにも丁寧な修繕の跡があり,アウシュヴィッツで見た厖大な数の幼児の下着を想起させました.ナチ狩りで有名なヴィーゼンタルの "Children evoke me war" 「子供を見ると戦争を想いだす」の文章も浮かんで来ました.絶滅収容所に送られたのは,綻び孔を繕はねばならぬ貧しいユダヤ人が多かったのがわかります.写真資料に写る移送されるユダヤ人の服装は綺麗ですが,これはドイツ側が古着として売り出すために,一番上等のものを着てくるようにと誘導したことによるものなのです.儲かる商売.1968年時の同収容所には,遺骨を粉砕してつくった有機肥料の実物もあったと記憶しています.椅子のクッション材となる髪の毛,眼鏡,靴と義足,入れ歯,等々で充満した部屋がありました.案内の女性は,ドイツ人は吝嗇なの,と語っておられた.収容所の施設は煉瓦造りの実にしっかりしたものです.元々はポーランド国営鉄道の関連施設だったのを改修転用したものとうかがった.幼児の衣服の展示室では泣いてしまった.それまで私が禁止されている写真を撮ったとして難詰した案内女性は急に優しくなり,私がロシア語を解するとわかると,美しい流麗なロシア語で解放当時の街の様子を語ってくれた.風の噂ではポーランド軍が解放に来るとのことで,みんなして角帽ー波軍の軍帽は四角でロガトィフカというーの部隊の出現を今か今かと待ち望んでいたそうだ.そうしたらウシャンカという耳覆い帽の赤軍が現れたのだ.彼らは子供を見ると惜しげもなく食べ物を与え,抱き上げ,頬ずりをしてくれたという.彼女にSSの性格とはなにかと問いましたら,躊躇うことなく,心が病んだ,生命の繁栄を徹底的に嫌悪する人間たちと表現しました.子供も女性も生命の繁栄の象徴であり,それ故に彼らは女子供を率先して辱め殺したのでしょう.解放軍がポーランド軍だったなどの妄言は,そうであって欲しかった,という願望を述べたに過ぎません.ポーランド人はよく知っています.
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記憶の風化につけ込む (ミール)
2020-01-28 08:51:42
戦後 75 年。生き証人が少なくなって行くのと軌を一にするように,歴史の書き換えを企んでいるようです。

先日のコメント欄にあった,毎日新聞の杉浦千畝の記事の話にしても,ナチスによるユダヤ人迫害は独ソ戦の時に始まったというミスリーディングをして,杉浦がビザを発行したユダヤ人がソ連の迫害を避けたという結論に持って行っています。

ドイツがポーランドを占領した 1939 年においてすでにアインザッツグルッペンによるユダヤ人殺害が始まっており,ユダヤ人がそれから逃れるために隣国リトアニアに駆け込み,そこで,戦火から遠い国へのビザを求めていたわけです。当然,ソ連は戦火から遠い国ではなく,ソ連に逃れるという選択肢はあるはずがありません。それをソ連に非があるかのような論の根拠にするのは悪質なプロパガンダでしょう。

歴史修正主義は今がチャンスとばかりに活動を強めています。
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Unknown (ローレライ)
2020-01-28 13:01:17
ポンペオとペンスの踏み絵になったアウシュビッツ解放軍問題!
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角帽は来なかった (ブログ主)
2020-01-28 14:11:57
Симомураさん、

ポーランドの人はウシャンカではなくて角帽が来てほしかった、というのはとてもよくわかります。

この願望、そうであったらよかたのにという素朴で、そして正統な思いが、しかしながら、ポーランドエリートの反ソ/反露活動(畢竟、英米の紐付き)の温床になっているのも嘘ではないと私は思います。そうだろ、ソ連は望まれないのに来た侵略者だ、といった具合です。

また、反ソ/反露活動を引っ張ってるのはポーランドに住むポーランド人というより、アメリカ、カナダあたりに行って政治勢力と化したポーランド出身者だとも思います。ウクライナも同様です。
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敵でなければソ連は安全 (ブログ主)
2020-01-28 14:20:44
ミールさん、

いや、それはちょっとどうでしょうか。ユダヤ人で、反ソ工作活動をしていた人以外の人にとってソ連は安全だったと思います。だから、ポーランドからたくさんの人がソ連領内にあえて逃げた。

杉浦問題は、日本の工作の後処理の問題だと思います。そしてその日本は防共協定(対コミンテルンのpact)を結んで大っぴらにドイツと一緒にソ連を攻めようともちかけていた(ポーランド、イギリスにも防共協定をもちかけたが断わられた)。

その状況から考えるとそもそも当時日本領事館がユダヤ人にとって安全に見える、というのは一般化できない話ではないのかと思えます。
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ピロビジャン (ミール)
2020-01-28 21:03:32
ブログ主様

性急な書き方をしてしまいました。「ソ連が戦火から遠くない」と書いたのは,このポーランドに接した地域のソ連のことを指しておりまして,おそらくユダヤ人はやがてこの地域が戦場になることを察知していたのだろうと私は思っています。彼ら独自の情報があったのかもしれません。そうなればドイツ軍にどのような目に合わされるか,日を見るより明らかです。幸い,ソ連には戦火から遠い極東にユダヤ人自治州がありました。そこで多くのユダヤ人が州都ビロビジャンを目指し,ピロビジャンのユダヤ人の人口はこの時期に大きく増えています。

杉原(名前を間違って書いてしまいました)の話はいろいろ美談にされているけれど,おっしゃる通り,工作の最前線で働いていた人間だという文脈で捉えるべきでしょうね。
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お返事ありがとうございます (ブログ主)
2020-01-28 21:22:02
ミールさん、

いえ私の書き方も性急でした。お返事ありがとうございます。

そして、私も間違ってますね、杉原でした ^^
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カラー写真はビルケナウでは (И.Симомура)
2020-01-28 21:31:49
記事のカラー写真の建物はアウシュヴィッツのものではなく,ビルケナウのものではないでしょうか.アウシュヴィッツは破壊を免れた.赤軍の来るのが早すぎた.しかし自信がありません.
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ビルケナウだと思われます (ブログ主)
2020-01-28 23:57:51
Симомураさん

ビルケナウだと思われます。
これを使ったのは、今年見た75周年関連についてのアメリカ、イギリス発の記事でこの写真がよく使われていたため、こんな例ではという意味で使いました。
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