気軽にでっちゃん

誰にでも立ち寄って欲しいので「気軽に」とつけました。でっちゃんと呼んでください。。。

●おじいちゃん&おばあちゃんのむかし話

2006-08-13 18:10:56 | weblog
父方、母方ともに、祖父母はみんな亡くなっちゃいましたが、高校生・学生時代くらいまで全員いましたし、最後の祖父が亡くなったのも4年ほど前です。父も母も兄弟姉妹の一番上だったので、でっちゃんは初孫でした。なので、すごくかわいがってもらったと思います。父方の祖父母は、二世帯住宅みたいな感じで、晩ご飯は一緒でした。いつも昔話を聞いていました。でっちゃんは祖父母の話す昔話が好きでした。ロバを飼っていたり、犬も何匹かかっていたようです。戦争の時代の話もたくさん教えてくれました。おじいちゃんは、二十歳で戦争に行ったようでしたが、おばあちゃんと結婚して、すぐもう一回召集がかかったのか、そのとき初めて行ったのか、そんな感じだったと思います。戦友会が楽しみで、出不精の人でしたが、夏になると小さな旅行に行っていました。送られてくる戦友会名簿には、年を重ねるごとに亡くなっていかれ、仲間が減っていってるのを眺めていました。

おばあちゃんがよく言っていたのは、貧乏だったので勉強するより家の仕事を手伝うように言われたとのことです。夜勉強したくても電気つけると怒られるから暗い中で勉強したような。中学校行きたいけど、尋常小学校までしかいけなかったみたいです。昔は日本全体が貧乏だったので平均より貧乏だったと考えればいいのかなと思います。でもおばあちゃんはちょっと頭良かったのはほんとみたいです。どうしてかというとでっちゃんの実家の家はおおかた40年前に建てられた家なのに、変わった形しています。当時、一階は車のガレージ、内側は生活するのは二階で、その二階へ上がる階段は吹き抜けとなっていていて最近家探ししているでっちゃんには、よく昔の家であんな家をたてたなと感心しています。おじいちゃんはそのような気転のある人ではないので、おばあちゃんのアイデアで若かった父母は作ったんだと思います。

父方のおじいちゃんは戦争は中国には行きましたが、幸い、すごく辛い思いは少なかったみたいです。もちろんコワイ上官にはたたかれたりとかは当然だと思いますが、戦地では、死にかけたことはあまりなかったかもしれません。迫撃砲部隊だったので最前線には行かなくて後ろから撃つ部隊だったみたい。ただ朝起きたらそこは回りが水溜りとか川が血の海みたいだったようなことは聞いた気がします。

母方の祖父母は戦争の話はほとんど聞いてないです。ただ母は都会生まれだったのですが、疎開して養子に来ていたおじいちゃんの里のほうに戻ったので、田舎の人です。みんな最終学歴は尋常小学校卒なのに、唯一、こちらのおばあちゃんだけが女学校を出ています。中学校のとき英語の教科書を読んでくれたりしたので、今となってはビックリです。こちらのおじいちゃんはかなり風来坊だったのですが、どもり癖があり、田舎ものがいろいろんなところに出ると身なりで判断されるから着る物をちゃんとしろというのが考えだったようです。戦地では中国に行ったようですが、全く戦争の話は聞いていません。母も全く聞いてないそうです。どうやら、そうとう辛い目にあったということだけです。辛い思い出を話したくない。自分が辛い目にもあっただろうし、もう二度とこんなことはしたくないというようなことを仕方なくせざる終えないこともあったかもしれない。これは想像の範囲です。ある人は、一度、戦地で見かけたとのことなのですが、ボロボロの服で歩いていたとのことでした。

父方のほうの話にもどると、こちらの祖父の弟は数奇な運命をたどったようです。てっきり戦死したということでお墓も用意していたたところ、終戦後しばらく経って帰ってきました。フィリピンで捕虜になっていたそうです。
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