気軽にでっちゃん

誰にでも立ち寄って欲しいので「気軽に」とつけました。でっちゃんと呼んでください。。。

●待ちに待ったイン・ハー・シューズ・・・悔しさ

2005-11-17 00:35:43 | weblog
付け加えたいことがあって書き留めておきます。

<泣けたシーンについて>・・・悔しさ
でっちゃんが泣けた理由をもうすこし明確にしたいと思います。人それぞれ感じ方は違うと思うんだけど、でっちゃんはほんと悔しい思いをしているマギー(キャメロン)を見て涙が出てしまいました。悔しいけど、自分の力じゃどうにもできない。かといって周りの人にはすぐには理解してもらえない。結局、あきらめてしまうようになっていた。

この「悔しい思い」というのが、誰しも体験したことがあるんじゃないかなぁって思うのです。好きな女優のキャメロン・ディアスが演じているから、思い入れもあって必要以上に悔しさに共感しちゃったのかもしれません。弟が高校時代バレーボールの試合で負けてがっかりして涙ぐんでいたときも。すごくしっかりしていた祖母が病気で弱ってしまったときとかも。

道路で風が強い日に体の不自由な人が倒れたことがありました。でっちゃんは支えて起こそうとしました。その人もできるだけ自分で起きて自分で歩こうとしました。他にも親切な人が集まってきて、その人をみんなでかかえて道路わきに連れて行ってあげようとしました。そのとき、その人はすごく悔しかったと思います。自分で歩こうとしているのを無理やり手を貸してもらったので。

ちょっと話がずれているかもしれませんが、現実として受け止めないといけない悔しさ。乗り越えていくのではなくあきらめてしまう心の状況。なんというかこのあたりなんです。キャメロン演じるマギーに涙したのは。そして呼吸のあった老人教授に促されて、素直に頑張って詩を読んだところがまた感動したんです。結局、できることを少しずつ少しずつ努力するしかなくて、見ていてくれる人が現れるかどうかはわからないけれど、映画からはなれても、一般に誰もが勉強したり、仕事したり、悩んだり、そんなことに通じることだなぁと思いました。

夏目漱石の「門」の最後のシーン。解釈はいろいろあるのかもしれませんが、大学の先生に教えてもらったとらえ方で、でっちゃんの心にとまっていることがあります。主人公は、門をくぐることも、後戻りすることもできず、ただただ門の下で日が暮れるのを待つしかなかった、というシーンです。仏門に入り悟ることなんて簡単にはできない、かといって現実はあって過去にもどることはできない。苦しみを受け止めて生きていくしかないというものでした。

重い内容になってしまいましたが、とにかくキャメロン・ディアスが大好きです。
コメント
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