黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

幕末の水戸藩

2010-12-10 23:58:32 | 思索系
1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」の再放送が
最近「時代劇専門チャンネル」で始まった。
このたびは、このドラマを話題にしたい。
いま放送されている時代は
まだほとんど慶喜の父(徳川斉昭)の時代だが、
さっそく感じるところがいくらかあるので
それを少し記していきたい。

以前も記したように、このドラマで
徳川慶喜を演じているのは本木雅弘さんである。
1998年に観たときも感じたが、
徳川慶喜もさすがに主人公となると
気品あふれる貴公子に描かれている。
現存する慶喜の写真を見れば実際そのとおり
だと思うが――慶喜が生きた時代、
成るか成らぬか誰にも分からないような志を
一途に貫いていった者たちが歴史を動かしたせいか、
そうした者たちと対照的な生き方をした慶喜の
描かれ方は他の幕末人と比べて良くなかったり、
慶喜の配役すらも必ずしも上品な顔でなかったり
するようである。
だが、慶喜の内面や言動はともかくとしても
外見は気品あふれる貴公子であることが
写真で明らかになっているのだから、
やはりせめて慶喜役は端正な顔立ちの二枚目が
演じるべきだと思う。
私はまだまだ若造なのでそれほど時代劇を見てきた
わけではないが、1990年の大河ドラマ
「翔ぶが如く」での三田村邦彦さんの慶喜が
いかにも貴公子らしく感じられて印象に残っている。
慶喜は「翔ぶが如く」の主人公たち(西郷隆盛と
大久保利通)とは最終的に敵同士になるのであるが。

大河ドラマ「徳川慶喜」が1998年に放送されていた頃、
おそらく私はまだ高校生であった。
当時の記憶を今たどっていくと、
最も印象に残っているのは実は主人公の慶喜ではなく
水野真紀さんが演じていた
「たみ」という武家の女性であった。
彼女は「新三郎」という慶喜の家来の妻であるが、
実はこの「新三郎」という武士は結婚する前に
「みよ」という別の武士の愛人と恋におちてしまった
男で、慶喜はこの新三郎と「みよ」の道ならぬ仲を
引き裂くために新三郎と「たみ」を結婚させたのだ。
こうした結婚前の事情を「たみ」は知るよしもなく、
これから新三郎を自力で探していく。
この「たみ」が視聴者に見せ始めた「女の情念」。
それが、他の誰よりも印象に残っていたのである。

おそらく「みよ」は武家の女性ではないので、
たとえ「みよ」が人の女でなかったとしても
武士である新三郎と「みよ」は正式な夫婦には
なれないと思われる。
これは『風雲児たち』というマンガで得た知識だが、
江戸時代の武士は武家の女性としか結婚できない
決まりだからである。
ただ、同マンガによればこの決まりには抜け道があり
第三者の武士が女性を養女にしてくれれば
彼女は武士と結婚できるようになるという。
そこで、当事者ではない私としては
新三郎の同僚の武士が慶喜からお金をもらって
「みよ」を囲っている旗本と示談し、
「みよ」を養女にしたうえで
新三郎が「みよ」を娶ればいいのではと考える。
「みよ」には病気をかかえた実父も存在するが、
彼には名目上、新三郎の世話係の肩書きのみを
与えて看病していけばいいのではないだろうか。
ドラマでは既に新三郎と「みよ」は駆け落ちして
しまったので、今さらこんなことを述べても
「後の祭り」なのであるが。


別冊宝島の『よみがえる幕末伝説』(1999年)に
よると、徳川斉昭が支配し慶喜が育った水戸藩は
太平洋に面した広い海岸線を持った地理上、
西洋船の漂着やその船員との接触の機会が
多かったため、早い時期から海防意識の強い
藩だったそうである。
そのうえ、斉昭が他藩に先駆けて西洋文明を
受け入れたり質素倹約や文武を奨励するなどして
藩政改革をおこなっていたため、
水戸藩は幕末の初期までは思想においても
文明においても、日本の改革派諸藩のなかの
先端を行っていたという。
徳川斉昭が幕府の開国に反対していた事に
関しても、彼は単なる異人嫌いや無知ゆえに
反対していたのではなく、
日本が欧米並みの文明をまだ持ちえぬうちに
開国したことや、欧米の恫喝に屈するようにして
開国したことに反対していたのだという。
『徳川慶喜と賢侯の時代』(中公文庫1997年)
によると、この徳川斉昭なくして
松平春嶽も島津斉彬も世に出ることはなく、
また彼らの忠臣・諍臣や長州の吉田松陰らも
徳川斉昭や彼のブレーンたちに学ぶところ
多大であった――というほどの人物だったという。

しかし徳川斉昭が生きた時代、まだ幕府の権威は
彼の改革を妨げるに足るほど残っていたらしい。
これから江戸幕府は次第に政権担当能力を
失っていくことになるというが、幕府が
政権担当能力を維持していた時期というのは
井伊直弼政権の時代までか、せいぜい安藤正信・
久世広周政権の文久元年までだったそうである。
徳川斉昭が亡くなるのは井伊直弼が桜田門外に
斃れてから約半年後だそうなので、
斉昭が生きていたころはまだまだ幕府の権威が
残っていた計算になるのである。
ドラマの初回(もしくは2話目?)では、
幕府から突然斉昭に謹慎命令が下り、
斉昭が怒り狂うとりまきを沈めつつ従容として
その処分を受け、藩主の座を長子の慶篤に譲る
というシーンがあったが、
それは幕府と水戸藩内の保守派が結託して
斉昭の追い落としをはかったものだという。

ドラマでは、水戸藩が幕府よりの「保守派」と
幕府よりでない「改革派」とに別れて
内部抗争をしている事についてもとりあげている。
『よみがえる幕末伝説』によると、
この内部抗争は徳川斉昭が水戸藩主になろうという
時代から続いているものだそうで、
徳川斉昭と彼の水戸藩主就任を実現させた
藤田幽谷、および幽谷の息子で斉昭のブレーンたる
藤田東湖などが「改革派」に属したのに対し、
徳川斉昭でなく清水恒之丞(11代将軍の息子の一人)を
水戸藩主にしようとした結城虎寿などは
「保守派」に属していたという
(なお、『徳川慶喜と賢侯の時代』によると、
謹慎することになった斉昭の後を継いだ徳川慶篤は
主に保守派によって育成された人だそうである。
ドラマでは、この慶篤と斉昭の確執も描かれている)。
ドラマでは斉昭は既に「安政の大地震」で
藤田東湖などのブレーンを失ってしまっているが、
斉昭はこれによって藩内を統制する力も失う。
やがて彼自身も亡くなると内部抗争がいよいよ
凄惨なものとなり、人材を消耗した水戸藩は
幕末史から姿を消していく――


他家にもありそうな「御家騒動」程度では
済まなかったという、幕末水戸藩の内部抗争。
その要因には「御三家」という藩の格式の高さも
さることながら、徳川将軍家に対して
代々恨みも御恩も持ちえなかったという、
歴史的要因も含まれているような気がする。
水戸藩出身の徳川慶喜が幕政の表舞台に立つとき、
せめて藩論を一つにこれを活かしきることができたら
まだ水戸藩にとってプラスだったかもしれない。
たとえその結果水戸藩が歴史の敗者になったとしても
それはそれとして誰かが語り継ぐだろうからである。


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