黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

よくある話

2009-11-04 10:55:16 | 日常
今朝また、元カレと別れた時の感情が
フラッシュバックした。
以前のそれは憎しみが多く混ざっていたけど、
今回は180度違った、、、

あの子の結婚式が終われば
こんなことも無くなると思ってたけど

それも違った。


あぁ、くだらない。 あはは


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生き方がイメージを作る

2009-11-04 10:37:25 | 思索系
最近私は、戦国武将占いを2種類購入した。

一つは『ビジネス戦国武将占い』(編者:週刊文春編集部 2007)。
これは四柱推命をベースにした占いで、
自分のタイプを12人の戦国武将のうちの誰かに
当てはめるというものである。
この本には基本性格や相性などといった
内容が抽象的な話になりやすい占い結果だけでなく
「タイプ別の褒めかた」とか「叱り方」とか
「企画書の書き方」などといったより具体的な項目も
数多く載っている(もっとも、占い結果というものは
話が具体的すぎるとかえって占いが当たってないような
印象を持ってしまうものではなかろうか)。
ちなみに、ここでは私は前田利家タイプ。
超前向きでポジティヴ・シンキング、
先走りの鬼で瞬間的に飛びつく、
他人の悪口やグチは言わない、――のが特徴だそうだが、、、
これはたぶん、比較的イケてるときの自分だろう。
人間の性格の善し悪しは表裏一体であり、
イケてない今の自分に関する記述も探して見つけてみれば
当たっているように思えるので
まあ比較的イケてるときの自分に関する記述も
当たっていると考えていいだろう。
(「他人の悪口やグチは言わない」という点については
大いに疑問が残るところであるが^^;)

そしてもう一つは、『戦国武将占い』
(著:四条さやか エンターブレイン 2009)で、
これは太陽星座を2分割して(読者を24人の武将のうちの
誰かに当てはめて)占うものである。
私の結果は、信長の「天下布武」の方針に抵抗した僧、
本願寺の第11世・顕如である(NHK高校講座 日本史 によれば
「天下布武」とはただ単に武力で全国を制圧するという
意味ではなく、「寺家でも公家でもない、武家こそが
天下の実権を握るのだ」といったスローガンだったらしい)。
いわゆる「何座生まれか」という問題に対して
天秤座生まれであれば結果は今川義元か顕如にしぼられ、
同じ天秤座のなかでも比較的生まれたのが遅かった私の
結果は顕如であったというわけである。
占い結果の内容はおおむね天秤座の特徴とされる性質を
語っているだけのように思えたので新鮮味はなかったが、
それでも改めて読んでみれば自分と向き合うための
参考にできるところはあった。

ところで、私にとってキャラクター占いをするときの
楽しみの一つは、キャラクターのイラストである。
戦国武将のイラストについては前者の本のそれが
モノクロではあるがある程度肖像画を尊重しているのに対し、
後者の本のそれはカラフルで武将の顔がみな
「美しすぎる」反面、時代考証や肖像画には忠実ではない
(後者の本のイラストを描いた方は複数おられるようだが)。

これらの本の両方に登場する戦国武将の一人として、
現代人に人気の高い真田幸村がいる
(彼の歴史的重要度はそれほど高くないと思うのだが、
その人気度はgooランキングでも2位である)。

好感が持てる日本の戦国時代の武将ランキング - gooランキング


別冊歴史読本の『真田幸村と大坂の陣』によれば
彼は歴史の表舞台に登場していた慶長19年
(大坂冬の陣が始まる1614年)の時点で既に48歳、
見た目は年の割に老け込んだ貧相な中年の小男で
彼自身も「髭も黒い部分は少なくなり、歯も抜け始め、
病がちになった」と書状に書いているありさまだが、
それでも彼はこのどちらの占い本にも
若くてハンサムに描かれているのである
(肖像画を意識して書かれた方のイラストでも)。
幸村の有名な肖像(閉じた扇子を上から右手で押さえつつ
袴の上に立てている姿のもの)は何歳ぐらいの幸村を
いつの時代に描いたのか、そこまでは分からないものの――
その肖像の幸村とて、若くもなければハンサムでもない。
ただ思うに、描き手の目からみて真田幸村という人の
生き方がどこか美しいように感じられたのであれば、
見た目まで実際よりも美しく描きたくなるというのも
無理からぬことであろう。
――こう考えると、幸村を演じてきた役者さんたちに
二枚目が多いことにも理解ができそうである。

描き手がモデルの人間をどのように人物評価しているのか
という点が作品のどこかに反映されているのは
思うによくあることである。
前者の本の描き手は明智光秀を、後者の本の描き手は
徳川家康をあまり良いように評価してないように見えるが、
果たしてそれは私の思い過ごしだろうか
(たとえ思い過ごしではなくても、
そのように描いた描き手の気持ちは分かるつもりだが)。


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聖人たるべき兼続

2009-11-02 09:39:45 | 日常
大河ドラマ「天地人」。今日は、本多政重どのと
兼続の娘・於松の結婚と彼女の死、
そして彼女の妹「於梅」の死であった。
慶長9年(1604年)の暮れの米沢で
実際に病が流行していたのかどうかは分からないが、
少なくともウィキペディアによれば
実際には兼続の次女と長女の死の間に約7ヶ月の
時間差があったようである。
このように自分の周りで不幸が続いたとき、
もし兼続らが平安貴族とか江戸時代後期の武士なら
例えば「石田三成どのの祟りじゃ」などと恐れおののいて
三成の霊を慰めるような儀式をするところかもしれないが
(なぜなら兼続は「家康を挟み撃ちにしよう」という
三成との約束を守れず、三成を死に追いやったから)、
さすがにそこは戦国武将、自分が死なせた人間の恨みを
そこまでイチイチ恐がったりはしないようである。

本多政重という人のこともよく知らなかったので
これを機会にちょっとウィキペディアで調べてみたが、
彼は徳川家譜代の家柄にありながら
主君を何度も変えた武将のようである
(自分の意思とは無関係に主君を変えさせられた
小早川秀秋とはこのへんの事情が違うと思う)。
ちなみに、主君を何度も変えた武将といえば藤堂高虎。
彼が若かりし頃はまだまだ全国に群雄が割拠する
戦国の気運のある時代(つまり、主君を変えることが
悪徳ではなかった時代)であったが、
本多政重は高虎よりも20年以上新しい人間で、
思うにそろそろ主君変えをしないことが良しとされ
また主君変えそれ自体が難しくなってくる時代の男である。
政重が前田家に就職し、その後かつて本多の敵であった
兼続に乞われて上杉に行ったが勝手に出奔し、
再び前田家に舞い戻ってきたところを見ると、
政重は本当は前田家に腰を落ち着けたかったのでは
ないのだろうか――などと思ってしまうが
(また、いつ改易にされてもおかしくない敗軍の上杉よりも
家康に戦わずして屈することでお家の安泰が図られた
前田の方がまだ将来性があるだろうという計算は、
当時の武将にもできることのように思えるから)、
きっと「天地人」はそんなふうには描くまい。
「義」の教えを尊ぶ兼続という聖人のフトコロよりも
「義」の教えのない前田家のほうが居心地がいい
などということは、思うにあってはならないのである。

そもそも、ドラマで兼続と深い関わりのある人間は
必ず満ち足りた表情で世を去っていくようになっているが、
兼続の父上といい、菊姫といい、そして今回の
於松どのといい、自分の望みを果たせないまま夭逝する
無念を抱いたり直江が本多に乗っ取られる事実を知りながら
世を去っていくというのは、本当に満ち足りた
死なのだろうか??彼らの死にゆくさまを思い出すと、
イエスの教えを守るがためにどんなに過酷な拷問や死を
与えられようとも(それは大変な苦痛を伴うはずなのに)
嫌な顔一つしないのが印象的な
キリスト教殉教者の絵画を想起せずにはいられないが
(つまり、イエスが兼続と、殉教者が上記の3人とに
ダブって見えてしまうということであるが)、
「天地人」で死んでいった彼らは宗教家ではなく
むしろ為政者の立場なのである。

ところで今回、兼続はこの期に及んで
「豊臣にも徳川にもつかず、米沢の民の生活を守る」と
宣言した。いちど上杉家が家康に負けてしまった以上
もはや上杉は家康につくしかないだろうというのが
(前回はハッキリ述べなかった)私自身の考えであったが、
やはり兼続は「家康につく」とは言わなかった。
兼続が言うように「天下は誰のものでもない」というのなら
軽く「家康につこう」という舌先三寸の口がきけたり
「本来誰のものでもない天下を家康どのは
本当に治めることができるのか、お手並み拝見とさせて
もらおう」と言えるような懐の深さがあって
いいのではないかとも思ったところであるが、
秀吉と違って家康は天下を狙おうとするときに
最初から上杉の政敵だったことを思うと、
兼続が「負けた」という表現を使わないのも
それはそれで無理からぬことなのかもしれない
(兼続と家康のイデオロギーの違いの問題は無視したい)。
自分よりも立場が弱い米沢の民に対してなら
彼らなりの「義」というものも有効になる見込みがあると
思われるので、私にはあれは妥当な宣言に思えた。


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