黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

聖人たるべき兼続

2009-11-02 09:39:45 | 日常
大河ドラマ「天地人」。今日は、本多政重どのと
兼続の娘・於松の結婚と彼女の死、
そして彼女の妹「於梅」の死であった。
慶長9年(1604年)の暮れの米沢で
実際に病が流行していたのかどうかは分からないが、
少なくともウィキペディアによれば
実際には兼続の次女と長女の死の間に約7ヶ月の
時間差があったようである。
このように自分の周りで不幸が続いたとき、
もし兼続らが平安貴族とか江戸時代後期の武士なら
例えば「石田三成どのの祟りじゃ」などと恐れおののいて
三成の霊を慰めるような儀式をするところかもしれないが
(なぜなら兼続は「家康を挟み撃ちにしよう」という
三成との約束を守れず、三成を死に追いやったから)、
さすがにそこは戦国武将、自分が死なせた人間の恨みを
そこまでイチイチ恐がったりはしないようである。

本多政重という人のこともよく知らなかったので
これを機会にちょっとウィキペディアで調べてみたが、
彼は徳川家譜代の家柄にありながら
主君を何度も変えた武将のようである
(自分の意思とは無関係に主君を変えさせられた
小早川秀秋とはこのへんの事情が違うと思う)。
ちなみに、主君を何度も変えた武将といえば藤堂高虎。
彼が若かりし頃はまだまだ全国に群雄が割拠する
戦国の気運のある時代(つまり、主君を変えることが
悪徳ではなかった時代)であったが、
本多政重は高虎よりも20年以上新しい人間で、
思うにそろそろ主君変えをしないことが良しとされ
また主君変えそれ自体が難しくなってくる時代の男である。
政重が前田家に就職し、その後かつて本多の敵であった
兼続に乞われて上杉に行ったが勝手に出奔し、
再び前田家に舞い戻ってきたところを見ると、
政重は本当は前田家に腰を落ち着けたかったのでは
ないのだろうか――などと思ってしまうが
(また、いつ改易にされてもおかしくない敗軍の上杉よりも
家康に戦わずして屈することでお家の安泰が図られた
前田の方がまだ将来性があるだろうという計算は、
当時の武将にもできることのように思えるから)、
きっと「天地人」はそんなふうには描くまい。
「義」の教えを尊ぶ兼続という聖人のフトコロよりも
「義」の教えのない前田家のほうが居心地がいい
などということは、思うにあってはならないのである。

そもそも、ドラマで兼続と深い関わりのある人間は
必ず満ち足りた表情で世を去っていくようになっているが、
兼続の父上といい、菊姫といい、そして今回の
於松どのといい、自分の望みを果たせないまま夭逝する
無念を抱いたり直江が本多に乗っ取られる事実を知りながら
世を去っていくというのは、本当に満ち足りた
死なのだろうか??彼らの死にゆくさまを思い出すと、
イエスの教えを守るがためにどんなに過酷な拷問や死を
与えられようとも(それは大変な苦痛を伴うはずなのに)
嫌な顔一つしないのが印象的な
キリスト教殉教者の絵画を想起せずにはいられないが
(つまり、イエスが兼続と、殉教者が上記の3人とに
ダブって見えてしまうということであるが)、
「天地人」で死んでいった彼らは宗教家ではなく
むしろ為政者の立場なのである。

ところで今回、兼続はこの期に及んで
「豊臣にも徳川にもつかず、米沢の民の生活を守る」と
宣言した。いちど上杉家が家康に負けてしまった以上
もはや上杉は家康につくしかないだろうというのが
(前回はハッキリ述べなかった)私自身の考えであったが、
やはり兼続は「家康につく」とは言わなかった。
兼続が言うように「天下は誰のものでもない」というのなら
軽く「家康につこう」という舌先三寸の口がきけたり
「本来誰のものでもない天下を家康どのは
本当に治めることができるのか、お手並み拝見とさせて
もらおう」と言えるような懐の深さがあって
いいのではないかとも思ったところであるが、
秀吉と違って家康は天下を狙おうとするときに
最初から上杉の政敵だったことを思うと、
兼続が「負けた」という表現を使わないのも
それはそれで無理からぬことなのかもしれない
(兼続と家康のイデオロギーの違いの問題は無視したい)。
自分よりも立場が弱い米沢の民に対してなら
彼らなりの「義」というものも有効になる見込みがあると
思われるので、私にはあれは妥当な宣言に思えた。


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