歩くたんぽぽ

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忘れる前に神名平四郎

2016年01月27日 | 日記
昔から忘れっぽくて困る。

記憶違いも多いし、ぽかミスもあるし、もしかして記憶の中枢に重大な欠陥があったりして。



本など読んだ後は一様に盛り上がるのだが、日が経つと熱だけ残り内容はすっかり忘れてしまう。

だから「あの本は面白かった」とか率直な感想以外確かな事を言えなくなることが多い。



そういうことで、今日は藤沢周平の『よろずや平四郎活人剣』について忘れる前に少々。

藤沢周平の本は、つい昨秋母に勧められて初めて読んだ。

『殺人の年輪』ですっかりはまり、

『日暮れ竹河岸』、

『喜多川歌麿女絵草紙』、

『三屋清左衛門残日録』と順調なペースで読んできた。

他にもあったような気がするけど、ほら、もう忘れている。



それでも『殺人の年輪』に収録されている葛飾北斎の『溟い海』は鮮明に覚えている。

私も絵を描くからか、昔から絵師や芸術家が出てくる話は特別好きだった。

感情を表現する直接的な言葉はないのに、なぜあんなにも北斎の気持ちが流入してくるのか。

あの話は本当に好きだ。



藤沢周平の小説について感想を述べるにあたり、いくつかの論点が出てくる。

まず藤沢周平について、

次に時代小説について、

そして個別の物語についてという感じだろう。

藤沢周平については、まだ何か言える程読めていないのが現状。

時代小説については、先日とある歴史家がラジオで「最近の時代小説はリアリティがない」と言っていたので少し考えてみた。

特に時代小説の現実性・物語性・必要性、あるいは娯楽としての時代小説の位置づけなどについて。

それも根本的な議題は「創造物としての物語について」というような大きな話になってしまうので、ここではやめておく。

今回書くのは、単純に『よろずや平四郎活人剣』について。



初めはあまり身が入らなかった。

というのもその前に『三屋清左衛門残日録』を読んでおり、その主人公が隠居したおじさんだったからだ。

渋いおじさんの哀愁に浸って、分かりもしない寂しさを感じて満たされたばかりだ。

平四郎はピチピチの24歳。

しかし若さに対する違和感も最初だけだった。

軽快なテンポによりすぐに『よろずや平四郎活人剣』の世界に入っていった。



文春文庫の上下巻でページ数に換算すると約1000ページ。

旗本の末弟として育った平四郎が家を出て浪人として生きていくためによろずやをはじめるのが物語の始まり。

知識もなければコネもない、あるのは磨かれた剣術とよく回る口。

若さ溢れる平四郎と彼らを取り巻く様々な事情を抱えた庶民。

呑気で明るくお調子者かつ豪快な平四郎と軽快に進んでいく物語。

脇を固める登場人物もみんな個性的で面白い。



平四郎は武士と庶民の世界を行き来するのだが、現場を知るという意味では他の武士よりたくましく見える。

役人である兄と平四郎の温度差も面白いところだ。



読み終わった後この話を実写化するとしたら(実際にされている)平四郎は誰がいいかななんてことを考える。

若い割りに時代的に早熟で、現代の平均的な精神年齢に当てはめると若くても35歳くらいじゃなかろうか。

イケメンはダメだ。

一歩引いた雰囲気を持っている俳優、松田龍平や綾野剛では線が細すぎるし、

若かりし頃の浅野忠信だと個性あり過ぎだし、若かりし頃の永瀬正敏なんかがいいかもしれない。



極めて個人的な話は置いておいて、『よろずや平四郎活人剣』面白いので是非。

時代は江戸後期、終わり行く一つの時代と新しくはじまる若者の人生。

何かで落ち込んでいたとしても、それすら吹き飛ばしてくれそうな気持ちのいい作品だ。

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