歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

近頃のメディアリテラシー

2015年12月12日 | 日記
私は初めから学校という場所があまり好きではなかったけれど、

小学校から高校まで社会科の先生には恵まれていたように思う。



小学6年生の頃、アメリカでは丁度大統領選挙が盛り上がっていて、

共和党のブッシュか民主党のゴアかなんていう議論を先生と交わすのが楽しくて、

初めて「社会」という言葉を意識しだしたのである。

当時の私の話はほとんど親の猿真似だったけれど先生は同じレベルで話してくれた。

そのとき出会ったのが「メディアリテラシー」という言葉である。

ーーー
「メディア・リテラシー(英: media literacy)とは、
情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、
その真偽を見抜き、活用する能力のこと。」
Wikipediaより引用
ーーー

それ以後その言葉を意識してこの15年間を過ごしてきたのはとても大きかったと思う。

その選挙でブッシュが大統領になり、2001年の同時多発テロが起き、アルカイダへの報復、

イラク戦争、そしてさらに複雑化した中東を取り巻く環境の中から台頭してきたIS。

泥沼化する戦争が常にリアルタイムでそばにあった。

そしていつも自分なりに必要な情報を取捨選択しようとしてきた。

戦争の話だけでなくさまざまなニュースに対しても同様だ。



飛び交う情報の中から真実を見つけるのはとても難しい。

そしてたくさんの情報に触れ、人の言葉を聞けば聞く程「真実」が矛盾を増やしながら膨張していく。

インターネットの普及により情報は複雑化し必要な情報を見つけるのも難しければ、

得た情報が真実か否かすら分からない。

集めた情報はどうしても自分が欲していた主観的なものになってしまい、

初めからシナリオが用意されたドキュメンタリー番組みたいだ。



ここで勘違いしてはならないのが決して「中立」ということが大事ではないということだ。

私は社会的事項において「中立」という言葉は成り立たないと思っている。

そして表面的な「中立」など守る必要もない。



まず持たなければならないのが問題意識である。

そもそも問題意識がなければ考えることすらないだろう。



次に大事なのは情報源と個々の情報の相関関係。

どのような人が発信している情報なのか、いつ発信された情報なのか、

なぜそのタイミングで発信されたのか、というような情報を取り巻く環境を大切にすること。

それらが他の情報と繋がり自然と社会における各情報の位置づけのようなものができてくる。



そして誰の発信した情報なら信じるのかということ、誰なら信じられるのかということ。

それは自分の感覚に任せるしかない。

いきなりとても抽象的な話になってしまったが、私が十数年間考えた現時点での答えがそれだ。

答えというよりそれでもいいんじゃないのかという新たな発見のようなものだ。

もし真実というようなものが存在するとしても、全ての人がその真実にたどり着くことは不可能である。

アポロ11号の月面着陸や温暖化の原因とされている二酸化炭素など世界的に共有されている「真実」においても、

他の様々な「真実」が同時に存在しているのだ。

しかしどうしても多数派を占める意見が真実としてもてはやされてしまう。

そこに疑問を持ち情報を集め自分の信用出来るオピニオンリーダーを見つける。



これでは結局自分の物差しで見ているではないかという批判が出そうだが、

この過程を踏むことで決定的に違うのは自分がどういう物差しで物事を見ているかという自覚を持てることだ。



TPPや原発、安保法制、特定秘密保全法、行き詰まった経済、問題は山積みだ。

来年の参院選に向けて、さらに先にある社会を想ってメディアリテラシーを磨いていかないといけない。

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