歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ありがとうの違和感

2021年07月10日 | 日記
子供の頃大人から「何かされたらありがとうと言いなさい」と教えられた。

親にそう言われたことがあるか厳密に考えてみると、多分ない。

私の家族の中には感謝を伝える習慣がなかった。

毎日ご飯を作ってくれる母に美味しいの一言もないような無愛想な態度だったので、

ある日母がストライキを起こし家族であたふたしたのを覚えている。

そこで初めて母がいるから家の中が回っていたことを知った。

「ありがとう」を教えてくれたのは先生であり社会だったと思う。



今となっては何かされたら反射的に「ありがとう」と言うようになった。

でも最近習慣化した自分の「ありがとう」に違和感を感じることがある。

特に家族や友達にメッセージを送る時だ。

無意識にあ、り、が、と、うと打って、一回止まって消す。

なんか違うような、でも明確な理由がわからない。

いちいちお礼を言いすぎているような気がするけど、お礼を言うのはいいこと、だよね?



夫とは十何年一緒にいるが、彼の言う「ありがとう」にも違和感を感じることがある。

大したことをしていないのに返ってくる大仰な「ありがとう」。

当たり前のことをしたのに返ってくる大層な「ありがとう」。

何も悪いことはない。

小さなことにも感謝できる人なのかもしれない。

しかしそこでモコモコと芽を出すのは言い知れぬ寂しさと、みくびるなよという変な感情。

違和感の正体はわからないけどいい気がしないのでありがとうというのはやめてくれと言ったことがある。

すると「お礼を言うのは俺の自由だから、俺は思った時には言う」と言われた。

確かに、受けとる側の問題なのかもしれない。



ありがとうの見えない壁にぶつかっていた時、これを言語化してくれる人がいた。

『利他とは何か』という共著を書いた政治学者の中島岳志さんだ。

本はまだ読んでいないけれど、ある対談でインドであったエピソードについて喋っていた。

重い荷物を運ぶ時に手伝ってくれたインド人に対して深くお礼を言ったらキレられたという話だ。

行為と感謝が交換されてしまったのだという。

ヒンドゥー教では与えられた役割をその場で果たすのが重要とされ、行為に見返りは求めないのだとか。

そこへしつこく「ありがとう」と言ったことで、行為に対し感謝を与えることになってしまった。

等価交換は人々の関係性を切り離す。

資本主義的な貸し借りの原理は一見人を解放し自由にしているようで本当は孤立化させ不自由にしている。

「ありがとう」にまで資本主義が浸透しているのかと思うとゾッとした。

しかし意識しないレベルで確実に等価交換の考え方が根付いている。



思い当たる節がありすぎて、顔から火が出そうだ。

友達に対してとても失礼なことをしてしまったことがある。

友達の行為に対し執拗にお礼をしようとしたけど、断固断られたのだ。

逆の立場だった時寂しかったのに同じことをしてしまった。

大人の一般常識とか当たり前が苦手で、そのコンプレックスが必要以上の見返りに繋がってしまう。

そこに負い目がある時点で純粋な感謝は見返りになってしまう。

大事な人との関係を守るためにも、奥深く根付いた等価交換の考え方から脱却しないといけない。



今思えば子供の頃私の家族は嫌という程家族だった。

自分を無責任に投げ出してぶつけた。

そこには裏も表も契約も交換もない。

親は大変だったろうけど、子供の頃にその体験ができたことはありがたかったのかもしれない。

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