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みらいのダ・ヴィンチたちへ

できるかできないか。そんなことは明日に任せて、今このときを一所懸命に「ぼく・わたしは考えたよ。描いたよ。作ったよ。」

完成まで一年半

2017年01月29日 19時22分46秒 | カリキュラム

学校の授業は総合的に修得することが求められているので、創作科目といえども時間の制約を守らなくてはいけない。当然ながら子どもたちの生来の性格を考慮するに至っていない現実がある。なので、その壁をクリアするための努力は個々に求められるし、その努力こそが将来に生かされる大切な経験です。創作活動(ここでは発想から完成まで)のスピード配分はとても難しい課題です。言うまでもありませんが千差万別で、個々へのアドバイス以外に方法はありません。では何のための塾でしょうか。結論になってしまいますが、塾は失敗から学ぶための経験をたくさんする場なのです。「失敗するのがイヤだ」「笑われはしないだろうか」「コツを教えて」「早く上手くなりたいから、同じ課題は繰り返さなくてもいい」これらすべては間違ってます。失敗から得られる経験こそ技であり、力であり、強い心です。最後はあきらめない。これ以上のアドバイスはありません。あきらめて投げてしまう前に、やるべきは安心して失敗をしましょう。

熊野厳蔵くんのスケッチブック 2016.5 完成したのは2018.1 いろいろな理由があって完成まで一年半かかりました。困難を楽しみました。

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子タヌキの散歩

2017年01月29日 17時47分10秒 | カリキュラム

ガオー教室かいわいは、小さな自然が探すとまだまだ見つかる。教室の裏には手作りのビオトープがあり、ヤゴからトンボの羽化が観察できたり、庭のレモンの木ではアゲハチョウ。冬には樫の木にコゲラがコッコッとドラミング、薪割りの汗を流しているとショウビタキの雌鳥が足元でピコピコおじぎをする。ヤマガガシ、ウシガエルは常連さん、自慢のネイチャーライフを満喫できる小さな幸せを一年中、教室の子どもたちと楽しんでいる。

今日は日曜日、薪をくべたストーブの上の琺瑯びきの黒いケトルがうなり出し、給水を要求する。教室の狭いながらのサンルームの窓から、ふと前庭に目を向けると、芝生の上の小動物と目が合った。「ああ、レッサーパンダか」イヤイヤ、ここは動物園みたいなもんだと半分納得しながら老眼のピント調整をする。「タヌキ?」以前から家族は目撃しているのである。その距離7メートル、教室を横切り、隣家のデッキ下へもぐりこみ、ゴソゴソしている。(カメラを構えたが、その後は姿を現すことなく静かになる)

教室の小さなタヌキたち(失礼いたしました)もいろいろやってくれます。顔に付いた絵具を楽しむ子は多くいますが、この二人は確信犯です。でも、大切なムードメーカーなんです。全員で大笑いして終了しました。(彼らのクラスは女子がいません。下ネタも飛び交います。学校と違って解放的になるのでしょう。黙って私も大笑いしています。)

昨年の複数のコンクールの結果が返ってきています。「名古屋の未来」がテーマのコンクールには教室から高学年生2名がエントリーして、準グランプリと審査員特別賞をそれぞれいただきました。ふたりともやってくれますね~!美育文化コンクールは3名の一次審査通過の報告が、JAコンクールは5名の入選目標を立てています。さあッ!びっくりポンのはじまりはじまり!

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「書く」と「描く」の違いは

2016年09月27日 10時26分51秒 | カリキュラム
3分間の休憩の時間になると、決まって誰かがホワイトボードに落書きを始めます。解放された自由な絵を見ていると、画用紙にもこれくらい勢いのある絵を描いてほしいと思うたびに私の指導力不足を恥じています。落書きのすばらしさのお話は後日に。 
「これはヒゲ(先生)が書いたヘタな絵で~す」とメッセージが残っています。すぐに指摘します。「絵をかく」の「かく」は本当は「描く」なんだけどな。でも中学校で習うから今は「かく」でいいんだよ」
これまでも乳幼児期においての「ぬり絵」の弊害を目の当たりにしてきました。純粋で吸収力のある脳に記号化された形や色を教え込まれる。同じ花、同じクルマ、同じ顔、はては同じ構図(葉が二枚、茎が伸びて、おなじみのチューリップの形を赤色で塗る)そんなぬり絵から抜け出せなくなってしまった子が中高学年生になって、共通する絵の特徴として ①対象物が小さく、勢いが弱い ②神経質に描き直しを繰り返す ③急ぎ完成させることが目標になる。 子供の成長にとって大切な「描く」ことを楽しめないでいる様子が強く伝わります。
では「描く」とは何でしょうか?漢字の成り立ちが面白いので、少し脱線して紹介します。田(たんぼ)に草かんむりで「苗」になります。その意味は、小さい・しなやかな・細々とつながる、です。その「苗」に手へんをつけると「描」(えがく・かく)になります。意味が具体的になってきて、細かく手や筆を動かす・物事の形の細かなところまでを写し描くことをいいます。一方の「書」の意味は少し違います。いわゆる誰が書いても同じでなくてはならない文字を書く作業をいうので、類似はしていますが、まさに一線を画くものです。
細かなところまで手・筆を動かすとは、一人ひとりが感じるままに、感動や情緒を手筆を通して絵に表現するものにほかなりません。
「描く」ことへの課題は個々に伝えていますが、主なものに①塗り残し(白いところがないように塗りつぶす)②絵具のはみ出し、にじみ、汚れをどう対処する。③葉は緑色、空は空色、肌は肌色、などと決めつけない。などがあります。無責任に聞こえるかもしれませんが上記の課題は創作の上で良くも悪くもないのです。なったらなったで、その時々で考えれば、なんとかなる。ぐらいの楽しみ方を持ってほしいと考えています。
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媚びない。

2016年09月07日 11時04分28秒 | カリキュラム
学校で学ぶことは学校で、家庭においては躾を。その基盤の上で、この教室にしかできない経験を、この子たちの将来に持たせたい。成績を上げることも大切でしょうが、絵がうまくなることよりも、地味ですぐには成長が見えないけれど、何か困ったときには、自分でも驚くほどの自信を胸に秘め、行動力の鎧を身につけ、天馬のごとく駆け抜ける気高き勇者になるチカラを持ってもらいたい。
私はこの子たち一人ひとりに熱い思いを、夢を託して向き合える数多い大人のひとりでありたい。だからこそ、一切の甘やかしはしない。指導も厳しさに妥協しない。「ほめて伸ばす」などというまやかしは子供は先刻お見通し。しかし、できてもできなくてもほめる。その子なりの努力には最大級でほめる。なめてかかってくれば叱る。指導はごくシンプルで、その子にはわかりやすい、叱られても納得できる。楽しいだけのお教室だと思っていては大間違いです。
すべてが真剣なる信頼関係を濃密にすることに徹底的にこだわっている。もしもそこに「媚びる関係」があると言葉には出さずとも、その子は相手(教室では私)の非を問答無用で責める。「ヒゲ先生!次は何をすればいいの?」「ここは何色で塗るの?」「言うとおりにしたら変になった!」
「造形=創造」このことを間違えてはいけないと子どもたちには伝えている。創造することは学識を教わることではありません。創造であるから1+1=3も素敵なのです。ゲームのように途中でクリアさせるノウハウでもありません。いかに苦境に立ち向かうのかを経験する場なのです。だからさっと簡単には回答を示すことはしません。もっと言えば正解なんてないのだから。つまり個々に私からの返答は異なります。全く返答になっていない場合も大いにあります。正解を教えることはその子の創造する貴重なチャンスを奪うことになります。わざととんでもない(間違い)指示をします。すると、その子の脳ミソがブルブル始動するところを見守ることができます。
おおいにほめて、おおいに叱って、見守って、突き放す。これがこの教室のあるべき指導のスタイルだと考えています。過激な言い方になりますが、あとはその子の責任です。他の誰でもありません。
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丸い画用紙に何を描こうかな。

2016年01月26日 15時06分38秒 | カリキュラム
想像画が描けない。何を想像してよいのか分からない。と言わせるのは指導者の力不足です。その通りだと思います、ある意味では。そこで考えるのは、ものを考える創造作業は無から有を生むようなものではなく、子どものいろいろな経験や知識の新しい組み合わせで初めて構築されるものではないかと。いわゆる芸術家が言うところの、突然パッとひらめいた、では決してないのです。一人ひとりの子にとって新しいこと、自己表現を目指す行為が創造なのだと思います。そのためには基盤がなくてはなりません。「生活経験」と「関心、感動、記憶」が必要です。
子どもの行動範囲が限られている以上は生活経験は親との同行範囲です。短絡的な例としてお話しますが、苦労してでも公園などへ連れ出すご家庭と、安易に本や映像鑑賞で済ましてしまう家庭とでは、子どもの記憶や感動経験に大きな影響を与えることになります。
ものごとの関心についても、「子どもが関心を示さないから」という理由で親がチャンスを見逃したり、バーチャルといわれる現実を伴わない経験や記憶ほど、頼りないものはありません。実際に「4本足のニワトリの絵」「樹に生る落花生を描く」そんな大人も少なくありません。
ガオー教室の天井に次回課題予定の「天井画」を貼りました。多くの子が気が付かない中で純恋ちゃん(3年生)が「ひげ先生、龍は一匹だよ~!わたし見たもん。」私はとても驚きました。どこで観たの?「お寺さんの天井に描いてあったよ」よほど彼女は強い印象を持ったのでしょう。ご家族に支えられてこその本物の知識が心のポケットに入ったことと思います。
絵は四角いもので、四角形の画用紙に描くものという既成概念を、早くから持ってしまった多くの子にとって、これをほぐすのは大変です。天井を見上げる絵を描く経験は、この先もほとんどないことでしょう。だからこそ今がチャンスです。丸い画用紙を前にして、戸惑うことでしょうが、自由に描いてほしいと考えています。自己表現の方法は限りなくあることを経験してもらいたい。これが今回の目的です。
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