ちえぞー往生こいたでいかんわ!

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鳴海~桶狭間へ

2007年01月31日 | お城(愛知)

鳴海で感慨にふけっていては先に進まないので、適当に切り上げ桶狭間へ向けて歩き始めた。

鳴海宿を出て、左京山方面へ。左手(北)は丘陵地がすぐ際まで来ているんだなぁと思いながら歩いていく。本当は南にも丘陵地があるんだけど、民家があって見えない。右手の漆山なんかがもっと見えるかなぁと思ったのに、全然ダメ。何にしてもかつての山林はほとんど住宅地になっちゃってる。更にズンズン行くと有松宿へ入っていく。鳴海から有松までこうして歩くとあっと言う間だ。20分も歩けば着いちゃうんだから。有松も何度か歩いているけど、ここの町並み保存は上手くやってるなぁと相変わらず感心する。鳴海も有松も途中で交差する道を広げたりして、少し雰囲気が変わってしまったけど、それでも情緒を楽しめていい町だ。

有松宿を通り過ぎて少し行くと「大将ヶ根」信号で国道1号と交差する。ここでやっと右側(南)の視界が開けるので、一瞬エッ?って感じでびっくりする。東海道の南側の丘陵が突然見え出すからだ。1号に出る瞬間、道が少し坂になっていて上がってるから余計にそう見える。でも、江戸初期までは東海道から南側の丘陵地は見えていた。だって、有松宿は東海道を整備した頃はただの山間のさびれた場所で、旅人が盗賊にあったりしていたのだ。安心して旅ができるようにと、ここに間の宿を設け、絞りという特産品を生み出して、人が集り、集落ができてきたので、それまでは何もなかったから。

「大将ヶ根」信号から国道1号を少しだけ歩いて、今度は東海道は1号の南側を通ることになる。道路を渡って東海道へ入り、5分も歩けば桶狭間古戦場が右手にある。やはり近いなぁと実感。中島砦からだと所々で写真撮影しながらでも45分で着いた。信長はこのルートで桶狭間へ来たのだろうか?などと考えると楽しくなってくる。
でも、おけはざま山は古戦場より南とされているので、さっきの「大将ヶ根」付近から東海道を行かずに、真っ直ぐ行くと丁度正面あたりになる。何にしても、「大将ヶ根」より西は北側の丘陵地が迫った感じがするが、そこから東は南側の丘陵地が迫った感じがする。

ついでに、義元が沓掛城から桶狭間へ向かったとするならば、どのルートを通ったんだろう?と逆向きになってしまうがここから沓掛城方面へ歩き始めた。でも、途中で寄りたい所があったので、少し違うコースで歩いてしまった。
久しぶりに10km程歩いたから、ちょっと足が疲れたけど、たまにはこうやって歩くのも楽しいなぁと思った。普段、運動不足解消に歩いた方がいいと思いつつも、面倒で歩く気になれないが、こうやって何かテーマを持てば楽しく歩けるので、今度は沓掛城から桶狭間へ歩いてみようかなぁ。

鳴海を歩く

2007年01月30日 | 自分のこと

この間の日曜は14時から時間ができたので、天気がいいし、風もなかったので、鳴海から桶狭間まで歩くことにした。名駅に居たため鳴海駅で下車をすればいいだけだから丁度いい。某MLで桶狭間が話題になったが、以前歩いてから数年経つから、また歩いて見てみたいという気持ちもあって。

鳴海近辺が高架になってから鳴海駅を下車するのは始めて。どうなったのかチョット楽しみ。駅は東口も出来てて便利になったなぁと思った。私が住んでいた家は、東口からなら徒歩3分程度だろう。

せっかくなので、桶狭間とは反対方向の鳴海城のすぐ脇に建つマンション建設の様子を見に行った。もう堀跡なんて何も見えないけど、あれが主郭切岸か?と見上げた。そこから更に西へ歩く。ここが本陣跡だったのに、説明板はどうしたんだ?と思ったら、以前は駐車場にあったのに、今は山車を格納している建物の前にあった。

それからもうちょっと西へ行くと・・・あったー!私が通ってた保育園。無事にあって良かった!とホッと胸をなでおろす。というのも、マンション建設でもしや保育園って壊されたのか?と心配していたのだ。今となっては何の関わり合いもないけれど、やはり自分が通ってた保育園がなくるのは淋しいからね。鳴海駅開発で私が住んでた家が壊されたのを見た時は、すごくショックだったから、今度は保育園まで?と思うと残念だったので、あって良かった。

そこから引き返して東海道を東へ歩いた。鳴海の東海道沿いには友人宅があったり、昔からある店が残っていたりして懐かしい。たまに行ったお風呂やさんも営業はしてないものの建物は残っている。やっぱり鳴海はいいなぁ♪鳴海で生まれ育った事に誇りと感謝の気持ちでいっぱいだ。と思いながら中島砦へ。

写真は何枚もあるけれど、近くに来たらついつい寄ってしまう。中島砦は、城址碑の周囲にある木の枝が払ってあったので、碑が見やすくなっていた。扇川と手越川の合流点を眺めながら、小さい頃に1度だけ台風でこの川が決壊するかもしれないと、夜、大雨が降っている中、近所の人たちが協力して堤防に土嚢を積んだことがあった。結局、決壊しなかったから被害がなかったけど、水位がすごく高くて怖かったのを覚えている。しかも、名鉄の線路を見ると、こっちも水が溜まってて枕木が見えなくてびっくりした。

小さい頃は、手越川に幅90cm程の板が渡してあったが、その橋が怖くて私は渡れなかった。ちゃんと横に柵や手摺りがないと安心できなくて、遠回りしてでも安心できる橋で渡っていた。でも今はそんな橋もない。
他にも、この坂は私が自転車でスピード出しすぎて曲がりきれず、ブロック塀にぶつかった場所・・・今もその時ぶつけた傷が額に少しだけ残っている。ブレーキをかけずに坂を下るというアホな遊びをよくやってたから、そんな目に遭ったのだ。

この付近は、私が小さい頃は田んぼはなかったけど、近くに爆弾池が1つだけあり、よくそこへザリガニを釣りに行った。最初のエサはたくあん。釣れるとザリガニを触るのが怖いから、男の子に取ってもらっていた。最初に釣れたザリガニをエサにするのも自分ではできなくて、やってもらってたなぁ。

鳴海近辺は自分のお庭みたいなものだから、適当に川沿いを歩いて、幼い頃の風景と重ね合わせながらまた東海道に戻った。

続く~

*写真は、左手から手前へ流れているのが扇川、右手から扇川に流れているのが手越川。正面が中島砦

松平のお城へ~

2007年01月29日 | お城(愛知)

先週、今まで読んでた司馬遼太郎の『城塞』をやっと読み終わった。一体何ヶ月かけてるんだ?と思うが仕方ない。次に読む本がないから図書館で借りてくるまで何読もう?と悩み、先日このブログで宮城谷昌光さんの『古城の風景2』を読んでないと書いたのを思い出し、押入れから引っ張り出した。読んでみたら、2の松平の城は1より楽しくて、アッという間に読み終わった。今回は雨の日がなかったからちゃんとお城へ行ってるし、尾張に住む私には奥平や菅沼より松平の方が身近に感じられて楽しめたのだと思う。

そうしたら、久しぶりに松平の城へ行ってみたくなり、本に載っていた大給城と滝脇陣屋・滝脇城へ行く事にした。というか、土曜日は午前中は約束があり、午後からしかお城へ行けなかったので、近場で・・・と考えたら丁度良い距離だったのもあって。

大給城は2~3年ぶりだったけど、やっぱりいつ来ても素晴らしい。良い城は何回来ても良いのだ。初代大給松平氏の乗元の墓を見てから城跡へ。
東の堀切から枡形虎口を通って郭へ入っていくのもカッコイイし、石垣が見られるのも楽しい。郭へ入ると土塁もしっかりあるし、またまた石垣も見られる。主郭の岩の上の城址碑もお気に入りだし、物見岩からの眺めも最高!やっぱいいなぁと感動する。

その後、館跡へ~。館跡の梅林は、少しだけ咲いてる梅があった。この館跡から西の堀切を見てまたまた大満足!
次は水の手曲輪へ行って、うーんやっぱりこれはダム施設だ!と驚嘆する。私はこの水の手曲輪が一番好きだ。だって他のお城では見られない独特な造りなんだもん。水の手曲輪を堪能してから、その東側の石垣を見て、ほぼ一通り見たかな?と思ってこの城を後にした。

次は滝脇陣屋へ。『古城の風景2』では、滝脇城を目指すも、場所が分からず「長松院」へ行き、滝を見て帰っている。うーん、宮城谷さんやスタッフはお城度がまだまだ低いか?
滝脇陣屋は「長松院」の西側の竹林だったようで、石垣と削平が残っている。城の場所が分からなければ、陣屋だけでも見ていけばよかったのに~と思ったけれど、陣屋は時代が違うから対象外で調査してないんだろうな。

その後、滝脇城(日影城)へ。ここは以前来ているので、登り口も山も分かってるから大丈夫!と山へ入って行った。登り口から真っ直ぐ進んでどっかで左手へ行かなければいけないんだけど、どこから左手へ行くんだったっけ?と山の中で悩みだしてしまった。適当に沢が渡れる付近で左へ行ったら、早すぎたようで山が急すぎて登れない。道はなかったけど、こんな厳しいところを登らなかったよなぁ。。。と思い、もう少し奥まで進んだら、谷筋が見えてきてここからだったら登れそうと行ったら無事到着。いきなり堀切がお出迎え。あー良かった。堀切を見てから主郭へ。段郭がハッキリ見える。すごく小さなお城だけど、削平はしっかりしてて十分だ。来られたことに満足して帰った。

あれだけつまらんと言ってた『古城の風景』を読んで、これらの城へ行きたくなったので、持っていない『古城の風景3』一向一揆のお城を図書館で借りてきて昨日から読んでいる私だった。私っていい加減だわ~。どうもすみません。

紀伊のお城(熊野・紀北)

2007年01月28日 | お城(三重)

紀伊のお城2日目の続きです。国道311号で新鹿へ行きました。石垣もある山城ってことで少し期待をこめて岩本城へ~

岩本城  熊野市新鹿町字岩本1929
城跡は、津波が発生した時の「高台」と呼ばれる避難場所になっていました。そのため、登城道が整備されています。10分もかからず山頂に着きます。山頂には祠が祀られてて、そこから左手(西側)へ城域は広がっています。
祠から左手やや下側を見ると、かなり石垣があり感動します。そこから更に西へ行くと堀切があり、その西側の郭には土塁が巡っていました。その西には堀切が3条もあり堪能できます。更に西には郭と堀切がまだあるようですが、ここから先は藪がひどくなっていたので諦めました。

波田須城  熊野市波田須町字宮ノ谷1221
熊野古道「波田須の道」の案内がある所から少し登ると「波田須神社」があります。この神社の裏山が城跡のようですが、神社から比高50m程もあると知らなくて、すぐ近くを散策しても何もなかったので帰ってきちゃいました。本当は曲輪と堀切があるようです。

セキ山城  紀北町海山区上里字小末
駅の南側から橋を渡って行けますが、対岸から眺めるだけで山へ登るのをやめました。登城口を探すのが面倒になってきちゃって。。。^^;
ただ、対岸から見てても、山頂の削平がよく分かります。

上里城  紀北町海山区上里字上ノ山
第一病院の脇を西へ入ると、突き当たりに墓地があります。この墓地の右手に山へ入る道があります。
山頂に浅間さまが祀られているため、登城道が整備されています。
10分もかからず山頂に着きます。この北側に堀切があったようですが、現在は水道か何かの施設によって壊されてしまいました。

この時点でまだ14時頃だったけど、何だかすごく眠かったので道の駅で休憩することに。そうしたら、雨が降ってきたのでもうお城巡りは終了にし、少し車で寝てから帰りました。
以前から行きたかった長島城と鬼ヶ城へ行けたので、他のお城はイマイチな所が多かったけど、かなり満足でした☆

紀伊のお城(熊野市2)

2007年01月27日 | お城(三重)

熊野市のお城の続きです。

有馬本城  熊野市有馬町字古城1775
安楽寺の南側に広がるみかん畑とそのすぐ隣の宅地一帯が城跡です。みかん畑にある石垣は後世のものとか。何にしても一面畑で何も分からないので、有馬氏が庇護していたという安楽寺へ行き、少し西側にある産田神社へ行きました。
産田神社には駐車場があったから良かった~と思って車を降りたら、「さんま寿司発祥の地」の看板や案内板がありました。この神社がどうも発祥地らしいですが、さんま寿司が苦手なので、食べたこともなく(基本的に、普通の握り寿司以外は苦手なので・・・)、一瞬へぇーって感心したけど、すぐにそれってどういう寿司だっけと考えても分からず、まぁいいかとやり過ごしちゃいました。

高家城  熊野市有馬町字山崎
城跡付近は道が狭いし、丘陵地で上っていくため、まずは正悟寺へ行きました。
正悟寺の墓地に、五輪塔や宝篋印塔があるのですが、これらは城跡から移したものだそうです。このお寺に向かって斜め右手(北東)に小高い丘があります。お寺から歩いて行けます。

お寺の右手から北へ向かって行き、最初の路地を右折すると民家の間を抜けて通りにでます。この通りから北側が城跡です。城跡はみかん畑と宅地になっており、更に200m程北へ進んだ通り沿いが城域の端のようで、この北側に土塁が残っていると資料に書いてあったのですが、宅地などでしっかり見ることができず、確認するのは無理と諦めました。民家の前に井戸が1つあったけど、これは昔からあったのかなぁ?と眺めていました。

1日目はこれで終了とし、宿へ行きました。温泉に入って温まり、私にしては普段より贅沢な夕飯を頼んだため松茸御飯などを堪能して幸せいっぱいというか、食べすぎて苦しかったです。

そして、2日目・・・
栂ノ尾城  熊野市木本町字切立・松ノ木4855
NHKラジオ放送局の施設があるすぐ東側の山が城跡です。登ってみたのですがスゴイ藪で何も分かりませんでした。
ただ、この山の北側は谷になっており、何故か立派な石垣が段々毎にあります。何かの施設でもあったのだろうか?とすごく不思議でした。

井上峯城  熊野市井戸町字紺屋地1202
城跡は宅地や畑になっています。下から小高い丘を眺めましたが、あまり気が乗らなかったので、近くの三光寺に寄って帰りました。丘陵の頂上には秋葉権現が祀ってあるようです。

父無山城  熊野市新鹿町字甫本15
城跡は、新鹿中学校や道路の造成に伴い、ほとんどが消滅したようです。海側にある金毘羅神社部分だけがかろうじて残ったみたいです。金毘羅神社へと上っていく階段がかなり古かったので、途中で壊れないか心配しながら上ったけど、神社にはお供え物が当然あり、誰かが毎日面倒見てるんだなと思ったら、この階段はまだ大丈夫かも?と思えてきました。

まだ、もうちょっと続く~

紀伊のお城(熊野市1)

2007年01月25日 | お城(三重)

翌日の天気予報が午後から雨だったので、先に行きたいお城へ行っておこうと思い、熊野市に入って最初に鬼ヶ城へ行きました。

鬼ヶ城  熊野市木本町字城山1751
鬼ヶ城のハイキングコースは以前歩いたことがあり、岩と海に感動しまくっていたけど、今回は山上のお城だけ行くことに。ハイキングコースのどっかからお城へ行く道があるのかなぁ?と思いながら駐車場へ行きました。
さて、登城口を探さないと・・・と思ってふと後ろを見たら山へと上がっていく階段が目に入り、ハイキングコースじゃなく駐車場から登るのだと分かりました。

登り口の案内板を見て、間違いないと確信してから登りだしたけど、階段が続くのでしんどかったです。ここは、熊野古道の歩くコースにもなっているため、道は整備され、よく人とすれ違うのですが、階段がしんどいので途中休憩しながら、20分弱かかってやっと主郭に到着。主郭から一段高い右手の郭へ行くと説明板があります。その先に遊歩道があるのでそちらへ下っていくと、堀切が3条程見られます。

主郭から左手の郭へ行くと展望台がありました。そこから先にも堀切があるようですが、道がなかったので諦め、展望台から海をボーっと眺めていました。もうちょっと晴れてたら言うことなかったけど、海が見られて気持ちよかったです。

木本要害山城  熊野市木本町要害山336
市役所のすぐ東側、熊野市駅のすぐ南側に岩肌が露出した山がありますが、そこが城跡です。登り口が分からず、ぐるりと車で回り、歩いて半周したけれど、登れそうな場所が見当たりません。山の北西側には中腹まで階段があったので、そこを上がってみましたが、途中からはとても進めず断念しました。地元の方に登り口を訪ねたら、知らないと2人に言われてしまったので、すっかりへこんで諦めました。

口有馬城  熊野市有馬町字古城721
海岸寺の参拝者用駐車場に車を停め、そこから歩いて回りました。
線路南側の海岸寺から天理教付近と、線路を横切った北側すぐ付近に遺構が少しずつ残っています。海岸寺には土塁が残ると資料にあったのですが、お寺は新しく建て変わっており、その際に全体を整備したようで、土塁は削られていました(正確には、土塁を一部残して利用し、柵の土台としていた)。少し西へ行った天理教の付近には土塁が少し残っています。また線路を横切った北側には東西に石垣が残り、線路すぐ近くと民家沿いの2箇所で平行に石垣が残っていました。ま、これだけでもお気楽に遺構が見られれば十分かな?

熊野市内はまだまだ回ったので続く~

紀伊のお城(尾鷲市)

2007年01月24日 | お城(三重)

紀北町から国道42号で尾鷲市に入り、尾鷲中心部のお城へ行きました。

中村山城  尾鷲市中村町字中村山
地図を見たら道路があったので、山頂まで車でいけるのかと思ったら、進入禁止だったのでちょっとショック!といっても、大した高さじゃないんだけど・・・
天文科学館の案内が道路に出てたので、この科学館は城跡にあるものだからとその通りに行ったら、城跡の麓にある図書館の駐車場に着いたので、ここに停めてもいいのかな?と思って車を停めました。

そこから城跡である中村山公園へと歩いていくと天文科学館があります。城跡にこれが建てられたため、遺構が壊されちゃいました。
他の曲輪跡も遊具のある公園になっていて、遺構はありません。ただ、高台で眺めが良いってぐらいです。
櫓台だったような一番高い所に東屋があるのですが、その端っこに城跡の標柱がありました。ただし、字がはげているため、すぐ近くでよーく見ると、「中村山砦」とやっと読めるというぐらいだったので、せっかくお城を示すものがあったのにちょっと残念でした。

仲氏館  尾鷲市林町字殿元
常聲寺の東側が館跡です。周辺は道が狭く、駐車場もないため、少し離れた場所に車を停めて、歩いてお寺へ行きました。こんなに道がせせこましいと車をどうするかで頭が痛いです。
やっと置き場所を見つけてお寺へ行ったら、櫓っぽい鐘楼が目に飛び込んできたので、どうせ遺構は何もないんだから少しでも楽しませてくれてありがたい♪と思いました。

次は熊野市のお城へ続く~

紀伊のお城(紀北町)

2007年01月23日 | お城(三重)

昨日書いた通り、この間の土日は紀伊のお城へ行ってきました。紀伊といっても、三重県側だけです。
まずは、長島城へ~

長島城  紀北町紀伊長島区長島
登り口がよく分からなかったので、地元の方に尋ねたら、長島神社から登れると教えて頂きました。
すぐに長島神社へ向かったけど、神社の中は月極駐車場ばかりで停められない。付近は道も狭いしどうしよう~とうろちょろしていたら、、港沿いに無料駐車場があったので、そこへ停めて神社へ行きました。

すると、さっき車で通った時は閑散としていたのに、今度は人だかり。どうもハイキングコースになっているようで、沢山のハイカーが訪れていました。長島神社の由緒書きなどを撮っていたら、ハイカーたちが神社から出て行ったので、神社や神社にある大木を撮影して登る事に。

登り始めて少し行ったらオジサマとすれ違ったので挨拶し、お城へ行く道はこれで間違いないか確認しました。すると、オジサマが途中の1本道になる所まで案内して下さるとのことで、下山中だったのに申し訳ないと思いながらもお言葉に甘えて付いていきました。そんなに難しい道ではないんだけど、途中、階段がある時は真っ直ぐ行かずに階段を上がるのがポイントかな?

山の中腹に愛宕山大権現が祀ってあるため、そこまではコンクリートで横幅もある立派な道になっています。登り始めて7~8分で愛宕山大権現に着きました。社の前にはオバサマ方が集まっていて、食べ物や飲み物を広げていました。息を切らしながら挨拶をしたら、「お茶を飲んでいかない?」とか、「これ食べてって」と声を掛けてくださったのですが、まだまだ登らなくちゃいけないのでお礼を述べて、遠慮しておきました。

そこから先は、社の背後の道を行きますが、遊歩道が整備されていて、大権現から10分も登れば山頂で主郭となります。
主郭には説明板と城址碑があり、西側の一段高いところに携帯の通信施設などがあります。この高さが変わる付近に竪堀が落ちています。そこから西へ行くと、堀切があり、藪だらけの削平を越えた西側には空掘がありました。
そこそこ楽しめるお城で、一通り見て下山したら、途中で先程、お城への道を案内してくださったオジサマが水を運んで登っていくところとすれ違いました。おじさま、あんな重いもの持って山をまた登るなんて、すごいタフだなぁとびっくりしました。

後山城  紀北町海山区小山浦
地図で調べたら、長泉寺の横が城跡となっていたので、まずはお寺を探す事に(といっても、ナビに案内してもらうんだけど)。
お寺のすぐ横には小山浦集会所があり、この間に登リ口がありました。ちなみにお寺の虎口付近の石垣がちょっとカッコイイというか、何でここにこうやって石垣作ったんだろう?って感じにあります。

登り口に、「環境防災林整備事業」と書かれた看板があり、それに周辺の案内図やお城についての説明が書いてありました。
その案内板から左へ真っ直ぐ歩いていくと、橋を渡りながら左手を見たら、木に「後山城跡」の札がついていたので、まだ歩き出してすぐだし、全然登ってないのに何でこんな所にこんな札があるんだ?と思ったら、今度は橋を渡った正面に「うしろ山城跡」と刻まれた石があり、もしやここが城跡なの?とびっくり!

それならばと周囲を見渡すと、渡った橋の下には石垣が積まれているし、橋を渡った左手へ行くとこちらにも石垣が沢山見えます。更に奥へ進むと水門もあり、こういうお城は初めて見た!と急に「スッゴーイ!」と声をあげながら感動してました。これらの石垣の上は曲輪になっているのですが、あまりに酷い藪で何も分かりません。うーん、もうちょっと草を刈ってくれたらいいのにぃ!と思いながら、大満足して次のお城へ~
つづく・・・

お城がビタミン剤

2007年01月22日 | お城(三重)

この土日は、紀伊長島~熊野のお城へ行ってきました。

今年に入ってから、かなり精神的にまいることが続き、ストレスから微熱が続くようになり、夜もあまり眠れなくなってしまったので、ちょっと気分転換も兼ねて行って来たのですが、随分とリフレッシュできてよかったです。

お城へ行くと山登りをすることが多いので、その間はしんどいからあれこれ考え事をせず、ゼイゼイ息を切らしながら登る事だけに専念できるのもいいし、適度に運動するのもストレス発散にいいですね。
更に、大好きなお城に来れたという満足感を味わえるし、遺構を見て感動もできる。
その上、山上からの眺望が良くて爽やかな気分になれるし、今回は海が見えたので更に気分が晴れやかというか大らかな気分になれました。

それにしても、私ってお城がなかったら、ストレス解消に何をしてたんだろう?と不思議になったり、お城のおかげでこうやって元気でいられるんだなぁと思いました。

今回行ったお城は、遺構としてはイマイチなお城ばかりだったけど、山に登って疲れた後は、久しぶりにぐっすり眠れたし、微熱もやっとひいてきたので、随分と元気になったというか元気をもらいました。

この10日間くらい、自分から情報を発する事はしても、情報がドンドン入るのはちょっと疲れてきていたので、適当に制御していました。
どうもその間に、私が発信したメールが届いていなかったり、逆に受け取れなくなってしまうといった現象が起きていて、友人との待ち合わせであれ?という大ボケなことがあったりしたけれど、多分私の健康状態と同様に元に戻ってるハズです。

ストレスは適度にないとかえってダメと言うけれど、溜め込まないように発散方法を見つけるなどして皆さんも気をつけてくださいね。

アルコールパッチテスト

2007年01月19日 | その他

昨日、アルコールパッチテストというものをやった。
テスト方法は、アルコール濃度ほぼ100%のエチルアルコールを絆創膏に垂らし、それを皮膚に貼り付ける。
そして、7分たったら絆創膏を剥がしてみる。その時に既に皮膚が若干でも赤くなっていれば(絆創膏を貼った皮膚とその周囲の皮膚の色と見比べて、色が少し濃い感じかな?)、Ⅰ型と言って全く飲めないタイプらしい。
こういう人は、アルコールを分解するアセトアルデヒド脱水素酵素働2型酵素活性が働かないため、少量のアルコールで頭痛、吐き気などがし、多量飲むとショック状態になったり、急性アルコール中毒になる危険性が高いらしい。日本人の約1割がこのタイプだとか。

次に、先ほど絆創膏を剥がしてから、今度は10分間、そのまま放置する。この時に皮膚が赤くなった人はⅡ型と言って、本当は飲めないタイプらしい。アセトアルデヒド脱水素酵素働2型酵素活性が少ししか働かないため、赤くなりながら飲んでる人はこれに当たるようだ。こういう人は肝臓を壊しやすいので注意が必要。日本人の3~4割がこのタイプだとか。

あとは、全く皮膚に変化が無かった人。こういう人は飲めるタイプ。ガンガン飲めちゃうために、アルコール性肝疾患やアルコール依存症になりやすいので、休肝日が必要かも?日本人の5~6割がこのタイプだとか。

私は全くお酒が飲めなくて、ビール一口飲んだだけで全身真っ赤になり、顔が熱くなったりし、ちょっと頭痛や動悸がしたり、クラクラしてきてしまう。
無理してもう少し飲み続けると、気持ち悪くなるので、お酒を美味しいと思ったこともなく、お酒を飲んで楽しいと思ったこともなくて、ハッキリ言って嫌いだったりする。特に大勢での飲み会は最悪で、とても苦手だから、飲み会があると思うと憂鬱なのだ。

だから、テストする前からⅠ型だろうな?と思ったけど、確認したかったのでチャレンジ。結果は、やはり全く飲めないタイプだった。だから、鍛えようと努力しても、体質的にダメなのだ。ということで、これからはお酒を強要されても、無理せずに飲まないでおこうと思ったのだった。ちなみに両親も兄弟も飲めない(もしかして飲まない?)から、遺伝だろうなぁ。

でも、血流が良くなりそうだから、たまには1口ぐらい飲むのも健康にいいのかも?

奈良・京都のお城へ(奈良市)

2007年01月17日 | お城(関西)

山城国からちょびっと移動して、大和・奈良市内のお城へ~
移動途中、久しぶりに見た平城宮に目が釘付け。ついつい朱雀門の写真を撮っちゃいました。

超昇寺城  奈良市佐紀西町字古所
すぐ近くに佐紀神社が2つあることを知らず、佐紀城へ来たつもりでいたけど、どうにも神社に土塁や空掘が見当たらない。あれ?と思ってブラブラしていて、神社の位置が池に対して違うと分かり、そうしたら今居る場所は、超昇寺城がある方の佐紀神社?ってことで、お寺の北側へ行ってみました。

佐紀神社の北側の竹林の中に入っていくと、空掘が見えて来ます。結構深くて、こんな街中にしっかり残っているのにびっくり!ただ、竹がかなり密集しているため、写真だとよく分からないです。主郭の周囲は空堀が巡り、副郭にも空堀が巡っています。また、副郭の西側は土橋を通ると民家の方へ出られます。

佐紀城  奈良市佐紀西町字古所
今度は池の東側の佐紀神社へ。それにしてもこんなすぐ近くに同じ名前の神社があると紛らわしいぃ!
このお城は佐紀神社に土塁が残り、その横に空掘があって、幼稚園と神社の間の道路からこの空堀がよく見えます。神社の東側は副郭のようですが、特に何もありませんでした。

多聞城  奈良市多聞町
中学校へ入ってすぐに城址碑があり、近くに墓地もあります。車で学校の上まで上がると東側へ渡る橋がありますが、この下の道路は堀切でした。学校の西側の山には土塁と空堀が残っているようですが、何もないと思い込んでいたため確認しませんでした。また、佐保川は外堀の役目を果たしていたようです。

中学校はかなり高台で、正面に東大寺の大仏殿や若草山が見えます。その若草山に向かってカメラを構える人が数人。しかも段々人が増えてくる・・・もしかして山焼き?と思うも、寒かったので車に乗っていたら、その間にさすらいのプー太郎さんが小冊子を買ってきてくれました。どうもありがとう。学校の事務所に申し出ると、多聞城の小冊子が購入できたようです。

チョット早かったけど、この日はこれで終了にしました。
帰りに牧場のソフトクリームを食べようと寄ったら店は既に閉まっていて残念。こんなに早く帰るのか?ということで、個人的に興味がある、山城国の国分寺(恭仁宮)へ寄ってもらいました。ここの七重塔だかの礎石はすごく大きくてびっくりしました。
これでもまだ早かったけど、帰るのに時間がかかるということもあり、解散としました。

それでも10城も行けて、しかも見応えたっぷりの山城も味わえてとても楽しかったです。ご一緒してくださった御三方、どうもありがとうございます。

奈良・京都のお城へ(木津・山城町)

2007年01月16日 | お城(関西)

13日の巡城組活動報告の続きです♪
京都と奈良の境をうろちょろしながら、鹿背山城へ向かいました。途中、昼ごはんを食べたくても、店も無ければコンビニもない!お腹空いた~、このまま山城登らなくちゃいけないの?と半分諦めていたら、鹿背山城へあと5分ぐらいという所でやっとコンビニ1つ発見し、御飯にありつけることに。。。良かった!

鹿背山城  木津町鹿背山字鹿曲田
このお城は南山城地方では最大級の城だそうです。お寺の手前に城址碑がありました。お寺から真っ直ぐ登るのが大手道です。さすらいのプー太郎さんは2回来たことがあるとのことで、西念寺の方に声を掛けるとパンフが貰えるという情報を聞き、どなたかみえないか声を掛けてみたけれども返事はなし。不在だったため残念ながらもらえませんでした。(-_-;)

パンフを諦め歩き出すと、サブコースなるものもあって、サブがどこをどう歩くのか分からなかったので、とりあえず主郭を目指しました。すると、左手に突然竪堀が正面に見えます。周囲は竹薮だけど、竪堀の所だけ竹が伐採されています。
このお城は一城別郭になっていて、3つの郭が独立してあります。案内に、1の主郭、2の主郭、3の主郭とあるので、虎口から右手の2・3の主郭を先に見に行きました。3郭の東側には畝状竪堀があるようです。

1の主郭は枡形虎口になっており、土塁も残っています。その北側が水の手となり、1郭から南西へ行くと畝状竪堀が見えます。その先に土橋もあります。
城跡には要所に案内表示があるのですが、かなり広い城域なので、回っているうちに何が何だか良く分からなくなってしまいました。

木津城  木津町木津字片山
周囲は都市基盤整備公団による開発で、道路造成も伴い、この山の城跡付近だけが奇跡的に残っているといった感じです。適当に入れる場所を探して直登しました。

山頂にある単郭方形のお城ですが、かなり広い郭でびっくり。郭の周囲を土塁が巡り、その北や南には空堀があります。そして、北東と西、南側に土橋があり、北西側から北へ進むと左手に空掘があり、その先にトレンチ溝がありました。しっかり遺構が残っていますが、今後、公園整備する予定だと木津町の方が言ってたので、このままちゃんと残るのかな?とも思うけど、どういう整備の仕方をするのかなぁ?ちょっと心配。

上狛環濠  山城町大里
国道24号「上狛」信号を北へと県道70号に入ってすぐに環濠が見えます。その左手に説明板がありました。集落内には井戸も残っているようです。

次は奈良市内のお城に続く~

奈良・京都のお城へ(笠置と柳生)

2007年01月15日 | お城(関西)

先週の土曜日(13日)は、今年初めてのお城巡りで、久しぶりの巡城組活動だった。2ヶ月連続、活動日が雨で流れてしまったためで、3度目の正直で11月から行く予定にしていた奈良・京都のお城へやっと行けた♪

笠置城  笠置町笠置山
笠置寺へと上がって行く道がところどころとても狭く、すれ違いができない。そんな場所で運悪く対向車と出会ってしまった。なかなかこの山道は厳しい!
道路の終点に駐車場があるのだけど、有料(500円)と書いてあったが誰もいない。今日は無料みたいだ。ちょっとラッキーと思いながらお寺へ。

ちなみに、上がってくる途中に、一ノ木戸があった。

笠置寺は、入山・拝観料として300円かかる。普段、お金など必要ないお城めぐりをしているので、たまに有料のところへ来ると、エッ?お金がいるの??と思ってしまう私だった。

笠置寺は以前来たことがあり、巨石などで随分楽しんだ覚えがある。その頃はここが城跡だったなんて全く知らなかったから、お城として見たのは今回が初めて。
1周800mのコースがあり、磨崖仏や巨石などを見て回れるが、そのコースの中に二の丸や行在所があるというので、コース通りに歩く事にした。

二の丸からコースを外れてともさんが本丸と見立てた行在所へ行ってしまった。どうも二の丸から見ると一段高い本丸と見立てた場所にそそられたようだ。ついつい私もひろしさんも付いていってしまったら、行在所の中に居る事になってしまった。それに最初気付かずに、中側から写真を撮っていた。

この後、さすらいのプー太郎さんとも合流し、柳生へ~

柳生古城  奈良市柳生下町字古城
登城口には案内板があり、階段から登る。久しぶりの山なので、少し登るだけで息があがってしまった。正月、家で過ごしてばかりいたせいだ。ゼイゼイしながら6分程登ると、左手に堀切が見えて急に元気になった。この堀の堀底を歩いたらクランク状に折れ曲がっていた。

更に北にも堀切があり、その北側に主郭があった。主郭には東屋があり、北側には一段高い櫓台のような部分があり、そこに剱塚があった。更に北へ行くと堀切が2本あり、全体的にとても見やすくて分かりやすいお城だったので満足だった。

柳生陣屋  奈良市柳生町
史跡公園になっていて、「柳生城跡」と「柳生陣屋跡」の2つの石碑があった。一体どうして2つも一緒に置いたんだろう?しかも片方は柳生城跡なんていいんだろうか?
石垣や井戸もあって見晴らしが良いなぁと写真を撮っている間、ひろしさんは犬の散歩に来た人と、犬について盛り上がっていた。

柳生城  奈良市柳生町
芳徳寺の山門手前(寺の南側)に城址碑があった。そこから右手(東)へ行くと「成美学寮」があるが、この敷地に入ってすぐ右手に登城口がある。

登城道は整備され、下山時に分かったのだけど、山の端側の道を真っ直ぐ行くとそのまま主郭へ行ける。でも、そんな事知らない私達は、途中から山の中へ行く道に入った。でも、案外こっちに来たほうが正解かも?こちらからだと、本丸北側の堀切が見られ、そこから時計回りに本丸の下を歩いていくと、茶畑だった所を経由して、本丸南側の水道施設の下にある堀切も見られた。ここから西側下方には井戸もあるようだけど、パスしてしまった。山中、当然木々や藪の中を歩いていたのだが、本丸に着いたらビックリ仰天!ナント木々が伐採され、視界が開けていたのだ。どうも「成美学園」の方たちが整備してくれているようだ。おかげで、と~っても気分が良かった。

まだ続く~

小牧山城に注目!

2007年01月12日 | お城(愛知)

掲示板にも書いたけど、今朝新聞を読んでいて目に飛び込んできたのが、小牧山城に城下町が整備されていたという記事。最近、小牧山城に関して色んな発見があるから、注目すべきスポットかも?

今回は、小牧山の南麓付近にて、柱穴や水路、井戸などの遺構が出て、茶碗や皿などが出土したそうだ。これらは、永禄~江戸初期の頃のものと思われ、小牧山城を築いた際に整備された城下町の遺構とのことで、信長が在城した4年間に整備されていた可能性も高いみたい。

昨年だったか、小牧山城で信長時代と思われる石垣も出てきたみたいで、信長は既に総石垣のお城を築いていたかも・・・なんて説もあるらしい。小牧山城の様子が解明できたら、戦国期のお城についても定説が覆ったり、新たな発見がある可能性もあるから楽しみだなぁ。

今回の城下町についての現地説明会が、1月13日(土) 14:00~15:00に行われます。

私は、今年初めてのお城巡り(城初めというのだろうか?)へ出かける予定が入っているので行けないけど、後から資料取り寄せてみようかなぁ?

詳細は、こちらをご覧下さいね。

新三河物語

2007年01月11日 | その他

今年から中日新聞朝刊で、宮城谷昌光さんの「『新三河物語』の連載小説が始まった。宮城谷さんといえば蒲郡出身なので、地元の歴史小説を書きたかったようである。毎日、少しずつ読む新聞小説。ちょっと物足りない量だけど、ちょっと楽しみにしている。

基本的には、大久保彦左衛門忠教が書いた『三河物語』を、宮城谷さんの解釈で書き下した物語といった感じ。宮城谷さんといえば中国の歴史書が有名だけど、既に日本の歴史小説第一弾として野田城主・菅沼新八郎定則を主役とした『風は山河より』を昨年出している。宮城谷さん曰く、これが東三河版で、『新三河物語』が西三河版。両方あわせると、三河の戦国時代を描けることになるということでした。
でも、まだ私は『風は山河より』を読んでないけど・・・(^^ゞ

宮城谷さんは他にも、三河のお城をモチーフに『古城の風景』を2冊出していて、1が菅沼・奥平の城で東三河、2が松平の城で西三河となっている。これ、1を読んだんだけど、お城マニアにはちょっと物足りないかも?
あちこちのお城が出てくるんだけど、宮城谷さんは雨の日でもお城へ出かけ、タクシーから遠望でお城があった場所の雰囲気を味わい、それでおしまいってことも多く、全然足を城跡に踏み入れて無いじゃん!って思うことが多い。
ちゃんと足で登ったりしてるのは少ないし、いつも蒲プリに泊まってのほほーんと過ごしている雰囲気がする。

でも、別に城跡の遺構について知りたい訳じゃないんだから、どういう場所にあったのか、立地条件や他のお城との位置関係、そこからの景色などが大まかに分かって、雰囲気を掴めばいいので、車窓からばかりだっていいんだろうけどね。

そうは思っても、私としては正直『古城の風景』は物足りなかったので、『新三河物語』は期待外れにならないようにお願いしたいものです。

まだ、読んでない人は、まだ桶狭間合戦で松平元康(家康)が大高城に兵糧を入れ、丸根砦を攻め落としたところです。始まったばかりなので、読んでみてはいかが?