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倭城めぐり(蔚山倭城)

2008年12月26日 | お城(その他)

倭城めぐり2日目は釜山から東の方へ行った。まずは蔚山倭城(ウルサンウェソン)へ。

前日に引き続き、同じ運転手とガイドさんに連れてってもらった。蔚山倭城は大丈夫!とガイドさんは自信満々。その通り、サクサクと到着。


蔚山倭城は鶴城公園になっている。前日の子城台でも見かけたが、公園で運動をしている人が沢山居る上に、ちょっとした運動器具が置いてある。大きなフラフープもあった。

公園内を歩くと、あちこちに石垣が見られる。本丸には枡形虎口もあった。


特に本丸南側斜面の石垣が立派だった。



蔚山倭城は北方進出の拠点として、それまで最北端にあった西生浦倭城より更に北に慶長2年(1597年)11月築城を開始した。12月、明・朝鮮連合軍に城を包囲されたが、小早川秀秋、毛利秀元、黒田長政の救援が明・朝鮮連合軍を破った。
翌慶長3年(1598年)9月末~10月初頭にかけて、明・朝鮮連合軍が各地の倭城を攻略しようと東路軍、中路軍、西路軍、水軍に分かれて総攻撃をしかけた。このうち、東路軍が加藤清正が守る蔚山倭城を攻めたが撃退した。

倭城めぐり(泗川倭城)

2008年12月25日 | お城(その他)

順天倭城を後にして、次は泗川倭城(サチョンウェソン)へ。ガイドさんがあの山だと思うと言うも、近くまで行ったらどうも違うらしい。近所の人に聞いてくると車を降りたが、人が全然居なくて聞けなかったと戻ってきた。もう既に日が暮れかけていて、気が気でない私。持参した資料や地図で、朝明軍塚の脇を通ることは分かるけど、それがどこかすら分からない。適当に他の道へ入ったら当たってたみたいで、無事到着。

ガイドさんが悠長に「朝明軍塚を見ますか?」と聞いてきたが、私はお城見たさにここまで来たんだからと、「先にお城へ行って下さい」と頼んだ。

城跡の主要部は現在公園整備され、桜で有名らしい。島津氏が桜を寄贈したとのこと。広い駐車場があり、城址碑のまん前に屋台が出ていた。公園内には野外公演場もある。
泗川倭城はもともと北・西・南が海に面していたのだが、現在埋め立てが進み、西側だけが海に面している。
駐車場に着いたのが既に16:40。日没まで時間との戦いとなったので、小走りで見た。

説明板によると、姫路城の城門を参考に建てたらしい。


天守台
説明板は韓国語と英語で書かれている。韓国語は分からないので英語で何とか解読を試みるのだが、ちょこちょこ間違いがあるのに気付く。天守閣のことは、「Tensyuku」と書かれていた。


堀跡  公園の外に土塁や堀跡がある。ただ、あちこち畑になっているので入り込んで見ることができなかった。


<泗川の戦い>
慶長3年(1598年)9月末~10月初頭にかけて、明・朝鮮連合軍が順天倭城、泗川倭城、蔚山倭城を同時に攻めた。泗川倭城は明の武将である董一元が指揮し数万の軍勢で攻撃したが、島津軍率いる7000の兵力に撃退された。


もうちょっとゆっくり見たかったけど、暗くなってきてしまったので諦めた。帰り際に朝明軍塚も見て、釜山へ戻った。帰りは渋滞にハマることもなくスイスイ。3時間弱でホテルに着いた。
途中、休憩のため高速のドライブイン(日本で言うPAやSA)に幾つか寄ったのだが、駐車場に工具等を売ってるお店が出ていたり、大きな音で音楽を流すCDショップがあるのが不思議だった。

倭城めぐり(順天倭城)

2008年12月24日 | お城(その他)

釜山中心部を8時過ぎに離れたと言うのに、順天倭城の駐車場に着いたのは14時。普通なら3時間もあれば行けるのに。ロスタイムが大きく、昼食をとる時間すらもったいなかったので、高速のドライブインでトイレ休憩した際に、適当にパンなどを買ってすませた。

今回、ご一緒してくださったガイドさんは81歳と高齢の方だったが、とても元気で倭城へも上までとか途中まで登っていた。倭城の住所は私から連絡しておいたが、できたらお城の場所が分かる人をガイドにと希望を出していたら、随分前にJR九州が倭城めぐりツアーを企画した際、ガイドをしたことがある人が来てくれたようだ。一応、倭城へ行ったことがあり、お城とはどういうものかを知っている人なので良かったけど、その頃と道路事情が随分変わっているため、倭城の近くで人に聞いたりしてたどり着くことができた。

倭城とは文禄・慶長の役の際、日本軍が朝鮮半島の南海岸に築いた日本式のお城のことである。韓国では文禄の役のことを「壬申倭乱(イムジンウェラン)」、慶長の役のことを「丁酉倭乱(チョンユウェラン)」と言い、倭城は「ウェソン」と言う。

順天倭城(スンチョンウェソン)は倭城の中でも最西端に位置し、宇喜多秀家、藤堂高虎らが築城した。西側以外の三方が海に囲まれている。
現在、城跡はかなり復元整備され、石垣が綺麗に積みなおされていた。

本城と外郭の間の入り江(だと思う)。遠くに外郭ラインも見える。





ここから見る石垣がとてもカッコいい!


天守台・・・三重の天守が建っていたようだ。


この後、外郭も歩こうとしたが、畑など私有地になっているので遠くから眺めるだけにした。

<順天倭城の戦い>
慶長3年(1598年)9月末~10月初頭にかけて、明・朝鮮連合軍が各地の倭城を攻略しようと総攻撃をしかけ、順天倭城も陸・海両方から攻めたが、日本軍に撃退された。ところが、同年8月に既に秀吉は死去しており、この戦いの後に撤退命令を受けた小西行長は明・朝鮮連合軍と和議を結んだ。ところが、イザ撤退と言う時に明・朝鮮連合軍は海上封鎖をし、撤退を拒んで包囲した。11月、救援に向かった島津義弘、宗義智、立花宗茂らは露梁海峡で明・朝鮮水軍と戦い、その間に小西らは脱出に成功した。

倭城めぐり(釜山子城)

2008年12月23日 | その他

今月上旬に倭城へ行ってきました。釜山に滞在したのですが、遠方は自分で行けそうにないので、旅行社で運転手とガイドさんを手配しました。
倭城めぐり初日、まずは釜山子城(子城台・釜山鎮支城)へ。ここは地下鉄の駅から歩いて行けるところなので、後日自分で行こうと思っていたのですが、ガイドさんが近くだから寄って行きませんか?と勧めてきたので、それならばと寄る事に。

ここは公園になっていてお気軽に見て回れます。

永嘉台
朝鮮通信使を送る際、ここで安全祈願したようです。


復元された東門


石垣があちこちに見られます。


説明板
韓国語と英語の説明は細かく書かれているのに、日本語と中国語はとても簡単に書かれています。


かつては眼下が海岸線だったのですが、現在埋め立てられ、海岸線は遠くなっています。

この後、最初の目的地、晋州へ向かったのですが、高速が事故のため大渋滞で全然動かず。途中、閉鎖区間もあり、高速をおりて下道へ。車が殺到し、これまた大渋滞。下道を走ってやっと高速にのったと思ったらここも渋滞。全然目的地に辿り着けないまま昼を過ぎ、もうどこにも行けないかも?と悲観的に。言葉が通じないので、どうなっているのかサッパリ分からず車で諦めて座っているのみ。この日は、晋州城、泗川倭城、順天倭城へ行く予定だったのですが、3つは絶対に無理な時間になったので、晋州城はなくなく諦めることにしました。

この高速での事故、早朝5:30頃に起きたのでした。日本ならニュースでやるし、高速入口に表示もされるので気付いただろうに、ガイドさんは何も書いてなかったと言っていました。分かっていたなら、翌日も同じ運転手とガイドさんをお願いしていたので、入れ替えすればよかったのに。限られた貴重な時間だったので、この渋滞で3~4時間無駄にしたのは大きかったです。ガックリ!

会津ツアー・桧原城

2008年12月03日 | お城(北海道・東北)

ヤブレンジャー会津ツアーでは、猪苗代城、鶴峯城、戸ノ口原古戦場、飯盛山城、小田山城、母成峠、桧原城、鹿垣、柏木城を見ました。
その中で、一番見応えがあったのが、桧原城!伊達政宗が築城したとのことで、横堀があちこちに巡っていて素晴らしい。伊達氏の城でこんなに複雑なのは珍しいらしい。


麓には居館もあり、目の前の桧原湖に土塁や堀の一部が埋まっているようだ。
ここも、土塁だったとか。


桧原湖から桧原城を見ると、紅葉が綺麗でした。


会津ツアー・母成峠

2008年12月02日 | お城(北海道・東北)

ヤブレンジャーとの会津ツアーで、母成峠へ行きました。
ここは戊辰の役の激戦地だったようです。戊辰の役での戦場を良く知らない私は、連れてってもらって初めて知りました。
古戦場に石碑が建っています。紅葉が綺麗だったこともあり、観光客が訪れていました。


ヤブレンジャーのお目当てはこの古戦場ではなく、防塁とのこと。旧道から少し山へ入ると、道の両側にありました。こういうものがあるんだーと感心しきり。
もともとここには上杉景勝が防塁を築いたようで、戊辰の役の際には会津藩が改修したようです。また、砲台跡もあるらしい。でも砲台跡はどこにあるのか誰も知らず、ワカレンジャー殿は山頂だろうと予想していました。

旧道東側の防塁を確認していたら、上へと土塁が続いているのを発見。

どこまであるんだろう?と上へと登っていったら山頂から今度は反対側の山麓へと更に続いていた。山頂まで登ったので周辺を見ていたら、砲台跡発見。ワカレンジャー殿が予想したとおりだ!と思ったら、ワカレンジャーの姿がみえない。どこへ行っちゃったんだろう?と呼んだり、電話をかけたもののつかまらない。
もしかして、防塁沿いにドンドン進んで山の反対側へ行っちゃったのかも?ということで、先に下山したつもりが・・・既にワカレンジャーは下山していた。ということで、砲台跡は見てないとか・・・残念!

ちなみに、防塁か?とずっと続いていた竪土塁は、防火帯らしい。遺構でなくて、これまた残念でした。


飯盛山へリベンジ

2008年12月01日 | お城(北海道・東北)

ヤブレンジャーとの会津ツアーで、飯盛山から会津若松城を見忘れてしまったため、2週後にまた会津へ行きました。
名古屋からだと福島はめちゃ遠いですが、関東からだと案外お気軽に行けるのがいいです。

今度はお墓もゆっくり見て、会津若松城も見たのですが・・・
お城の正面手前にアンテナが立っていて、めちゃ邪魔!!


飯盛山は観光客が沢山訪れる場所ですが、そのうちの大半はここから若松城を見たいのでは?なのにアンテナに邪魔されるとは・・・かなり幻滅!もうちょっとズラした位置に建てるとかできなかったなのでしょうか?ショックで、わざわざ再訪するまでもなかったなぁと思いつつも、見てみるまでは分からなかったので仕方ありません。一応、見たいと思っていたものが見られたので、満足しなくては。

でも、藪藪の飯盛山城までは行く気にはなれず、今回は普通の人になって、中腹までで下山しました。

それにしても、こんなことならヤブレンジャーとの会津ツアーで行った小田山城から見えた若松城の方が距離も近いし、視界をさえぎるものもなくてよかったです。


ちなみに、小田山城には正面から見るとカッコいい冠木門と塀が復元されています。裏からは見ないほうがいいかも?


ただそれ以外は、やたらダラダラ長い道を登っても、藪ではっきり見えない曲輪が沢山あったり、これが堀切?といったものがある程度で、遺構としてはイマイチかも?