にこにこ堂「ちえまる本舗!」

編み編み大好きなハマのおばはん。闘病の日々ですが、明るい気持ちで頑張っています!!負けないぞ!!

療養費支給のお知らせ!

2010-08-25 | 脳幹出血

今日、(待ちに待った?)区役所から嬉しいお知らせが届きました

6月に新しい装具を作ってもらった時に支払った金額の一部が

戻ってくるそうです

支払った額は66000円でした。区役所の国民健康保険課で

還付の手続きをしてから審査があり、2ヶ月半くらいかかりましたが、

こんなに戻ってきてくれるとは感激です

 

体の大切な一部となっている装具(様)です。

毎日しっかりと働いてくれて心から感謝感謝です


療養費(装具)払い戻し手続きⅠ

2010-07-13 | 脳幹出血

今日は、いつもお世話になっている脳外科へ、主治医の診断書を受け取りに行きました。

先日作っていただいた「装具」が必要だという診断書です。

内容文は、

「上記の者は(右片麻痺)により、外来加療中のもので、装具療法として

(短下肢装具)の必要を認めます。」

というものです。

装具屋さんより発行して頂いた、領収書とこの診断書を持って、

区役所の「国民保健課」へ提出すれば、療養費払い戻しの手続き完了です~

 

今日は外来の診察がない日のようで、待合室はガラガラでした。

受付の貼り紙を見ると、「今日は手術の日」となっていました。なるほど~~~。

いつもなら大勢の患者さんで埋まっているのに、今日はまるで違う場所のように

静まり返っていました。

気温が低いけれど、蒸し暑さは変わらないので、冷房の効いている病院が

ことのほか心地よくて、ちょっこし休んでから帰りたかったちえまるでした


倒れてから10年経ちました。

2009-06-25 | 脳幹出血

昨日は、2ヶ月に1回のQちゃんの通院日でした。

でも、あいにくが激しく降っていたので、私一人で行って来ました。

病院は我が家から徒歩5分というとても有難い場所にあるので、診察券を出して一度帰ってきました。

道すがら、ふと気がついたのですが、Qちゃんが脳幹出血で倒れたのが、なんと10年前のこの日、1999年の6月24日、午後2時頃だったのです。

同じ日に病院へ行くなんて、とても不思議な気持ちです。

しかもちょうど10年という記念すべき日に。

毎日毎日この道をどんな思いで歩いていたか。

 

当時鎌倉の老人病院でヘルパーをしていた私は、ある日は遅番で午前中に、

またある日は早番で夕方に必ず毎日様子を見に行きました。

ICUで一所懸命頑張っているきゅうちゃんの様子を見るまで、本当に怖かったです。

 

先生や看護士さんの一言一言に一喜一憂し、その日一日の過ごし方もそれなりに

変わりました。

どんなに小さなことでも変化があると嬉しくて、それを日記に書いたりして夜遅くまで

呑んだりしてたなあ~。

暑い夏の間でも疲れるということを知らず、よく元気で毎日通っていたものだと思います。

この年の夏は猛暑だったもの。

10年前はやっぱり若かったんだね(笑)

倒れてから10年経った今、何事もなく元気で平和に暮らしていけていることに

心から感謝しています。

この10年の間、本当にいろいろありました。

そして数え切れないさまざまなことを勉強させてもらいました。

びっくりするほどの回復はありませんが、少しずつ、少しずつよい方向へ向かっているのではないでしょうか。

決して諦めてはいけないと思っています。

これからも、10年前の事を大切に胸に刻みながら力を合わせて

無理をせず、のんびり歩いていこうと思います。

 

 


粗大ゴミ

2008-06-12 | 脳幹出血

この間壊れてしまった電子レンジ。

すぐに横浜市の粗大ゴミ回収へ申し込みをしました。

 

大変有難いことに、「ごみ処理手数料の減免制度」があり、年に4個までは無料で回収してくださるのです。

今回の電子レンジは粗大ゴミ処理手数料が500円です。

障害者手帳に載っている番号を記入し、あらかじめ申し込んでおくと市で審査をし、

確認がとれ次第後日OKメールが届きます。

それから数日後、500円の「粗大ゴミ収集シール」が送られてきますから、そこに氏名を記入し、粗大ゴミ収集日に指定の場所に出せば回収してくださいます。

本当に有難いことです。

ここへ越してくるときも、大変お世話になりました。

電化製品や家具など、4点で3000円相当になっていたはず。

それが無料!!

有難くて涙がちょちょぎれます~~~

 

そしてついに明日が収集日です。

本当にお世話になりました。

たくさんのチン、大変お疲れ様でした!!

 

朝8時までに出してくださいって。

寝坊するといけないから、夜中にこっそり出しに行こう


脳幹出血!!

2007-06-24 | 脳幹出血

リカバリールームのQちゃん

 

 

今日の朝、10時半頃ピンポンが鳴った。

出てみると、3棟のKさんだった。

 

たぶんQちゃんと同じ年か、ちょっと上ではないだろうか・・・

いつも小奇麗にして、とても明るい奥さんだ。

ひょんな事で知り合って、我が家の本「明日も晴れだよ!」を読んでもらった。

読み終わってからすぐに「感動して泣いちゃったわよ」という嬉しいお手紙を戴いたりして、会うたびにいつも私の体のことを心配してくれていた。

 

今日、私を訪ねてくれたのは、選挙の事だったのだが、それよりもびっくりしたのは、昨年の12月にご主人が脳出血で倒れられたそうだ。

出血した所は小脳で、出血がそれほど大きくなかったので、後遺症は残らなかったらしい。

よかったね~~~!!

その日、会社へ出勤したら急に具合が悪くなってうずくまっていたら、同僚がすぐに救急車を呼んでくれたので、それも幸いしたのかもしれないね。

 

一時はどうなることかと思ったけれど、回復が早く、先月から会社に復帰、無理のないように週に3日の出勤だそうだ。

でも、本当によかったよね。

もともと血圧が高く、くすりは飲んでいたそうだが、たまたま「もういいか」と止めていた最中だったそうだ。

やっぱり一度ダメージを受けたら一生のみ続けなければいけないと言う事だ。

うちも、主治医から「お守りだと思って飲んでください」と言われた事がある。

 

本当に軽い脳出血でも、ずっとずっと気をつけていかなければ再発するんだよね。

3回倒れている人もいたし、特に出血より梗塞の方が大変かもしれない。

 

「主人が倒れて初めて、本の中のあなたのことよくわかったような気がするわ」

 

これから、今まで経験してきたことなど、少しでも力になれたらいいな。


脳幹出血なんかに負けないぞ!!

2007-06-07 | 脳幹出血

 

お天気、なんとか一日もった。

 

もうすぐ6月24日がやってくる。

Qちゃんが脳幹出血で倒れて8年が経ち、いよいよ9年目に突入だ

早いなあ・・・

 

8年前の今頃は、なに不自由もなく、のほほんと気楽な生活を送っていた。

ずっと平和で何事もない日々が続くと思っていた。

6月24日を境に私の生活は一変してしまった。

 

急性期を乗り越え、ICUからリカバリーへ移れた時は本当に嬉しかった。

何度かの院内感染にも打ち勝ち、一般病棟へ昇進出来た時も、お義母さんと涙を流して喜んだっけ。

 

七沢のリハビリ病院へ転院し、仕事が休みのたびにQちゃんに会いに行ったとき、何もしてあげられない自分が情けなく、ちょっと凹んでいたりして・・・

そんな時、じっと息子の帰りを待ち望んでいるお義母さんに何度も励まされた。

 

翌年のお正月に一時帰宅で帰ってきたとき、みんなでお寿司をとって食べた。

美味しかった~~

お義母さんの嬉しそうな顔は今でも忘れる事が出来ない。

 

しかし、気の利かない私。

うっかりして装具も杖も調達してなかったので、トイレへ行くとき困ってしまった。

でも、なんとしても私が介助して行って貰わなければと、慣れない介助で何とか行きは

けれど、帰って来るとき、トイレから出て数歩歩いたときにバランスを崩し、私も支えきれなくてテーブルの上に倒れこんでしまったのだ。

その時、私はお皿の上に手を突いたため、手を怪我してしまった。

怖かった~~~~

 

一時帰宅が終わり、七沢に戻ったQちゃんは、よりいっそうリハビリに精を出し、退院に向けて頑張っていた。

退院しても、今までと変わらない生活を続けるのだと、車椅子から畳の上へ降りる訓練もしていた。

なんて立派な人なんだろうと思ったな~。

私だったら、絶対に椅子とテーブルにしてもらって、寝床もベッドにしてもらっちゃうだろうなあ

 

私もQちゃんを迎え入れる準備に追われていたけれど、嬉しい忙しさでいろいろ工夫するのが楽しくて、退院まであっという間だったような気がする。

 

いろいろあったなあ~。

 

みんな頑張ったなあ

 

私にとって、今の方が8年前の6月24日以前の生活よりもずっと充実している。

そして私の生き方が良い方に一変してくれたのだと思っている。

 

何事もなく、穏やかに暮すことが出来る今の生活に感謝感謝

 

 

 

 


みんなのヘルパーさん!

2005-06-24 | 脳幹出血
今日はとても嬉しい日になりました。
お昼前、突然ピンポンが鳴ったので出てみると、以前来ていただいていたヘルパーさんでした。
お義母さんが入院するまでお世話になっていたので、約二年ぶりくらいかな?
「ちょうど近くまで来たのでちょっと寄ってみました。
当時、毎週水曜日に来てくれてたのですが、本当によくしていただいたので、
いつかお礼をしたいとずっと思っていました。
でも、今日、思いがけずそれが実現したのです。
来てもらっている時間帯、入れ替わりで私はパートに出掛けてしまうので、なかなかゆっくりと話すことができませんでした。
ちょこっと顔を合わせたのも、ほんの数回だったように思います。
なのに、まるでしょっちゅう会っているかのようにポンポン会話がはずみ、久しぶりできゅうちゃんと三人、楽しいひとときを過ごすことができました。

当時、お願いしてやっていただいたことは、義母の見守りと、洗濯物の取り込み、居間(というほど広くはないけれどね)のお掃除でしたが、その他に、連絡ノートに義母の様子やきゅうちゃんとの会話など、とても事細かに書いてくださっていたのです。
あと、他の曜日にきてくださっていたヘルパーさんも、在宅介護についてのアドバイスや体験談、私への激励のお言葉などをたくさん書いてくださっていました。
そのノートは全部で三冊。びっちり書いてあります。
一冊目から読み勧めていくうちに、だんだん私のプライベートな感情が多くなっているのに気がつきました。
それでも、ヘルパーさんたちは、とても暖かい言葉を残しておいてくださったのです。
私が一番の利用者だったりして・・・
ノートの中で、言葉のキャッチボールをしているうちに、ヘルパーさんとの強い絆ができたように思います。
このノートを続けていて正解でした。
読み返すたびに、考えさせられる事がたくさん出てくることは勿論ですが、とても優しい気持ちになるんですよね。
どんな介護本よりも重みがあるような気がします。私の宝物です

そして、ヘルパーさんは、利用者だけのヘルパーさんではなく、介護者にとってのヘルパーさんでもあるんだなってつくづく感じました。

一時帰宅の大切さ

2005-04-23 | 脳幹出血
2000年1月20日(木曜日)にきゅうちゃんはリハビリ病院をめでたく退院しました。
途中、1999年の暮れから一週間一時帰宅しました。
もう退院間近かでしたが、なんと言ってもお正月です絶対帰ってこなきゃね

外泊はいつでもOKなので、それまでにも何度か「帰っておいで」と勧めましたが、きゅうちゃんは気を遣ってか、一度も帰ってきませんでした。
でも、さすがに今回はすんなりと外泊する気になってくれてよかったよかった
お義母さんだって、楽しみにしているに違いありません。
一時帰宅は、三人で楽しく新年を迎えることが第一の目的ですが、その他に、きゅうちゃんが実際に生活を始めるために、何が必要か、どの場所にどんな手摺をつけておいたらいいのか確認するためのものですね。むしろそっちの方が大切かもしれません。
ただ、やみくもに手摺をつけても、つかまる高さが合わなかったり、かえって邪魔になってしまうかも・・・その意味でも本当に一時帰宅は必要です。

きゅうちゃんのお友達が七沢まで一緒に迎えに行ってくれたので、本当に助かりましたが、一番肝心なことを忘れていたのです。
それは、「く・る・ま・い・す」
前もってレンタルか区役所の福祉課で借りればよかったのに、全く気が付きませんでした。全くおばか
それも、家の前に到着して、さて車から降りようとしたときに気が付いたもんだから、さあ大変だ
呆れて苦笑いしていたきゅうちゃんは、何とか歩いていこうと、庭のフェンスに手をかけましたが、きゅうちゃんの友達は
「きゅうちゃん、おれにおぶされ」ときゅうちゃんの前に後ろ向きにしゃがみこみました。
きゅうちゃんより小柄でしたが職人さんなので、かなり力もちらくらくときゅうちゃんをオブって家まで連れてきてくれたのでした。
迎えに出たお義母さんは目が点・・・そのあと爆笑、そのあとうれし泣きで、久々の母子、感動のご対面でした。

その晩はみんなで寿司パーティーをしました。
久しぶりでやっと家の中が明るく賑やかになり、手乗り文鳥のきゅーぞーもチュンチュンととても嬉しそうでした。
ところが、またまたアクシデント勃発
きゅうちゃんがトイレへ行きたいと言うので、机の端につかまり、私も身体を支えてゆっくりと立ち上がりました。今考えると全く怖いもの知らずというか、無謀というか、装具無し、杖も無し、私の介助だけで部屋から5メートルくらい離れたトイレまで行っちゃったのですよく足首がなんともなかったと思います。
しかし、帰ってくるとき、問題の五センチ段差を超えた拍子にバランスを崩し、二人一緒に倒れてしまったのです
このとき、麻痺側にいた私はきゅうちゃんの重さに耐え切れず、テーブルの上に乗っていたお皿に手をつき、お皿が割れて怪我をしてしまいました。
でも、きゅうちゃんが無事でよかった痛かったけど・・・

その日から七沢に帰るまでの数日間は車椅子無しで過ごしました。
ちょうどどこも正月休みで、調達することができず、きゅうちゃんにつらい思いをさせてしまいました。危ないので、おしりでいざって移動することにしたのです。
でも、そのおかげでキャスターつき移動板が誕生したのです!怪我の功名かな

この期間中、トイレに取り付ける手摺りの長さや位置を知ることができました。
一時帰宅は、障害を持ってしまった家族を迎え入れるための、大切な準備期間だと思いました。

靴下の履き方

2005-04-21 | 脳幹出血
きゅうちゃんは、七沢で、まず靴下の履き方を教わったそうです。
片手でどうやって履くのかなぁ・・・と不思議に思っていましたが、きゅうちゃんはいとも簡単に、しかもあっという間に履いてしまったのです驚き~

まず、図のように靴下の履き口を自分のほうに向けて置く。
履き口の中に左手を少しずつ少しずつ忍び込ませ、指が隠れるくらいに入ったら、えいやっとばかりに思いっきり手のひらを開く。
広くなった履き口を足の方へ持っていって履かせる。

なるほどね~、こりゃ~すげえや・・・

背が高いと、やっぱりそれに比例して手足も大きいので、靴下の履き口を思い切り広げるとすごい
大きさです
それをガバッと28センチの足に履かせるのですが、早い早い
あっという間に両方の足に靴下を履かせてしまうのです。始めてみた時は目が点になりました


段差で深まった「夫婦の絆」

2005-04-20 | 脳幹出血
まだ、このように手摺がつくまでは、トイレタイムが恐怖でした
きゅうちゃんも、なるべくなら行きたくないと思っていたようです。
きゅうちゃんは必死で右側の淵につかまり、私はきゅうちゃんのズボンの後ろのゴムのところをしっかりつかんで乗り越えていました。
私が手を離したら一気に地獄です
やっと二人の息がぴったり合って、スムーズに便器までたどり着く事ができるようになった頃、市から改修許可がおりて、すぐに手摺の工事をしてもらえたというわけです。約一ヶ月頑張りました(今思い出すと懐かしいなぁ・・・)
住宅改修は、ここへ引っ越してくる前に申請したかったのですが、聞いたら「実際に住んでいないと許可がおりない」と言われ、が~~~ん
でも、人間その気になれば、なんだ~ってできちゃうものなんですね。
この段差のお陰で、自身がついた気がします。
二人で力をあわせて乗り越え、夫婦の絆をますます(?)強いものにしてくれた有難~い段差に、感謝感謝

継続は力なり!言葉のリハビリ

2005-04-20 | 脳幹出血
きゅうちゃんの、数ある後遺症の中に、「構音障害」というやっかい物がおります。
これは、言葉の発音がうまくできないので、本人にとって非常にストレスが大きいのではないかと思います。

七沢のリハビリ病院では、言語訓練の時に
「パン屋さんの前をとおると、ジャムパンやクリームパンのいい匂いがいっぱいした」
と、何度も練習していました。
退院して、我が家に帰ってきてからも、一所懸命練習を続けていました。でも、なかなかよくなりませんでした。

何かを言おうとしても上手く発音できないので(特に「サ行」「タ行」「パ行」)、一発で相手に伝わりにくいのです。
最初の頃、聞き役の私も、きゅうちゃんが何を言っているのかよくわからないので、何度も何度も聞き返すのですが、そのうち何度も何度も同じことを言わせては酷なような気がして、途中でわかった振りをしたことがありました
でも、それは違~う 

「何度も繰り返し喋ること」

これは立派なリハビリなのです
きゅうちゃんも、何度聞き返してくれても全然嫌ではなかったそうです。
むしろ、わからないのにわかった振りをする方が、絶対つらいですよね~。きゅうちゃんに失礼だね
そうとわかってからは、なんの遠慮もなく、こころゆくまで何度も聞き返すことにしました。
その甲斐あってか、五年経った今では、しっかりした発音ができるようになり、ほとんどの言葉を聞き取れるようになりましたばんざ~いっ
でも、日によっては舌がうまくまわらない時もありますが、数えるくらいです。季節の変わり目などにその症状が現れるようですね

でも、本当に「気長にゆっくり、焦らず諦めず」ですね
そう簡単に変わりはしません。何年かかけて少しずつ変わっていくみたいです。
リハビリをしてなかなか成果が表れなくても、やめちゃいけない
無理をしないで、気が乗らないときはやらない。
でも、長く続ける。
何でもそうですね。   

「継続は力なり

家宝の段差スロープ

2005-04-18 | 脳幹出血
今の団地に引っ越してくる前に住んでいた民間アパートは、つくりが古いので障害のある人や、高齢者にとってはかなり過酷な住まいでした
まず、玄関を入ると真っ先に最初の難関が目に飛び込んできます。
靴を脱いで上がるところの高さが、なんと30センチ近くもあるのです
上がりかまち(玄関ステップ台)を置くにしても、狭くてとても問題にならん・・・
お義母さんなどは、元気な頃でさえ、一度坐ってから靴を脱ぎ、身体を回しながら床に足を乗せて、やっと上がっていました。こんな玄関見たことなかった・・・
お次の難関はきわめつけ畳の部屋へ入るところの段差が、これまた驚きの5センチだったのです
こいつだけはなんとかしないとと思い、ホームセンターや介護ショップ、スーパーで、段差スロープを必死で探したのですが、この頃5センチの高さのものは売ってなかったのです。
介護用品カタログを見ても、みんなせいぜい3センチ止まり。ど~して5センチがないんだよぉ~
自分で作るにしても、あの、オリジナルキャスターつき移動台のようなわけにはいきませんよね~、いっくらなんでも・・・

ある日、困った困ったと思いながら、鎌倉駅から仕事先の病院への裏道を歩いていました。
あ、材木屋さんだ・・・そうだここで作ってくれないかなあ
とヒラメイタのです
奥を覗くとそこの若奥さんみたいな人が洗濯物を干していました。
何だかとても話しかけやすい雰囲気の人だったので、思い切って聞いてみました。
「こちら様で、段差スロープを作っていただけないでしょうか?」
すると、若奥様は
「あ、わかりました。ちょっと主人に聞いてみますので、連絡先を教えてください。たぶん大丈夫だと思いますよ
さっそく、携帯と仕事先、自宅の番号を書いて渡しました。
その日、確か夕方頃だと思いますが、早々と材木屋さんのご主人から連絡があり、喜んで作ってくださるとのお返事をいただきましたバンザイ

翌日、段差スロープのサイズを測って持っていき、なんとその2日後に出来上がったのです早いっ
確かに、お願いしたとおり高さが5センチの素晴らしい段差スロープでした私のイメージとぴったり!!すごいっ
「これ、おいくらですか?」と聞くと、驚いたことに
「いいんですよ。暇な時に端材でつくったんだから。使ってください。
え~~~っです。信じられな~い
でも、職人さんの意地ってもんがあるので、これ以上何を言ってもお金を受け取ってくれないなと思い、素直にに有り難~く頂くことにしました
さっそく段差にあわせて置いてみました。それは一寸のくるいもなく、吸い付くようにピタッと納まったのです。
すばらしい・・・まさにこれが職人の技なのだ
これはお金では決して買えないこの世でたった一つの段差スロープです
そして、2,3日たった頃、でっかい菓子折りを持ってお礼に行きました
今でもこの段差スロープは、引っ越した新しい家の一等席で、毎日私たちを守ってくれています。
一生大切にするからね

七沢病院めぐり

2005-04-15 | 脳幹出血
「脳血管リハビリセンターにて」(きゅうちゃんの手記より)

ここは完全な車椅子社会で、何でも車椅子が優先で、周りの人は、先生と看護師さんを除いて全員と言ってよいほど車椅子利用者なのです。
全箇所にちゃんと手摺が付いていて、生活がとても楽に過ごせるようになっていました。
その気になれば一日中立たなくても済むので、健康な時よりかえって快適かもしれませんね?
助かるはずのない私が、どうしたことか助かってしまったのだから、言うまでもなく、当然最悪の障害が残ってしまいました。
まず、目は景色が二重に見えて常に上下左右に揺れていますし、耳も左側がほとんど聞こえません。顔は左側の方がだらんと下がってしまっているのが自分でもわかるのです。
口も左側に曲がっていてしかも動かず、物が食べにくいし水分もたれてきてのみにくい。 も一つついでに喋りにくい! まるで幼児語です。
でも、命が助かったのだから良しとしなければいけませんね?
身体も、右半身が麻痺していて右手右足が全く動きません。平衡感覚も木っ端微塵にやられてし
まったので、回復しても一人では歩けないと言われました。
まるで足は腰からぶら下がっているような感じです。そしてこんなにも手足が重いものだとは思ってもみませんでした。
泥酔して意識を無くした酔っ払いを担ぐと、よく、「石の様に重たい」というのがわかるような気がしました。(おわり)


七沢リハビリ病院の玄関を入ると、とっても大きなテレビが置いてあり、その周りに大勢車椅子の患者さんが集まってじっと画面を見つめていました。
とにかく面会者と病院職員以外はほとんどが車椅子の患者さんなのです。
きゅうちゃんの部屋は玄関からかなり遠く、一階の長い長~い廊下をひたすら歩いてエレベーターまで行くのですが、途中いくつかの訓練室がありました。
言語訓練室、作業訓練室、あと(忘れてしまいましたが)もう一つの訓練室でした。
いつも出入り口が開いていたので、チラッと中を覗きながら通っていました。
例えば言語訓練室ですが、暗くて狭い部屋で、とても大きなテーブルがドンと置いてあり、後ろの棚にはテープレコーダーや、文字盤などが置かれていました。
きっとここで発音や言葉の訓練をするのでしょうね。
リハビリ室は一階と地下の二箇所で、きゅうちゃんは地下で訓練を受けていました。
初めて一緒にリハビリ室へ行った時に、思わぬ物を発見したのです
それは「温泉療法室」でした
「あ、これ、いいね~ただ温泉につかっているだけなのかね~
ここで何ヶ月か頑張って、最後のご褒美に入れてくれるといいね

七沢へプチ旅行

2005-04-13 | 脳幹出血
きゅうちゃんがリハビリ病院で一所懸命頑張っていた三ヶ月間、週二回のお休みには雨の日もかぜの日もきゅうちゃんに逢いに行きました。
自宅から二時間はかかりましたが、もともと乗り物に乗るのが大好きだったので全く苦になりませんでしたし、景色が素晴らしかったのでむしろプチ旅行そのもの。楽しみでした
最初は自宅→港南台→大船→藤沢駅(小田急線)→「本厚木」か、その次の「愛甲石田」で降り、そこからまた約40分神奈中バスに乗って病院まで行っていました。
でも、そのうちもう一つの行き方を開発したのです
それは、大船→茅ヶ崎→厚木(相模線)→本厚木(小田急)→病院という方法でした。
かかる時間は同じく二時間でしたが、相模線の車窓から眺める景色は、とても言葉では言い表せないくらい素晴らしいものでした。
線路と並行して相模川が流れ、岸辺にはいちめんすすきの原、そして美しい富士山の姿
おまけに、10月、11月、12月と寒くなるに従って空気が澄んでくるので、目に入る景色も鮮明でもうスゴイの一言です。しかも富士山がデカイ
一番最初に見たときは、思わず席から立ち上がって出入り口に駆け寄り、かぶりつきで見てしまいましたそれこそ、遠足中の子供とおんなじだぁ・・・これでおにぎりの一つでもあったら最高です
この電車はいまどき珍しい手動のドアなのです。さらに有り難いことに、いつも空いていたので、のんびり坐って景色を見ることができるので、きゅうちゃんが退院するまではずっとこのコースを楽しんでいました。本当に降りたくなくなるくらい素敵な路線でした
日頃の仕事疲れも一変で吹き飛び、新鮮でクリアーな気持ちできゅうちゃんに会いに行く事ができたので、本当に有難いことですね。

本厚木の駅を降りて五分くらい歩いたところにバス停があります。
でも、バスの本数は確か一時間に二本くらいしかないので、よく駅前の100円ショップで時間調整をしたものでした
そのお店で、病院で使うきゅうちゃんの洗面器を買いました。
全然壊れないので、今でもなんとなく使っています(青いプラスチックのケロちゃんの絵がかいてあるやつ)
考えてみたら、これはいい思い出の品なので、大切にしなきゃいけませんね?

やっと時間が来てバス停へ行くと、すでに何人かのお客さんが並んでいました。
病院は終点で、まわりはがたくさんあるので、たぶんお風呂に入りに行くのでしょう(いいな~)
途中の景色が、これまた最高、街中からだんだん田舎道に入り、しばらくするとまた川と並行してバスが走るのです。
確かこれも相模川の子供だと思うのですが、今度は土手という土手には真っ赤な彼岸花の群落が・・・
彼岸花、大好きなんです、一年の中で、秋の草花が一番好きです。
なので、もうまわりの景色に釘付けでした。そのうちどんどん山の中へ入って行き、いよいよ病院まであと数分、そこで登場するのが小高い山にそびえ立つ「神奈川リハビリテーション病院」でした。とにかく立派
ここは、事故や脳以外の怪我や病気で、リハビリを必要とする患者さんが入院しているようです。
よく、帰りのバスに身体の不自由な患者さんが大勢乗ってきます。
そのたび運転手さんが手伝ってあげたり、とても丁寧に運転してくれていました。
障害のある家族をもつ人間にとって、とても嬉しく思います

いつもだいたいこんな感じで通っておりました。
病院へ行くたびに、「是非一度へ入らなきゃ」っていつも思っていました

母の祈り

2005-04-11 | 脳幹出血
きゅうちゃんが七沢に転院して少ししてから、逗子のお義母さんを我が家に呼んで一緒に暮らし始めました。
私の一存で来てもらったのですが、あの歳で(当時80歳)長年住み慣れた土地を離れ、見知らぬ所で新たに生活を始めるという事は、お義母さんにとって非常に不安で心細かっただろうなあと思います
ましてや、頼りにしていた息子が倒れてしまったのですから、尚更ですよね。
きゅうちゃんが七沢から退院してくるまでの数ヶ月、私と二人きりでしたが、実の親子のようにまるで違和感がありませんでした。かなり気を遣ってくれていたからこそのことでしょうね。
今考えると、それこそ数えるくらいしか会ったこともなく、いきなり自分の息子と籍を入れたこんな人間の所へよくきてくださったものだと思います。
でも、こんな時にお義母さんをたった一人ぼっちにしておくことができませんでした。あまりに淋し過ぎます。
毎日一緒に朝食を摂って鎌倉の病院へ仕事へ行き、帰宅は夜暗くなってから。
週二回のお休みの日も朝9時ごろ出かけ、七沢のきゅうちゃんに逢って夕方帰ってくると、心配そうに玄関まで出迎えてくれました。
いつもエプロンをつけて一所懸命洗濯、掃除、夕飯の支度をして待っていてくれたのです。
まわりに知り合いもなく、たった独り、どんな気持ちで一日、一日を過ごしていたのでしょうか・・・そういえば、お隣によちよち歩きの可愛い女の子がいて、洗濯物をほしているときにお喋りしたりしてとても可愛がっていました。楽しみといったらせいぜいそんなものだったのでしょうね
でも、身体が不自由になってしまった息子の帰りをじっと待っていたお義母さんは、いつもとても穏やかな顔をしていました。
毎晩きゅうちゃんの話をするたびに言っていたこと。
「命が助かって本当によかった。あんなになってしまって、できることなら変わってあげたいねぇ。元気で戻ってきてくれるといいねぇ。でも、あんたがいてくれて本当によかった・・・、これからもきゅうと私のこと、宜しく頼みます・・・」
そのたびに二人で泣いていました