デジカメを持って歩こう.

個人の 登山、トレッキング、散歩、海外旅行 の記録です。

 2012年9月 南米.ペルー周遊からブログ参加です

・中山道を歩く(12)①佐久平<望月宿>-<芦田宿>-<長久保宿>-<和田宿>

2017-06-04 13:18:11 | 中山道

2017年6月4日~5日 中山道歩き12回目は佐久・望月宿から和田峠を越え信州・下諏訪宿まで2日かけ約40Km歩きます。5月はお休み、2ケ月ぶりの中山道歩きです。参加者7名、中山道で最もきつい峠越えと長丁場の歩きに皆 気合いが入ります。

【1日目】  
佐久平駅からバスに乗り望月BTへ。8ケ月前の秋、1時間以上バス待ちをしたBTを思い返す。前回一部見た<望月宿>を歩き、谷合にある間の宿<茂田井宿>に入る。白壁の民家や杉玉の下がる造り酒屋があり昔を偲ばせ好ましくほんのりできる場所。    <芦田宿>へ向かう道から浅間山から黒斑・籠ノ登・湯の丸山が澄んだ空にクッキリと見える。芦田宿は昔の面影のあるものはあまりなく、交流館で軽く軽食を摂ってから笠取峠へ向かう。   なだらな上り坂に松並木が日陰を提供していて歩き易い。一里塚はあったが峠はあまり目立たず気が付かずうちに通り過ぎる。 国道脇の林間道を歩き<長久保宿>へ。   竪町、横町という名のL字型の町並みとなっていて短い距離だが本陣も残っている。 国道脇で昼食。広重の浮世絵に描かれた和田宿へ折れる橋でメンバー一人が分かれ宿に先行。    我々は暫らく開けた谷あいの国道沿いを歩きやがて<和田宿>に入る。振り返るとクッキリと晴れた青空に浅間山の噴煙がはっきりと見え珍しい。 宿本体部分は江戸末期に「皇女和宮」宿泊のため宿場復興され、風情が残る旅篭・民家や本陣跡が残っている。   宿中央部分で民宿バスが迎えに来、本日の街道歩き終了。 歩数3万4千歩、17Km。

 

<望月宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・望月  八幡から望月の間に瓜生峠があり、『木曾路名所図会』に、「金山坂上下十三丁」と記されている。広重の図は、その瓜生峠の上りを描いたものである。街道脇に巨大な松並木が続き、行き交う人々に明るく照らす月光もとどかないようだ。それと対照的に遠くの山や森林は明るく月光を反射している。      広重といえは、雪の景、雨の景、そして月の景に彼独特の画趣をもった作が多い。本図も佳作の一つに数えられているが、実際には一間半ぐらいしかない街道を、構図上から幅の広い道のように描いている。

8月の満月(望月)の日に合わせて、名馬を京都へ納めたことから望月と呼ばれ、中世には謡曲『』望月でも知られた。  本陣に資料館が建ち脇本陣や旅篭が残り、古風な旅館が営業する。周辺には石仏や双体道祖神が多く佇み、安曇野と双璧をなす。

 

新幹線車窓 …妙義山         浅間山と榛名山                      バスから望月宿入口

                         

            

望月宿               大和屋・重文                 大伴神社                       鹿曲川長坂橋方面  

                

                     間の宿・茂田井宿 … 白壁の造り酒屋が多く古の風情を残し好ましく気持ちの良い集落

                     

造り酒屋                                 若山牧水歌碑 …しらたまの歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり(三首あり)         

                  

大澤酒造

                

右から…浅間山・黒斑山・籠ノ登山・三方ケ峰・湯の丸山・烏帽子岳

            

<芦田宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・あし田   中山道このあたりは立科山の尾根すそを行くことになる。起伏に富んだ地形で、望月からも青木坂という坂があったりする。芦田の宿は、『木曾路名所図会』に、「望月まで一里八丁、芦田何某が城跡あり。此駅に眼薬売る」と記されているが、慶長七年(一六〇二)中山道の伝馬の駄賃が定められる五年前、すでに町割りの計面が始められていたという。そして本陣兼問屋、脇本陣兼問屋などといった大家が多かったという。      この芦田を出て、笠取峠に向かう上り坂あたりのアカマツの並木は美しく、天然記念物に指定されている.広重描く図は、この笠取峠を取材したものである。そして起伏の激しい峠道を大胆なカーブで描き、化学系色料の緑で彩ったモダンさが、若い人々に歓迎される。そしてこのカーブと対照的遠山描写が調和して、感銘深い図となっている.

 芦田城の城下町古町から住民が移り住んで宿が誕生し、昔は「あした」と清音で呼んでいた。本陣、旅篭、牛宿などが残る。笠取峠の東側に小諸藩が753本のアカマツを植え、今も中山道一の松並木を誇り、東海道御油松並木と双璧をなす。

 

                       山浦脇本陣跡          土屋本陣                            旅篭津ちや

                

男女双体道祖神                          笠取峠・常夜灯

                             

                                                           笠取峠一里塚

                 

<長久保宿> … 広重/木曽海道六拾九次之内・長久保  西から来た者は、はじめて浅間の噴煙をのぞむ笠取峠を下ると、長久保の宿である。ここは南に和田宿を経て和田峠をひかえ、追分から腰越を経て、中山道より善光寺道に抜ける要衝の地でもあり、旅籠屋も数多かったという。そして旅籠屋の建物はこの地方特有の出梁(だしばり)造りで、屋根は図にもみえるように石をのせた「長板茸」であった。屋根を茸く茅が採れない木曾谷では栗の長板を用い、五月頃はげしく吹く季節風をふせぐために石をおいたものだという. 図は和田宿に近い依田川の河畔を描いたものであろう。    長久保は洗馬・宮ノ越と並ぶ、広重の中山道三大傑作とされ評価が高い。 近景だけを著彩とし、遠景の山岳、旅人たちが渡る橋、松の繋みを墨色で処理した色調がよく夜の景の実感を表現したといえる。そして中景の松の繋みをわぎと版がずれたような摺り方をしているため、風にゆらぐ松の実感が出されている。

竪町と横町が直角に接するL字型の宿は交通の要衝で、旅篭が信濃26宿のなかで塩尻宿に次ぎ、2番目に多かった。本陣付近は火災を免れ、中山道最古の建築が残っている。長窪と表記していたが、宿名変更願が出され、幕末に変更した。

 

長久保                    松尾神社         長久保宿・竪町                         一福処濱屋

                

石合家旧本陣…中山道最古の本陣    卯建             竪町・横町を分ける枡形

                

四泊一里塚周辺         大門道分岐・落合橋

    

 <和田宿> … 広重/木曽海道六拾九次之内・和田  『木曾路名所図会』に、「和田、此処は日本一高き所なりと云う」とある和田宿から鍛冶足(かじあし)、大出、唐沢、施行所(接待)、東餅屋村と過ぎ、東餅屋村から九十丁の上りで和田峠である。この間にある施行所とある土地は、深沢と呼はれていたが、文政の初め頃(一八二〇)、江戸の綿糸商かせや友七がここを通り、けわしい山道を越す旅人の苦しみを察して旅人には一椀のかゆを、牛馬には小桶一杯の煮麦を施した。それから接待と呼ぶようになったといい、当時の「永代人馬施行所」の標札は、今も林家に保存されている。 この和田峠は標高千五百三十一メートルで、現在も雪が深く、頂上には雪よけトンネルが設けられているほどである。広重も雪が山の緑をおおう季節を描いている。起伏のある街道に描かれた横線は、峠道のでこぼこ道を表わしたものであ

下諏訪宿まで五里半という中山道最大の長丁場と標高1600mの難所・和田峠を控え賑わった。和田の中山道と宿は国史跡「歴史の道」として、よく整備されている。本陣や出梁(だしばり)造りの問屋・庄屋・旅篭など旧態をよく留める。

                                                         三千僧接待碑

                   

和田宿入口              浅間山噴煙            和田神社          八幡神社          旅篭かわち屋

                

        山木屋・大黒屋                          和田宿本陣跡・復元

                

 

   ・ ・ ・ (この間 民宿泊) ・ ・ ・

【2日目】  に続く   ……



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