まあそれはそれとして、さっき俺がつい「大学進学率の統計を・・・」などとやってしまったのは、参照したblog記事の書き手が30歳だというのに多少引きずられたということはあった。以前も書いたが、社会に出てみると「大卒者は友達も大卒者ばっかり」ということに気づく瞬間があるわけである
つまりまあおおよそ20代のうちは、日常意識にかかってくる他人というのはだいたい同世代の人間だったということが自分の経験としてあるわけである。件のblog主もその感覚で言っているのだろうと勝手に決めつけてしまった
まあそれ以外にも本音を言えば「そうかなあ」と思うところが、さっきのblog記事にはちらほらあったのだが、それでもあのblog記事くらいのところで認識しておくくらいの方が「日本の、いや一般に人間の社会というのはどういうものか」のイメージを取り違えないためにはいいのではないかと思う
もちろん逆目の勘違いというのもあって、実際問題、大卒でない人はしばしば大卒者の比率をネグリジブル・スモール(無視できるほど小さい)だと決めてかかっているところがあったりする
それはその人の生活実感には違いないのだろうし、いきなり文句を言うことでもないのだが、そのイメージの誤差が逆に、知識的なことは「自分の手の届かないところにある何か」だというような思い込みにつながっているように思えることがあるわけである
そんなご大層なもんじゃねえよ。ご大層な知識がないとは言わないけど、パソコンの前で尻込みしなくてはいけないような水準であるわけでは決してないよ
まあコミケに行く人達はベテランほど酷暑対策とかはガチガチに固めてやっているものらしいけどな。べつに猛暑の年でなくても会場内はいっつも超酷暑らしいから
”「過去から未来に向つて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)」(「無常といふ事」)ということで、かれがこき下ろしたかったのは歴史的必然論だったろう→
→だが忘我の時間体験によっても、それぞれの時代にいまの瞬間しかない時間を数珠玉のようにつないでみても必然論が超えられるはずはない。また愛惜に裏づけられた「思ひ出」によって歴史が再現されるものでもない→
→歴史という概念が難かしいのは当時もいまもかわりがない。かれのいう「死人だけしか現れて来ない」のは「歴史」ではなく過去史にしかすぎない→
→歴史は未来を現在の方にひき寄せる〈いま〉の意識なしには成りたたない。そうすることによって「死人」しかあらわれない過去ははじめて、あたかも下意識のように蘇るのだ。それは「上手に思ひ出す事」とは関係のないことだ”(吉本隆明「小林秀雄」より/『悲劇の解読』所収)
『悲劇の解読』はもう長いこと読んでないというか、文庫で買ったその文庫本がどこ行っちゃったんだか判んなくなっちゃってて(笑)
でもまあこうして読み返してみると、昔読んでいたときはこのへんなんかはまるっきり理解できていなかったな(笑)今は理解できるけど「歴史とは何か」についてこれ以外の書き方ができるという気は、まだしないな(いつだったか、少しやってみた記憶はあるのだが・・・)