惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

5-5b (ver. 0.1)

2010年04月11日 | MSW私訳・Ⅱ
5-5 さらなる問題
問2: いかに手品をやりおおせるか(承前)

人々が認識・受容する制度と制度的事実に関連した理由は、その任意性や制度的現象の不正(injustice)に彼らが気づいている場合であっても、彼らはそこに変化があったためしがないことを絶望している。そう、財産の分配は不公平(unjust)であり、私有財産ということそれ自体にもたぶん何らかの不公平が存在する。だがそうしたことについて個人にできることはほとんどない。個人は制度に直面して無力を感じる。こうした現象については、政治権力についての章でふたたび述べることにしよう。

制度と制度的事実の受容に関連のある、また強力な動機とは、他の人々と同じようでありたい、また集団の一員として受け入れられたいというような、集合的志向性の共有に順応しようとする人間の衝動である。

そのような、わたしが示してきた一般的な理由──自己利害・力の増大・無視・無関心・絶望・順応主義──を超えて、「なにが受容を動機づけるのか?」という問いに対する一般的な答があるとは思えない。個別の制度に個別の動機があるだけである。権力関係にかかわる制度が脅迫的であるとき(政府や政治権力は一般にそうだが)それが合法的かどうかの問いは重大なものになる。権力については第7章でさらに述べることになるだろう。

問3: この説明はどのように基本的要請に整合するか

物理的な実現のない制度的事実の存在ということは、現実世界のすべては物理化学やその他の実体に基礎づけられるべきだという我々の基本的要請に、どうしたら整合させることができるのだろうか。もし、すべての制度的事実はナマの現実に基礎づけられなければならないと考えるなら(そうでなければならないのだが)、抽象的な、あるいは無制約的(free-floating)な存在論をもつような場合[つまりそうした存在]をどう考えたらいいのだろうか。わたしが採用してきた(have been espousing = adopted)基本的存在論の概念によれば、現実世界のすべてを基本的事実に帰着させることは不可能であるに違いないということになる。自立した(freestanding)ものがある。お金、企業、目隠しチェスといったものは、ただ宙に浮いていることなどできない。

※ 束縛もされないが浮いたままということもない、ということだろうか?

この問いについてはすでに暗黙には答が出ている。ここでそれを明らかにしよう。以前に示した地位機能の創出を示す式を結合する際、それはこういうものだった。

我々は「ある地位機能Yは文脈Cにおいて存在し、またそうする中で我々はある人物(または人々)Sと地位機能Yの関係Rを創出する。このときSRYによって(Sは(Sは行為Aを行う)権力をもつ)」という宣言型言語行為によってそれをその場合とする。

この光をあててみると、束縛されないY項は常に問題の権力をもつ現実の人間存在に基礎づけられていることがわかる。なぜなら彼らはそれらを持つものとして表象されているからである。だからあなたがお金や企業や目隠しチェスのコマを持つことにおいて物理的実現は必要でない。持たなければならないのはお金の所有者、企業の役員とか株主、またチェスの試合の選手であり、これらに作用する権力創出作用素である。制度的事実は依然としてナマの現実のもとにある。しかしこれらの場合においてナマの現実とは現実の人間存在であり、言語的表象を構成する音や記号である。

要点をかいつまんでみる。存在論的に言って、最小の制度的現実を創出するためには、あなたは厳密に以下の3つを持っていなければならない。

(1) 人間存在(あるいは同様の認知能力をもつ種類の存在)
(2) 志向性。対象物や人に機能を授課する能力をもつ集合的志向性を含む
(3) 宣言型言語行為、つまり双方向の適合方向をもつような言語行為をなすことができる言語

束縛されない地位機能Yがとにかく複雑かつ永続的であるのなら、これらに加えて「(4) 書くこと」が必要である。束縛されないY項の場合は常に、「人間」と「言語」が制度的現実の特別な形態として必要なふたつの現象であるような場合である。他の場合、現実の私有財産とか運転免許とか結婚した夫婦とかの場合は、地位機能を割り当てることのできる物体、もしくは特別の物性をもつ人間存在[!]が必要である。

問4: なぜ言語は特別であり、単にあまたある社会制度のひとつではないのか

直観的に、我々がそれについて考え始める以前には、言語は最初の社会制度だと思える。政府・財産・結婚・お金はないが言語はあるといった社会を想像することはできる。しかし政府・財産・結婚・お金はあるが言語はないといった社会は想像することもできない。直観的に、理屈以前のモンダイとして、我々はみな言語がなにがしか制度的現実を構成するものであることに気づいている。その仕事はてんで駄目だとわたしが思うような著者たちでさえ「言語が社会的現実を構成する」という文は認めるだろう。実際、わたしはアリストテレス以後の誰もが[※この文に「哲学者は」という限定はついていない]このことを認めるはずだと思っている。問題は「厳密に(exactly)どうやって」言語が社会的現実を構成するのかを言うことである。厳密にどんな言語行為の形態によって制度的現実が創出されるのか、厳密にどのような現実の存在論的地位が創出され、それによって厳密にどんな言語行為が維持されるのか、である。これらは厳密に(precisely)わたしがこの本で答えようと試みている問題である。

(つづく・・・またしてもコピーを切らしてしまった。晩飯食ったらコンビニへgo!だ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« レヴィナス「実存から実存者... | TOP | Matsuiland! 2 »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | MSW私訳・Ⅱ