当為の観念を信念系として分解すると、たとえば、次のようになるはずである。
(a) 外界は単一の体系的な秩序に沿って展開されるという信念
(b) 外界の展開いかんで自分が害されることがありうるという信念
(c) 自分の意志的な働きかけによって外界を変化させられるという信念
この信念系は何やら奇妙だ。いま仮にこの「外界」が「自然」のことであるとすれば、(a)(b)はともかく(c)はありえないことについての信念になってしまう。自然は物理法則によって展開される、決定論的な(不変の)全体であって、物理法則を超えた「意志的な働きかけ」によって変化することはありえない。この「外界」は(見た目にどんなに似ていても)自然そのもののことではない。
そもそも人間は自然の一部である。だから実際は、人間は上の信念系を保存しつつ、自然から「自分」を不断に区別し(区別し直し)、残余を「外界」としている存在だと考えられる。そしてその(再)区別に関与しているのは「害されることがありうる」という懸念と「意志的な働きかけ」に帰結する欲望のふたつである。
当為の観念は、心的領域そのものの変容の、意識における自覚(反映)である。「自分」は作用の起点であり、また心的領域の原点(ないしコンパクトな閉領域)だから、自分の(外延における)変化は自覚されないが、外延の変化は心的領域そのものの変容に対応するので、それが「外界」の対象(これも心的領域上の観念である)への違和感のようなものとして察知されることになる。
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ところで「外界」は自然そのものではない、ということは、(a)でいう「単一の体系的な秩序」もまた物理法則そのもののことではなく、とりわけ自分自身の近傍で大きく変容した何かになっている。なんと言っても「外界」は意志によって変化させうる(そう信じられもするし、たいてい本当に変化する)何かになってしまっている。いま右手を上げようと思えば、右手が上がるだろうと信じられるし、たいてい本当に右手は上がるわけである。
自然から自分を区別した残余である外界の秩序を「規範」と呼ぶことができる。
通常、規範は社会的なものとみなされるが、そもそも社会というのが共同の幻想として個々の心的領域上の対象なのであるから、常識的な意味での規範はその共同幻想に関連づけられる限りにおいての規範である(紛らわしいので、後々は上の、常識的でない方を原規範とか汎規範とか呼ぶことになるかもしれない)。
●付・規範的な命令/意志と自由意志
以下は上とすぐつながる内容ではないが、上を考えているあいだに何となく思いついてしまったので、付録として置いておく。
すべての規範的な命令は「背こうと思えば背くことができる」ことを本質としている。クルマに轢かれる危険を覚悟するなら、交通信号を無視することは自在である、というようなことだが、注意すべきことは「背こうと思えば背くことができる」のは単に規範的な命令の性質ではなく、定義にかかわる本質だということである。原理的に背けない、あるいはそのような場合がありうる命令は規範的な命令とは呼べない。
命じられたものがその命令を遂行するというとき、物理法則のように普遍的かつ決定的な作用によるのではなく、場合によって抗えない外力によるのでもなく、いつでも抗える、つまり、命じられたものが固有にもつ内力によってのみ遂行される命令が規範的命令である。
命じられたものが人間である場合、この内力は意志と呼ばれる。意志のうちでいかなる規範的命令の拘束も受けない(空の規範的命令に拘束される)意志を自由意志と呼ぶ。逆に言えば、意志は通常何らかの規範的命令に対応して、その拘束のもとで発揮される。自由意志が存在するかどうか(空の規範的命令が存在するかどうか)は不定だが、意志一般は規範的命令が遂行されるどの場面においても必ず存在する。なかったら遂行できないからだ。
(a) 外界は単一の体系的な秩序に沿って展開されるという信念
(b) 外界の展開いかんで自分が害されることがありうるという信念
(c) 自分の意志的な働きかけによって外界を変化させられるという信念
この信念系は何やら奇妙だ。いま仮にこの「外界」が「自然」のことであるとすれば、(a)(b)はともかく(c)はありえないことについての信念になってしまう。自然は物理法則によって展開される、決定論的な(不変の)全体であって、物理法則を超えた「意志的な働きかけ」によって変化することはありえない。この「外界」は(見た目にどんなに似ていても)自然そのもののことではない。
そもそも人間は自然の一部である。だから実際は、人間は上の信念系を保存しつつ、自然から「自分」を不断に区別し(区別し直し)、残余を「外界」としている存在だと考えられる。そしてその(再)区別に関与しているのは「害されることがありうる」という懸念と「意志的な働きかけ」に帰結する欲望のふたつである。
当為の観念は、心的領域そのものの変容の、意識における自覚(反映)である。「自分」は作用の起点であり、また心的領域の原点(ないしコンパクトな閉領域)だから、自分の(外延における)変化は自覚されないが、外延の変化は心的領域そのものの変容に対応するので、それが「外界」の対象(これも心的領域上の観念である)への違和感のようなものとして察知されることになる。
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ところで「外界」は自然そのものではない、ということは、(a)でいう「単一の体系的な秩序」もまた物理法則そのもののことではなく、とりわけ自分自身の近傍で大きく変容した何かになっている。なんと言っても「外界」は意志によって変化させうる(そう信じられもするし、たいてい本当に変化する)何かになってしまっている。いま右手を上げようと思えば、右手が上がるだろうと信じられるし、たいてい本当に右手は上がるわけである。
自然から自分を区別した残余である外界の秩序を「規範」と呼ぶことができる。
通常、規範は社会的なものとみなされるが、そもそも社会というのが共同の幻想として個々の心的領域上の対象なのであるから、常識的な意味での規範はその共同幻想に関連づけられる限りにおいての規範である(紛らわしいので、後々は上の、常識的でない方を原規範とか汎規範とか呼ぶことになるかもしれない)。
●付・規範的な命令/意志と自由意志
以下は上とすぐつながる内容ではないが、上を考えているあいだに何となく思いついてしまったので、付録として置いておく。
すべての規範的な命令は「背こうと思えば背くことができる」ことを本質としている。クルマに轢かれる危険を覚悟するなら、交通信号を無視することは自在である、というようなことだが、注意すべきことは「背こうと思えば背くことができる」のは単に規範的な命令の性質ではなく、定義にかかわる本質だということである。原理的に背けない、あるいはそのような場合がありうる命令は規範的な命令とは呼べない。
命じられたものがその命令を遂行するというとき、物理法則のように普遍的かつ決定的な作用によるのではなく、場合によって抗えない外力によるのでもなく、いつでも抗える、つまり、命じられたものが固有にもつ内力によってのみ遂行される命令が規範的命令である。
命じられたものが人間である場合、この内力は意志と呼ばれる。意志のうちでいかなる規範的命令の拘束も受けない(空の規範的命令に拘束される)意志を自由意志と呼ぶ。逆に言えば、意志は通常何らかの規範的命令に対応して、その拘束のもとで発揮される。自由意志が存在するかどうか(空の規範的命令が存在するかどうか)は不定だが、意志一般は規範的命令が遂行されるどの場面においても必ず存在する。なかったら遂行できないからだ。