惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-2-06a

2011年06月24日 | THN私訳
2-06 存在と外的存在の観念

第二部の議論を終える前に、時間・空間の観念と同様にさまざまな難点を持つ存在(existence)および外的存在(external existence)の観念を解明しておくことは、間違ったことではないであろう。我々の推理にかかわってくるこれらの観念のすべてを完璧に理解すれば、(第三部のテーマとなる)知識と半知識(knowledge and probability)について検討する準備がよりよく整うことになる。

どんな印象にせよ観念にせよ、我々がそれを意識したり記憶したりするものである限り、存在すると思われないということはありえない。存在についての最も完璧な観念と確信(assurance; 大槻訳は「信憑」としている)がこの意識に由来することは明らかである。これによって我々は、想像できる限り最も明瞭で断定的なディレンマを作ることができる。すなわち、いかなる印象も観念も、存在を(その印象なり観念なりに)帰属させずに想起することはできないので、存在の観念はあらゆる知覚(思考の対象)と連結された別個の印象から由来するか、あるいは知覚の観念(対象の観念)とまさしく同一であるのか、いずれかでなければならない、ということである。

この場合の「ディレンマ」は矛盾という意味ではなくて、互いに排他的に真であるようなふたつの命題というほどの意味である。一方が真なら他方は真ではありえないということである。

このディレンマは「すべての観念は相似する印象から生起する」原理の明白な帰結である。だから、このふたつ命題のどちらが真であるのか、その判定もまったく疑問の余地はないものになる。あらゆる印象と観念にはそれとは別の印象が伴ってあるものである限り、ふたつの印象が連結されて絶対に分離できないということはありえないとわたしは思う。時にいくつかの感覚が合わさっているということはありうる。しかし、それらの感覚が分離でき、したがって別々に現れうるものであることも、たちまちわかることである。ゆえに、想起できる印象と観念のすべては存在するものと考えられるのであるが、しかし存在の観念は何ら特別な印象に由来するものではないのである。

そうであれば存在の観念は、存在すると思われるものの観念とまさに同じである。単に何かを反省することと、それを存在するものとして反省することは、互いにまったく同じ(まったく違わない)ことである。存在の観念は、何らかの対象の観念に連結されたものではあるが、後者に何かがつけ加えられているわけではない。思われるもののすべては存在すると思われるものである。我々がそうしようとして作る観念はすべて存在の観念である。そして存在の観念は、我々がそうしようとして作る観念のすべてである。

何にせよこれに異論をもつ人は、本体(entity)の観念がどんな印象に由来するのかをを示さなければならない。そしてその印象が、我々が存在すると信じる知覚のどれからも分離できないことを証明しなければならない。我々はためらうことなく断定できる。それは不可能であると。

(つづく)
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