いまのワカモノは小中学校で知能テストとかやらされないのだろうか。我々のころだと2~3年に一度、中学校に入ってからもやらされた覚えがあるのだが
やるのはいいけど結果は教えてもらえないんで、いつもなんとなく嫌だった。まあIQというのは努力して向上するものではないから、ということだったのだろうけれど
あと、小学校1年のとき仲良くしていた友達が、2年に進級するというところで突然特殊学級に放り込まれたということがあった。その時は単純にわけが判らなかったが、あとから考えてみるとあれが知能テストの結果だったのかもしれない
はっきりとしたことは最後まで判らなかったのだが、疑いを晴らす機会もなかったわけで、だから今でも知能テストとか知能指数とかいう話は、基本的に大嫌いであ・・・ああ、だからやらなくなったのかな(笑)
まあ好きでも嫌いでも発達心理学をやってる人なんかにとっては、知能指数というのは否応なくかかわらなくてはならない概念ではある
そっちの文脈で言う場合の知能指数は要するに相対的な精神年齢のことなのだが、いつか聞いた話では、そうであるにもかかわらず「知能指数というのは生涯変わらない」ものだということになっているらしい
「それはつまり、四十の人間がIQ150だったら六十の爺と一緒だということか」と聞いたら「そうだ」「えー」「・・・言いたいことは判る。確かにおかしい。けどそういう定義なんだから仕方がない」
発達心理学というのが事実上児童の発達心理学であった時代にはそんなこと問題にならなかったわけだが、最近のそれは「生涯」にまで範囲を広げてきているから、そういう変なところがあちこち出てきてしまった、という認識はあるらしい
あなたが明日会う人々の四分の三は、「自分と同じ意見の者はいないか」と必死になって探している。この望みをかなえてやるのが、人に好かれる秘訣である。 =デール・カーネギー=
こんなこと本当なのかどうかは知らない。特に「四分の三は」というのはとりたてて統計的な根拠があって弾かれた数字だとは思えない。ただ、任意の何かを喋ったとき、それに異常に感激する人がいたら、その人は確かに「自分と同じ意見の者はいないか」必死に探していた人である。そういう人は時々いる
とはいえ、名言というならこういう名言もある ── ”あなたの愛情の発作をも警戒するがいい。孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる”(ニーチェ)
この一節は通常「するがいい!」と(たぶん原文がそうなので)感嘆符をつけて訳されているわけだが、思うに独文のこういう感嘆符は必ずしもその通りに訳さない方がいいのではないか。マルクスなんかでもそうなのだが、読んでるうちに「ああもう、うるせえ!」とか思えてきてコマル
しかしいま改めてニーチェの方の名言を検索し直してみたら、この名言は「自分自身の愛情の発作」に警戒せよと言っているわけである。実は今しがたまでわたしはこれを「他人の」そういう発作について警戒すべきことの名言だと思い違いしていた(笑)
わたしにはもともと愛情がないか、あっても希薄なので、愛情の発作ということもあまり経験したことがないわけである。全然ないこともないが、ほとんどは架空の何かだったり、架空でなくても紙の上にしか存在しない何かであることがほとんどで、したがって握手など求めようがない相手ばかりだった
緊急地震速報、過去最大規模の“誤報” 原因は「地震計のノイズの途切れ」(ITmedia ニュース) itmedia.co.jp/news/articles/… ”この地震計では、同日午前3時ごろから断続的にノイズが途切れており、機器の故障や通信回線の異常などが考えられるという”
今回の件では気象庁を批判すべきでないという声も出ていたりする。もちろん悪者探しと責任追及のためにするような批判は慎まれるべきだが、緊急地震速報の精度向上につながる批判は躊躇うべきではないと思う
まあこれ以上改良するには何兆円もかかるとかいうなら話は別だが、現時点までに聞こえてきている話ではそこまで大きなコストのかかる改修ではないし、一方で今回のような誤警報が生じること、またそれが繰り返されることのリスクはずっと大きいと考えられるわけである
「市民社会の実現はそれ自体が市民社会的なやり方によって達成されなければならない」と言っているように聞こえる。こないだのよりは理解しやすい
そうした態度の背景にはしばしば「デモクラシーが暴力革命によって実現するというのは嘘ではないのか」といった種類の考えがある