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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

5-2-1b (ver. 0.1)

2010年03月30日 | MSW私訳・Ⅱ
5-2-1 制度的現実の創出(承前)

II型:構成的規則「XはCにおいてYと見なされる」

境界の地位機能を創出したのとおなじ部族は、単にある特定の人物に地位を割り当てることによって族長の地位機能も創出しうる。しかし幾世代かを経るあいだには、彼らは王を選び出す標準的な手続きをよく進化させうるであろう。大部分が文盲で、王の地位が男系で継承される社会を考えてみる。ヨーロッパはかつて数世紀に亘ってそうだったわけである。そこでは地位機能は死んだ王の長男に冠せられていた。この場合、境界の場合とは異なって、それは実際に規則であった。「任意のxについて、xが死んだ王の長男であるならば、xは王と見なされる」。たぶん、たいした規則ではなかった、とはいえ成文化可能な規則ではあった。*

* すでに註記した通り、わたしは「x」や「y」などの英小文字を量化の変項として、また「X」や「Y」などの英大文字を隣接する名詞句によって束縛されうる自由変項として用いる。

地位機能の創出と存続は書かれた文書の形態を必要としない。典型的に、共同体はアタマ飾りとか王冠とか特別な衣服といった、他の地位表示を用いるであろう。無文字社会においてさえこれらの象徴としての機能、それらは地位機能の創出にとって必要ではないのだが、それらは維持において有用である。なぜならそれらは問題の地位機能の持ち主を容易に見定めることができるし、またそれらは彼または彼女の王族としての地位を象徴するからである。文字のある社会では制服や結婚指輪のような非言語的地位表示がたくさん用いられる。

「XはCにおいてYと見なされる」構成的規則──この場合「死んだ王の長男Xが新しい王Yと見なされる」という規則──の意味(論理形式、意味内容)は何か?構成的規則を規制的規則(regurative rule)と比べてみればもっともよく理解できる。たとえば規制的規則、「クルマは道路の右手側を走れ」の場合、それは定常命令型言語行為である。その機能はある行動形態をもたらし、行動が規則の内容に整合すれば満たされる。そうした規則は上向きの、つまり「世界→言葉」の適合方向を持つ。対照的に、構成的規則「死んだ王の長男は新たな王と見なされる」は定常宣言型言語行為である。その機能は、旧王の死に際してある人物を新たな王にする、という例を作ることである。誰も、長男が新たな王と見なすために結果を受容すること以外の他に何もする必要はない。それは双方向の、つまり「言葉→世界」と「世界→言葉」の適合方向をもつ。同時にそれは、それがその場合であると表象することによって何かをその場合にする。わたしはこれを定常地位機能宣言と呼ぶ。死んだ王の長男(存命の最年長の息子)という条件を満たす者は誰であれ新たな王であるということを無限の未来に亘ってその場合とするからである。それは何かを場合とするが、しかし同様の無限個の何かに対して適用される。

III型:複合的な場合:法人格(corporation)の創出

以上のハナシを、明示的な規則、複雑な法的構造、書き言葉を必要とする、はるかに複雑な場合と対比させてみることにしよう。それは有限責任会社の創出である。カリフォルニア州においては、[他の]多くの区域と同様、明文法が宣言型言語行為によって法人の創出を可能にする。

カリフォルニア州法(the California Code)は法人格を次のように定めている。

第200条A項:「ひとりまたは複数の自然人・合名会社(パートナーシップ)・組合・団体は、国内と国外とを問わず、法人(incorporation)条項(article)の行使(executing)と申出(filing)によって、この区分(division)における法人を組織することができる」
同C項:「法人は条項の申出に基づいて存在を開始し、法律によって、または条項において明白に異なる規定がなされない限りは永久に存続する。」
(太字[原文ではイタリック]は引用者による)

法律の条文の言い回しが無駄に難解なのはどこの国でも同じだということだろうが、さすがに外国語のそれとなるともう、手も足も出ない感じである。なんとなくそれっぽく訳しているように見えるかもしれないが、本当のところは何が何だか、である。ググっても同法の訳文らしいものは見当たらない・・・まあ、そらそうだ。

これらの2項は一体として非常に強力な構成的規則を形成している。実際のテキストは定常宣言型言語行為である。それらは、ある特定の条件を満たすあらゆる実体はもうひとつの宣言型言語行為を行うことによって法人を組織することができるという宣言型言語行為によってそれを場合にしている。そして何らかの他の条件が生起しない限り法人は「永久に」存在する。法人の創出にかかわるふたつの宣言型言語行為がこのように存在する。法律はそれ自体ひとつの(あるいは、ひとそろいの)宣言型言語行為である。それが宣言するのはある種の宣言を行ったものは誰であれ法人を組織したことになる、ということである。

そうした構成的規則はどんな制度的事実が創出されるかの条件を特定する宣言型言語行為である。ある場合は(この場合のように)、その条件はもうひとつの宣言を行うことにかかわっている。またある場合には野球で一塁打を打つ場合、あるいは第一級殺人の罪を犯したという場合など、制度的事実を構成する行為であるが、それ自体は言語行為でない場合がある。解くべきパズルのひとつは、もしすべての制度的事実が宣言型言語行為によって創出されるのだとして、一塁打とか第一級殺人のような出来事が言語行為でないことをいかに説明するのかということである。その答は、問われている物理的出来事が一塁打や第一級殺人などの制度的事実を構成するのは、ただただそれらの物理的事実に地位機能を割り当てる定常宣言型言語行為が存在するからだ、ということになる。規則は、これこれの条件を満たすことを特定のある種の制度的事実と見なすことを宣言する。

法人の場合において、他の場合──石の線が境界と認識されるとか、長男が王位を継承するとか──がそうであったような、それが転じて法人となったというような対象は何もなかった(no preexisting object)ということに注意しなければならない。法律はある既存のXが法人となるとは言っていない。そうではなく、法人を組織することができるのである。これらの書かれた言語行為の行い──「法人条項の行使と申出」──は法人の創出と見なされる。そして──「法人は条項の申出に基づいて存在を開始し、永久に存続する・・・」のである。

この場合において我々は非常に強い対象物(有限責任会社)を、言ってみれば希薄な空気の中に創出したようである。法人となる前に既存の対象物は何もなかった。法人が存在するという宣言型言語行為、認可(fiat)だけでそれを作り出したのである。そうしようとすることの全体は現実の人々の間にひと揃いの綿密な権力関係を創出するということにも注意しなければならない。実際、企業はそうした関係を含んでいる。法人企業を創出すれば、それによってビジネスを行うことのできる実体、および社長・理事長・株主といった地位をもつ実体を創出する。企業が創出されると、その地位機能は実際に存在する人々に生じる。法人はその中のさまざまな地位機能の位置を占めている人物が変わってもその自己同一性を維持することができる。

(つづく)

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5-2-1 (ver. 0.1.1)

2010年03月27日 | MSW私訳・Ⅱ
5-2 制度と制度的現実の一般理論

5-2-1 制度的現実の創出

第1章で、すべての制度的事実は同じ論理的操作(operation)によって創出されると述べた。それを存在するものとして表象することによる現実の創出である。地位機能の創出の一般的な形式はこうである。

わたしは(我々は)地位機能Yが存在するという宣言型言語行為によってそれをその場合[地位機能Y]にする。

この一般形はさまざまに異なる形に実装される(implemented)。それをこれから説明する。これをするのにわたしは、言語を論じたときと同じ方法(strategy)を用いよう。つまりその概念的な進化として説明するということである。わたしは、我々がいかにして単純な形態から複雑な形態へと進んで行くことができるのかを示したいのである。大事なのは、言語と同じく、人間の制度の歴史が現実にどのような道筋をたどってきたかということについて当て推量(speculate)をしないことである(我々が、言語の起源よりは制度の歴史についてよほどよく知っているとしてもである)。そうではなく、我々が権利義務力の最も単純な場合からより複雑な形態へと進んできた、その概念的な複雑さの増大について説明することである。

I型:制度なしの制度的現実の創出:境界に壁をたてる

以前の著作*において、わたしは制度的事実が非制度的な物理的事実から、いかに進化しうるかを記述した。

* サール「社会的現実の構築(The Construction of Social Reality; 未邦訳。誰かさっさと訳して出してくれ)」

わたしは群落のまわりに壁を立てた部族を想像した。壁はその物理的な構造(簡単によじのぼって侵入することができない程度の高さ)によって内側へのアクセスを制限する。

※ この文の場合、「アクセス」というカタカナ語よりもしっくり来る日本語がなさそうに思える。

壁はしだいに低くなり、最後は石の線しか残らなくなってしまう。しかし内側の住人にとって、また外側の人間にとっても、その石の線がある地位をもつものとして認識され続けたとしたらどうだろう。その地位を我々は境界と呼ぶことができるのではないだろうか。で、彼らは権限がなければ境界を横切ることなど考えられない(not supposed)と認識し続ける。アホみたいな話だ、ということになるのだろうが、しかし事実それが重要なことを暗示しているのである。この場合において、我々は物理的構造によって機能する対象から始めたのである。しかしそれはそのうち物理的構造によらずに機能する対象へと進化する。人々のかかわる集合的な認識あるいは受容が存在するという事実によって、石の線の内側でも外側でも、その線は何らかの地位機能をもち、それはその地位の集合的認知ないし受容のみによって機能するのである。

これは「地位機能」のひとつの例である。わたしは地位機能を次のように定義することになろう。地位機能はある物体・人物・その他の実体によって行われる(performed)ものであり、また、共同体において地位機能は問われているところの物体・人物・実体にある地位を割り当て、また物体や人物の集合的受容ないし認識、あるいはその地位を持つ実体によって機能するという事実によってのみ機能しうるものである。わたしは物体と人物に付随した他の種類の実体についても言及しなければならない。なぜなら、我々は有限責任会社の地位機能のような抽象的な実体に対する地位機能の付属物(attachment)を認めなければならないだろうからである。*

* 地位機能の概念は「機能(function)」という語の通常の使い方の拡張(延長)を伴っている。というのも、すべての地位機能が通常の意味でそう考えられている機能ではないからである。たとえば、人権は地位機能であって、その「機能」のひとつが言論の自由を行使することだとは、普通は考えないだろう。しかしわたしはそれが、地位機能の一般的なカテゴリのもとで理解する(assimilate)ことが正当であるような地位によって割り当てられた通常の意味での機能に十分似ていると言うことになるだろう。

壁の場合、地位機能を持つ境界としてのそれは、書かれた言語や一般的な規則をまったく必要としない。この場合、それにかかわる人々は、文脈Cにおいて物体Xに地位機能Yを授課するのである。

後者の場合は、あらゆる制度的事実と同様に、言語を伴うことが必要である。あるいは、少なくともなにがしかの記号(symbolism)が必要である。それを理解するために、我々は「石の線を横切るな」という単純な配置(disposition)と、それを横切ってはならないという責務に服する認識がある場合とを区別する必要がある。わたしがわたしの犬を敷地の外に出ないように調教(train)するとしたら、単純に彼がそうしたら罰し、敷地の中にとどまったら報酬すればよい。

言語以前の原始人類を「it」と呼んでも犬は「he」になるのが英米人らしいということにはなるのだろうか。もっとも、サール家の飼い犬の名前は「ウィトゲンシュタイン」だとどこかで聞いたことがある。きっと語りえないことは吠えもせず沈黙してしまう、おとなしい犬なのだろう。ヴィトの中の人も大変だなw

わたしは彼の配置を敷地内にとどまるように変えたのである。しかしこれだけなら責務とか義務とかのかかわりに疑問はない。人間の場合、行動の配置から責務の認識へと漸進的に変化して行くことに疑問の余地はない。しかしわたしは我々に石の線を境界として認識する者の責務を授課するものとして考えるようにしたいわけである。責務は石の線に割り当てられた集合的に認識された地位が存在するという事実から導かれる。の線Xは今や境界としての地位Yをもつ。ただしその地位はその制度の成員がそれを表象するに十分豊かな言語を持つ場合に限って存在しうる。つまりわたしは、言語を必要としない単なる行動の配置と制度的権利義務論が存在する場合とをそこで区別しようとしている。そうした権利義務論はそれが存在すると表象される限りで存在することができる。この、権利義務論と配置の区別は、長の認識を持つ人間の部族と、狼の群の中にボス(alpha male)がいる場合との間においてもあてはまる。部族の長は持続的な権利義務的地位をもつ。それは言語によって表象かつ創出される権威である。ボス狼はその身体的な強さによって恐れと尊敬の対象になるが、公的に認識された権利義務論は持っていない。そうした権利義務論には言語を必要とする。なぜか?言語がなければ配置と結びついた欲望や信念のような前言語的な志向状態を持つにとどまるからである。責務を責務として認識できるということで重要なのは、責務の概念を持たなければならないということである。なぜなら何かを責務と表象することができなくてはならず、つまりはそれが傾向と欲望によらない行為理由を与えるからである。「責務」とか何とかの語を実際に持つ必要はない。とはいえ権利義務論を表すに十分豊かな概念的な装置は持っていなければならないのである。

わたしは石の線が境界になるまでの変化の論理的な形態は地位機能宣言の論理的な形態であることを強調したい。宣言型言語行為が存在するようないかなる特別な瞬間も必要ではない。しかし、何らかの言語行為ないしその集合、また石の線が境界だという表象を構成しつつそれを境界にするような他の種類の表象がなければならない。表象が集合的に認識あるいは受容されると、石の線は新たな地位を獲得する。今やそれは境界である。そしてそのような表象は正確に地位機能宣言の論理的な形態をなぞるものである。

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5-1b/5-2-0 (ver. 0.1)

2010年03月25日 | MSW私訳・Ⅱ
5-1 制度的現実の海(承前)

名詞が制度の名前であるかどうかをテストするためには、その記述のもとで名づけられた対象が権利義務力を持つかどうかを見ることだと述べた。このテストによれば、カソリック教会は制度であるが、宗教はそうではない。(米国)国立科学財団は制度であるが科学はそうではない。私有財産は制度であるがクルマはそうではない。

これらの制度のひとつひとつはどれも、制度の運用に伴って人々に馴染み深いものであることが明らかになるような制度的現実を生成する。議会は法案を通過させ、野球選手はヒットを打ち、ビルはバスの切符に5ドルを払う。さらに、制度のなか(within)の制度がある。たとえば米国政府はひとつの制度であり、その中に議会やその他の制度を含んでいる。議会は政府の各省をはじめさらに多くの制度を組織(set up)する。企業は傘下のビジネスを組織する。この用法は「制度」という語をテクニカル・タームとして扱う、というのも普通は制度と呼ぶものの中には、わたしの定義によればそうでないものもあるからである。たとえばキリスト教のカレンダーは通常制度と考えられている──それは制定されたものには違いない──が、わたしの定義によれば制度ではない、というのも、ただカレンダーを引き合いに出す(invoking)ことによって創出されうるようなそれ自体の権利義務力が存在しないからである。色の名前と同じように、カレンダーはあるナマの事実と制度的事実を定める(situating)語彙を供給するだけであって、それらの事実を定めることは権利義務論を創出しない。たとえばわたしの文化において、1月17日はどんな特別な力も生じないから制度的事実ではない。一方でクリスマスの日は制度的事実である。なぜなら他の権利義務論をよそに、それは人々に休暇を与えるからである。

わたしの文化において、退屈であること、アル中であること、知的であることなどは制度的事実ではない。なぜだろうか?それは特別な集合的に認知された権利義務論がこれらの記述によっては導かれないからである。わたしの社会ではおおむね、「知的」という記述に対して特別な権利義務論が人々に結びつけられることはない。この点で知的であることは教授であること、クルマの所有者であること、服役中の囚人であることとは異なる。これらの制度的事実のすべては権利義務論を導く。ところで合衆国において、我々は「公的知識人(public intellectuals)」という制度を進化させてきたように思われる。それが一般的に受け入れられているのだとすれば、それは地位機能であろう。

「public intellectuals」は上述の通り米国に固有のものであるが、現代日本で言うところの「論客」というのに近い存在であるらしい(いま調べた)。事実そう訳されている場合もあるようだ。皮肉のニュアンスが混じってよければ、要は「文化人」というやつである。


5-2 制度と制度的現実の一般理論

本章において、わたしはこれまでの章で組み立ててきた材料を用いて、人間の非言語的社会制度とそれらの制度に内在する制度的事実についてのひとつの一般理論を構築したいと思う。

この本(MSW)の題名を「つくる社会哲学」と訳してみるのはこの一文が根拠だ、ということにする。正確に言えば社会と制度と権利義務論の哲学、ということになるのだろうが、まだるっこしい。

第4章では言語の説明をやってみた。今度はその説明を非言語的な制度的事実、お金、財産、政府、結婚などに対して用いてみる。

はっきり言っておかなくてはならない用語上のブカッコウさ(awkwardness)が存在する。わたしは誰かが「雨が降ってる」と言う場合のような「言語的」制度的事実と、オバマは大統領であるという事実のような「非言語的」制度的事実を対照させたいわけである。しかしわたし自身の説明においてすべての制度的事実は言語的に創出され言語的に構成され維持されるのである。だからそのうちのあるものを「非言語的」などと呼ぶことは誤解を生むおそれがある。後者によってわたしが言わんとすることは、問われているところの事実が意味についての事実を越える(go beyond)ということである。大統領職の権力は意味論によって創出されるが、問われているところの権力は意味論の権力を越える。誰かが何か言ったとか質問をしたという事実と、誰それが大統領であるとか預金口座に千ドル持っているとかの事実の間には、直観的に明らかな区別が存在する。わたしは前者のクラスを「言語的」と呼び、後者のクラスを「非言語的」と名づける。しかし非言語的ということは、それが言語的に創出され維持されるものではないということを意味しているわけではない。この章の目的は「厳密にどのように」を説明することである。

これ以降で「制度的事実」と言ったら、特に断らない限り「非言語的制度的事実」のことを指す。わたしは以下の問いに答えたい。それによって制度的現実が創出される手続きとは何か?制度とそれら制度のうちにある制度的事実の違いは何か?制度的事実の最初の創出と存在の継続の違いは何か?いかにして制度的事実を既存の制度なしに創出することが可能なのか?

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5-1a (ver. 0.1)

2010年03月23日 | MSW私訳・Ⅱ
第5章 制度と制度的現実の一般理論:言語と社会的現実

5-1 制度的現実の海

我々は制度的事実の海の中で生きている。我々にはたいがいそれが見えていない。それはちょうど、サカナにとって彼らが泳いでいる水が(ほとんど)見えていないのと同じである。だから我々も、我々がその中を泳いでいる制度を見ることが(ほとんど)できない。制度的現実は例外なく言語で構成されているが、言語の機能するところはとりわけて見えにくい。このことは、我々が会話をしたり、電話を受けたり、お金を支払ったり、メールに返事したり等々の折に、しばしば言語を意識しているはずのことを思えば奇妙なことだということになるかもしれない。わたしが言いたいのは、社会的現実を構成する際の言語の役割ということに我々が意識的でないということである。我々はそうした行為が現実に我々が行う意識的な言語行為だと気づいているし、またそれらが他の人々が話す折のアクセントのようにどうでもいいことだと、しばしば気づいてもいる。しかし我々がその中に浸されているところの権力関係における言語の構成的な役割は、その大部分は我々に見えていない。

他の文化の中に生きることのひとつの利点は、それによって異質な、馴染みのない制度的構造にずっと意識をとがらせるようになることができるということである。誰だってわが家の中では制度の海にあんまり気づかない。毎朝わたしは、わたしとが共同で所有している家で目を覚ます。わたしはキャンパス仕事にクルマで出かける。車はわが夫婦の共有物として登録されている。わたしはただカリフォルニア州の正規の運転免許を所有しているがゆえにそれを合法的に運転することができる。途上、わたしはわたしの古い友達からかかってきた電話を違法なのだが[おぅ]ケータイで受ける。オフィスに着くと制度的現実の重みはいや増すことになる。わたしはカリフォルニア大学バークレイ校哲学部に所属している。わたしの周りには学生同僚大学職員達がいる。わたしは大学課程を教授し、生徒にいろんな宿題を課す[学生どもの溜め息が聞こえてくるようだ]。大学はわたしに給料を支払うが、わたしはその現金を見たことがない、というのもわたしの給料は自動的にわたしの銀行口座振り込まれる。講義のあとわたしはレストランへ行く。その代金クレジット・カードで払う[出カクルトキワ忘レズニ。いやamexかどうかは知らんけど]。キャンパスに戻ってくるとわたしは保険外務員に、わが家の火災保険証書について電話をする。また旅行代理店ヒコーキの切符の予約を、電話で依頼する。学会招待講義があるのだ。わたしは夕食会招待応諾する。以上のどの場合でもわたしは言語行為を行っている。太字で書いたもの[原文ではイタリック]はすべて制度的現実の基礎である。読者はこのリストを続けて自身のかかわる制度的ゴタゴタ(entanglement)の目録を作ってみてもらいたい。

上の段落で太字で書いたすべてはさまざまな様相で制度的現実にかかわっている。制度的事実はインフォーマルな交友から、多国籍企業の極端に複雑な法律までの範囲に及んでいる。ある現象なり事実なりが純粋に制度的であるかどうかを問うための最も単純なテストは、その存在が現に権利義務力を導くものであるかを問うことである。権利義務力は権利・義務・責務・要請・権限などである。交友や夕食会のように(成文化されていない)権利や責務もあれば、市民や被雇用者としての(成文化された)権利や責務もある。制度的事実なき権利義務論が存在する(たとえば、わたしは直ちに救援さるべき人々を、わたしができる限り援けるべき道徳的責務を負っている)が、いかなる権利義務論も持たない制度的事実は存在しない。これらの制度的権利義務力は共通の論理構造を持っている。本章の目的はそれを現にすることである。

典型的な制度と(非言語的)制度的現実のタイプのいくつかを列挙してみる。

政府の制度:立法・行政・司法・軍隊・警察
スポーツの制度:NFL・アマチュア野球チーム・地域スポーツクラブ
個別目的の制度:病院・学校・大学・労働組合・レストラン・劇場・教会
経済の制度:製造企業・仲買屋・不動産屋・商売・パートナーシップ
汎用の構造的制度:お金・私有財産・結婚・政府
非構造的・非公的な(ほとんど)成文化されていない制度:
交友・家族・愛情・党派
それ自体は制度ではないが制度を含む人間活動の一般的な形態:
科学・宗教・気晴らし(recreation)・文学・セックス・食事
制度ではないが制度を含む専門的な活動:
法律・医療・学問・劇場・大工・小売業

(つづく)

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