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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

参考になる既訳はないか

2011年04月10日 | 私訳メモ
THNの私訳を岩波文庫の大槻訳を下敷きにして進めているわけであるが、今回の私訳プロジェクトは「自分で訳す」ことに必ずしもこだわっていないのである。つべこべ言っても公刊された(また高価な古本でも何でも入手することは可能な)全訳が大槻訳しかなく、それがまた㌧でもなく古めかしい書体と旧字と言葉遣いでなされているために、1960年代生まれのわたしはすでに読むのが難儀なのである。基本的にはこの難儀を取り除くためにやっているわけで、だから手っとり早い方法が他にあるのなら、遠慮なくそれを用いる気でいるわけである。

現状で大槻訳の他に参照しているのは中公から出ている抄訳で、いくらかは役立っているのだが、思ったほどは役に立っていない。この訳も部分的には、いや相当に大槻訳を参照しつつ作られたものではないかとわたしには思える。時折の誤訳を直したり、語彙や表現を現代日本語のそれに近づけてはいるわけで、それ相応の価値はあるのだが、わたしが読んで変な訳だと感じるところは大槻訳でも抄訳でも同じように変だったりするわけである。

この調子だと先が思い遣られる感じがするので、改めてWeb上から拾える日本語訳がないものかと探してみると、第三巻については全訳があった。第二巻についてはまったく見当たらない。第一巻についてはよくよく探すと、最初の方だけわたし同様に私訳を手掛けて、早々に放棄された(笑)とおぼしきものがちらほら見つかる。・・・まあアレだよ、既存の訳を参照せずに頭から自分で訳そうとすると、よほど英語の達者な人でもこの文章を訳すのは難儀をきわめるのではないかとわたしには思える。大槻訳は(書体文体のことはさて措いて)最良の訳とは言えないかもしれないが、かなりよい訳だ(とわたしには思える)ということである。

いつもならこんなことは言わないが、今回に限って言えば「お前みたいなど素人のヘボ訳など読んじゃいられない、オレの訳を読め」というオススメがあったらいくらでも申し出てもらいたいことである。遠慮なく参考にさせていただく。

ただしもちろん、このblogは通信途絶blogで、コメントはつけられないし、その設定を変更するつもりも予定も一切ない。このblogの題名なりURLなりをつけて何か書くか呟くかしてもらうばかりである。自サイトの検索は毎日(!)やっている(むろん、悪口を言われたら応酬するためにである)から、そのうち気がつくはずである。ただの悪口なら無視するか、悪口を倍にして返すとかするだけだが、このTHNのネタに限っては、悪意がないのに無視することはたぶんないと言っておく。いまこのblogの日々のIP数は200~300である。この数字は、このgooブログの場合、実数はその百分の一くらいに見積もっておけばいいことになっている(爆笑)。要するにまともに眺めている人はほとんどいない、どこかで誰かが変なことを言い出せば漏れなく検索にひっかかるのである。

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うーん

2011年04月06日 | 私訳メモ
イントロダクションの残りを一気に仕上げたが、正直怪しいところが結構残った。特に3番目のパラグラフの「ただそのとき~何を学ぶ必要もないような理由である。」までの訳はまったく自信がない、というかたぶん間違っている。このあたりは大槻訳でも何言ってるのか判らぬし、中公の抄訳では黙って省略されている(笑)。仕方がないからあれこれ捻ってそれらしい訳を作ってはみたが、いくら捻っても我ながら変である。しょうがねえなあ、と感じた人のために同じ箇所の原文を置いておく。

tho’ we be perfectly satisfied in the main of our ignorance, and perceive that we can give no reason for our most general and most refined principles, beside our experience of their reality; which is the reason of the mere vulgar, and what it required no study at first to have discovered for the most particular and most extraordinary phænomenon.

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ぐぬぬ

2011年04月05日 | 私訳メモ
ここ数日はずっと風邪でふせっているとは言いながら、せっかく始めたことを最初からサボっていても仕方がないからとりあえず本文に手をつけてみたわけだが・・・思った以上に手間がかかる。

基本的に訳文は岩波文庫の大槻訳を下敷きにして、中公の抄訳も適宜参考にしつつ、英語の原文と見比べながら自分の文章にリライトする格好で作っているわけだが、これだったら普通に自分で訳している方が早いんじゃないかと思うくらい手間がかかる。下はイントロダクションの半分くらいだが、これだけで2時間以上もかかっているわけである。頭痛はするし、熱もまだ残っているしで、その影響ではかどらないのは仕方がないが、回復してもそんなにペースは上がらないのではないかと思う。

だったらいつものように適当に「訳し飛ばし」てしまおうかということにもなるわけだが、やはりそうもいかない。いくら素人のお遊びみたいな作業だとは言っても、すでに邦訳があるのに後からやった方ができの悪い訳文になったというのではやってる方も面白くない。

まあ、それはそれとして、今日訳したイントロの冒頭部分だけでも、これはやっぱり読む価値のある本だと感じた。文体を自分好みにいじってみたりはしているが、わたし自身の基準で言って原文から離れた文章にはしていないつもりである。つまり語彙や文体を現代風に改める程度のことで、下の内容そのものは哲学の現在について述べられたことだと言っても少しも遜色がないように思われるわけである。

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さて・・・

2011年04月03日 | 私訳メモ
私訳プロジェクトを始めるときの恒例でまずは詳細目次訳を作ってみたわけだが、いきなりprobabilityに「半知識」などという変な訳語を作ってあててしまった。現代ならこれは「確率」と訳せばいい言葉だが、そう訳すと無用な混乱が生じそうだ。伝統的には哲学では「蓋然性」と訳すわけだが、わたしは誰かさんの影響で、蓋然性の3文字を目にするとアタマの中で「たぶん」とルビをふって読む癖がついてしまっている。つまり「蓋然性」では堅過ぎるし、「たぶん」ではくだけすぎる感じがするわけである。

ちなみに大槻訳ではknowledgeが「絶対的知識」、probabilityが「蓋然的知識」と訳されている。つまりknowledgeは「ちゃんとした」知識で、probabilityというのは半端な知識だというニュアンスが、たぶん原文からあるのである。中公の抄訳、土岐・小西訳では前者を「知識」、後者を「蓋然性」としている。すっきりとはするが、こうすると前者と後者の対比関係の含みが脱落してしまう。

そこで、あえてというか、とりあえずprobabilityを「半知識」と訳しておくことにした。本文を訳してみてこれが不適だと思ったら直すことにする。

もうひとつ、一種の冒険としてunderstandingに「理解」の語をあててみることにした。従来の邦訳ではすべてこの第1巻の題名は「知性について」と訳されている。文脈上の意味としてはそう訳して構わない気はするのだが、わたしは大学院とかで「知能科学」とかそういうことを専攻してきた人間で、「知性」とか「知能」といった言葉を使うことに慎重でありたいというか、ネガティブなこだわりのようなものがあるわけである。「人工知能」という失敗した科学の経験を忘れるな、ということである。

なお、このTHN(treatise of human nature)の私訳を始めるにしたがって、このカテゴリの題名を単に「私訳メモ」に改めた。

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はねぇ!

2010年12月27日 | 私訳メモ
いささか唐突に第5節を訳してみたわけだが、率直に言って途方もない話だと思わないわけにはいかなかった。少なくともいま現在のわたしにはとても信じられない。いくらなんでも無理しすぎではないだろうか?

もっともこの「無理しすぎ」の感じは、たとえばR・ペンローズのあの「心の量子重力理論」を聞いてそう感じるものと同じ種類のものである。

後者はつまり、心的現象のすべてが結局物理現象に還元されるものであるならば、またそれが脳内の物理現象に限定して記述可能なものであるならば、おおよそ既知の物理学において可能な答はこのようなものであるほかはない、というような理論である。ペンローズの主張する量子重力理論に、またそこからの演繹に誤りがないと仮定した上で、なおかつそれが到底信じられない話だとすれば、前提に誤りがあると考えるべきである。つまり心的現象のすべてが物理に還元されるわけではないか、それは物理であるとしても本質的に(どんな定義であれそのように定義された「脳」の)領域に限定できない種類の現象であるかのどちらかである(前者の可能性すなわち、物理が物理として閉じていないということはまったく信じられないので、わたしは後者だと思っているわけである)。

おなじことをサールの生物学的自然主義というか、この「もう何でもかんでも自然の一部だ理論」に適用するならば、ここでもやはりサールが(暗黙に)置いているはずの前提のどれかに、(すこし考えれば判るようなものではないという意味で)自明ではない誤りが含まれているはずだということになる。それが何であるかは、現時点ではまったくわからない。誰もわかっていないかどうかはともかく、わたしにはわからない。まずはこの前後の訳出を進めるしかないだろう。

ところでこの5節の第2パラグラフの冒頭の一文、これはどう訳すものなのかまったく判らない。たぶん「attention to now」は何かの成語なのだろうが、手元の辞書はもちろん、google先生に尋ねてみてもまったく埒があかなかった。

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参ったねこりゃ

2010年12月23日 | 私訳メモ
第4論文の結語を訳出する前に書いておきたい。サールの回答で「形而上学的必然性」とあったものがいったい何のことなのか、ちょっと興味深いところがあったのだが、丁寧に読んでみてもこの論文ではそれが何なのかについては一切述べられていないのである。

ホントのただの天下り式ではなくて、たぶん参考文献のどれか(このリストは割愛する)である程度述べられてはいるのだろう、が、それを追うのはさすがにアホらしいと感じる。「ここがロードスだここで跳べ」である。サールはそれをやっているのに、問題提起する側が跳んでみせないのはイカンではないか。どうせたいしたことは書かれていないに決まっている、というのも、そうでなければこんなところで「形而上学的」などという形容詞が用いられるはずもなかろうからである。

肝心なところで「形而上学」に逃避されてしまったのはひどい肩透かしもいいところだったが、しかしこの論文を読んでいるうちに因果(causation)ということをもっと詳しく考えてみるのは悪いことではなさそうだという気はしてきた。

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やべえw

2010年12月13日 | 私訳メモ
というわけでOF(optical frog)氏訳のMLSの和訳全訳を読み始めてみたら、のっけから「Reality and Truth」が「実在と真理」と訳されているのが目にとまった。やべぇ。

もちろん「やべぇ」のはこのOF氏訳ではなく、わたしの方である(笑)。周知のごとく、というか、周知でなかったらこのblogにあるMSWやTRWの私訳のどれかを眺めてもらえばすぐわかるわけだが、わたしはrealityをほぼ一貫して「現実」もしくは「現実性」と訳しているわけである。基本的にどっちが正しいのかと言ったら「実在」である。これは哲学用語なのである。ヤバイ。実にヤバイではないか(笑)。・・・笑ってる場合かって?まあもう少し先を読んでくれ。

うーん、今から全部の訳を再点検して訳語を入れ替えようか、などとしばし考え込んだ。通勤電車の中でもTRWを読みながら考え込んでいた。そして得た結論は「ま、いいや別に」であった。全部を放っておくわけにもいかないが、これからもこのblogの私訳では、文脈上支障がない限りrealityは「現実」と訳すことにした。

面倒くさいからか?まあそれもある(笑)。けれどももうひとつの大きな理由は、このrealityの訳し間違いに限って言うと、わたしはサールを読む以前からもう何度となくしでかしているからである。ぼんやりイメージの記憶に残っている限りでも十回以上、かれこれ二十年以上にわたってしつこく繰り返し間違い続けているのである。その都度「あ、これは『実在』だった」と恥じ入りながらアタマの中で修正するわけなのだが、何度やってもしばらくするときれいサッパリ忘れてしまって、元に戻ってしまう。ホントにわたしは生まれつき、異常にもの覚えが悪く、かつもの忘れが激しいのである。今回だって半年も経てばまた忘れてしまうに決まっている。だったらもういっそのこと「realityは現実」で押し通してしまった方がよくはないか。そう思ったわけだ。

なんでrealityを実在と訳し損ねるのか、実はもうひとつ理由がある。わたしは理科系の人間である。理科系の人間にとって「実在」というのは基本的に原子ないしはそれ以下の、それこそサールの表現を借りるなら「物理的粒子」のことなのである。だからsocial realityと書いてあるのを「社会的実在」と訳すことは、それが正しい訳であっても違和感があるのだ。realityという単語は哲学でなくても普通に頻出する語彙だから毎回辞書は引かない、それで気がつくといつの間にか「現実」と訳すようになってしまうのである。で、まあ、たいていは「現実」と訳しても意味は通る。まったく通らなかったらさすがに自分で気づくわけで、どうも「現実」は誤訳であるにしても(わたし個人にとっては)そんなにひどい誤訳ではないらしいのである。

まあ、そういうわけで今後もこのblogでは原則としてrealityを「現実」と訳す。ただし文脈上それだと意味の故障が生じる場合、かつそのことに気づいた場合(笑)には「実在」と訳すかもしれない。たとえば今日読んでいたTRWのテキストに、さっそく「consciousness is real.」という文が出てきた。これを「意識は現実である」と訳すのは、さすがにおかしい。「意識は実在する」だろう。

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「略語一覧」更新

2010年12月13日 | 私訳メモ
知らん間に某氏のMLS邦訳が部分訳ではなく全訳になっていた。PDFにして130ページ。Scribdの方もアップデートされているのかもしれないが、URLが無茶苦茶長い上にログインとか何とか面倒くさいから、さしあたりご本人のサイトに置かれている方のpdfにリンクしておく。ともあれサールの社会的存在論の文献では、これが最初のまともな邦訳だということになるわけである。

さるところのMSW評によればCSRとMSWの間にサールはいくつか重大な立場上の変更をやっていると書いてあった(この評文、そのうち訳してみようかと思っている)し、CSRもいっぺんちゃんと読み込まないとなあ、と思いながらMSW訳の改修と併せて怠けているわけだが(笑)、まずはこの待望久しい全訳を読んでみようかね。日本語だからね。嬉しいったらないね。

右カラムを辿ってもらえばリンクがあるのだけれど、一応ここにも略語一覧(ver. 0.1.1)へのリンクを。対応する原書と邦訳書へのリンク集にも一応なっている。一応というのは、当然ながらamazonのは全部アフィリンクだからね(爆笑)。

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エーイはっきりしない!

2010年12月12日 | 私訳メモ
「たぶん最後には我々が最も大事にしてきた仮定、たとえば自由意志のような仮定のいくつかを諦めなければならない。」と訳した箇所の原文は「Perhaps in the end we will have to give up on some of our most cherished assumptions, such as for example, free will.」である。諦めなければならない「かもしれない」ではなく「だろう」である。これはかなり強い表現だと思う。

しかしそう「だろう」というのなら、自由意志を仲間外れにして物理化学に整合する現実論の哲学を作ったところで、それが何になるのだとわたしは改めて言わざるをえない。それ抜きでよければ物理化学は現在の枠組みままで十分理解可能な、少なくとも物理化学に基礎づけられたという点で有意味な社会的存在論の機械モデルを、そんなに遠くない未来に提示するようになるはずである。少なくともそうなっておかしくないとわたしは思っている。また、それが実験ないし観察された事実によって、つまり実証的に裏づけられるものである限り、そのようなモデルが科学的に無意味だということにはならないはずである。ただ、そんなモデルは我々自身の個々にとって、つまり人間存在のこちら側から見た現実においては、まったく何の意味もないものなのである。なるほど我々の存在や行為はしかじかのごときモデルに沿って決定されるのであろう、ですが、ここはあの例のレストランなのです。ご注文は何になさいますか、先生。決定論の待ちぼうけにつきあってくれるほど、レストランの従業員は暇じゃあないんですよ・・・。

他の著作で言ってることと併せて考えて、サールはやはり自由意志の問題に関しては相当悩んでいるし、この通り記述にも揺れを持っているように思える。

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年を経た哲学者の話

2010年12月12日 | 私訳メモ
この「基礎的な現実と人間の現実」の冒頭はMSWの冒頭でもやはり述べられていたことである。サールはこれを自分の哲学の総決算的な課題だと見なしているのは確かだと思える。

何が言いたいかというと、世の東西と分野とを問わず、学者というのは老境にさしかかるとしばしば闇雲に大きな課題に取りつこうとするものだということを、改めて思わないわけにはいかないということである。

わたしのような、もともと闇雲に大きなことばかり考えたがる中二病者のなれの果てみたいな素人哲学はともかくとして、これはたぶんそうではないかと推測するのだが、世の中にはオースティンを継承した言語行為論の哲学者ないし語用論の言語学者としてのサールについて真面目に丁寧に、地味な上にも地道な研究にこつこつ取り組んでいる学者が世界中にたくさんいるはずで、そういう人達から見ると、近年のサールがこうした雲をつくような大きな課題に取り組むようになったことは、こういうと語弊があるかもしれないが、いささか嘆かわしいものに見えていたりもするのではないかということである。

もちろんわたしが読み得ている限りで言えば、闇雲に大きなテーマであることは確かだとしても、サールの議論はまだまだ地に足のついたものである。わたしにはそう思える。わが国の学者であまりにしばしばよくあるような、その業績以上にエライ人として学会の中で崇められていたりする場合に典型的にそうなるような、過去の業績を悉く台無しにしかねない、いやきっぱり台無しにしてしまう大ボラ吹きや(仏教と神道のどちらかの)神秘主義に陥ったりする類とは、さすがにわけが違っている。英米人もトシを取ると急速にキリスト教神学のようなものに接近しはじめる人が結構いるとは聞いているから、サール先生はまだしも踏ん張っている方だとは言えるのではないか。

わたしは自分ではろくなもの書けないくせに、元もの書きの直観力だけは今でもかなり鋭敏な方である。日本人の学者が不可逆的なトンデモに走った場合は、たった一文からでもその兆候を見抜いて直ちに全力離脱できる自信があったりする。日本の学者は論理よりはよほどキーワードでものを考えたがる(考えたつもりになりたがる)傾向が強いから、一文どころか一単語で見抜けることも珍しくはない、とっても簡単だということもある。けれども外人の学者が英語で書いているとなると、「英語の部屋」の中でいい加減な逐語訳をやってるだけの素人哲学にそんな勘は働かない。本当のところ、もともとアタマの中の何割かは伝達物質ではなくデンパが飛び交っているに違いないところのわたしが、アメリカの老哲学者の老デンパに感染しているだけなのかもしれない。

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ちなみに

2010年12月09日 | 私訳メモ
わたしが下の第4論文を淡々と訳しているのは、訳文作りは淡々とした作業だからであって、この論文の主張するところに賛成するとか、賛成はできなくても優れた論文だと思って感心しながら読んでいるからでは全然ない、ということは断っておいた方がいいような気がする。

わたしはこれでも一応修士(理学)だから、理科系の英語論文はそれなりに読んできたクチである。「正直、ハラハラしながら」第4論文を読んでいる。もっとあけすけに言えば、仮に脳科学の連中の言うことがまともであって参照すべき内容がそこにあったとしても(反事実的条件)、哲学者というのはそんなに安易にこれらの主張を参照引用しない方がいいだろうということである。わたしは科学者としても全然優秀ではないわけだが、それでも経験してきた限りでは、理科系の知識の非専門家がこういうことをこういう風に書いているのを見かけると、そぞろこっちの方がソワソワしてしまうほどの不安にかられるのである。ほんとに優秀な専門家はどんな分野でも例外なく性格が悪いから(笑)こんな論文を読まされることがあると(人の見ていないところでは)腹を抱えて笑い転げかねないと言っておきたい。

サールは自著の中では、特に啓蒙的な色彩の強い「MiND」では、あたかも「意識は脳だ」と言っているかのように受け取られかねないことを書いていたりする。しかし、この第4論文あるいは第3論文への返答を読むとわかるように、サールの考えは決してそうした通りのいいものではない。サールの哲学にとって第一義的なのは現実的(な事物や経験)とは、総体的に言って何なのかということであるように思う。科学にしろ哲学にしろ現実的な事物や経験のある側面を理解するのに、それぞれが固有の優れた部分を持っているというだけで、どちらかが真の記述を与えるとか、あるいは両方が真の記述であるが、どういうわけか通約不能なのだ(笑)とか、そうした考えにはまったく与していないのである。

それは一見するといかにもな哲学的ガンコ爺の態度のように見えもするが、実のところ理科系の専門家が読んで真面目に考え込むことがありうるとすれば(あるとすればだが)、その論理の防御力はもちろん攻撃力(笑)においても、たとえばこの論文の著者らより何千倍も難敵で、しかも実質らしきものがそこにある、といったレベルの高さでサールの哲学の方だとわたしには思える。哲学という知識の権威には、ましてや哲学者の権威や盛名なんぞはまるっきり歯牙にもかけていないのが理科系の世界で、にもかかわらず、ということである。


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いやはや

2010年12月08日 | 私訳メモ
今日はいろいろ間違ってばかりでもう滅茶苦茶である。朝は慌てていてTRWのコピーを間違えて持ち出してしまった。今日は本当は「第5論文への返答」の続きであるはずだったのに、「第1部第8章」の続きになってしまった。おまけに、昼休みに作った訳文のファイルを間違えて、前回のファイルを持って帰ってきてしまった。つまり、下にある第1部第8章の最後の部分は、帰ってきてそれに気づいてから慌てて訳しなおしたものである。

短いし、筋はだいたい覚えていたのですぐできた、とはいうものの日本語は滅茶苦茶である。週末にでも改修したい。

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「使えそうなものは試してみよ、使えるものは大事にせよ」

2010年12月04日 | 私訳メモ
下のTRW私訳の一部だが、文脈から外して取り出してもなお名言だと思うから、改めて原文を掲げてみる。

"The golden rule of all methodology is try any method that you think might work, and stick with any method that does work."
── John R. Searle

まったく、こういうことを言うときのアメリカ人というのは、どうしてこう格好いいのだろうか。

(Dec.5,2010)
題名の日本語を「××の言葉」風にいかめしくしてみた。このblogの私訳では時々わざとくだけて訳したりしているわけだが、この場合に限っては文語的にした方がおさまりがいいようである。

それはともかく、今の日本の企業経営者とかはサールの爪の垢でも煎じて飲んだ方がよさそうな言葉である。使えそうなものはケンもホロロに追い帰し、使えるものは持て余した揚句クビにしてしまう、それがいまどき典型的な日本企業である。企業経営に方法論と呼べるものが、したがって企業理念も何もないことを末端の次元から証明しているような企業に、グローバルであれ国内であれ、誰が真面目に投資するだろうか。

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もうね

2010年11月21日 | 私訳メモ
下の部分(TRW-R03b)なんかはもう、訳しているだけで非常にキモチがいいわけである。もうキモチよすぎて、いつにも増してたくさん誤訳をやらかしているに違いない気がするのは生憎なことである(笑)。でも翻訳がいつもこんな風にキモチのよいものであったら、わたしもこれほど(何を読むにもいちいち私訳を作ってみなければ始まらないくらいに)英語が苦手になったりはしなかったかもしれない。まあそんなうまい話はないということだ。

それはそれとして、わが国における専門の哲学者という人達にも、たまにはこういうキモチのいいことを書いてもらいたいものである。もっとも、それをするためには、たとえば人工知能の研究全体に「中国語の部屋」の冷水をぶっかけて、それを誰でも読んでわかる程度の平易な言葉で主張できるほどの哲学的実力がなければならないわけである。それを専門の哲学者全員に求めるのは無理な要求だということになるだろうか。わたしにはそうは思えないのだが、どうだろうか。サールほどの喧嘩好きがそうそういるわけがない(笑)という気はするが、普通に反論を述べるくらいのことはいつだってやったらいいのだと思う。

科学者というのは専門の研究をやってる間は、哲学者だろうと素人だろうと、その分野の門外漢などが軽々しく寄りつけないようなことをやっているものだが、たまに世間並みのことを世間の前で発言すると突拍子もないデタラメを言い出すことが少なくないものである。そうしたデタラメが反論されないままやり過ごされることは、サールも述べているように哲学者の仕事と能力を疑わせるという意味で哲学にとっても恥であるし、専門の科学者というのが世間知らずのボンクラ揃いだという偏見を例証してしまうという意味で、科学にとっても恥であるし、ひいては人々をしてこの世界の現実についてよりよく理解することから遠ざけてしまうという意味で、その社会全体の未来にとってもいずれ恥になると思う。

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覚書

2010年11月19日 | 私訳メモ
下の第3論文への返答の冒頭部分、これを読んでて「あーっ」と思った、ために第4論文の翻訳に手がつかなくなってしまったのである(笑)。

論文に沿って回答しているからなのか、サールにしてはもって回った書き方をしているような気がするが、言われていることはかなり明確だと思う。簡単に言えば「わたし(サール)の生物学的自然主義は何も生物学に依拠して意識や志向性を考えようということではない。それどころか生物学の方が生物学的自然主義に沿って意識や志向性を考えるべきなのだ。現にそうなりつつあるのだが」ということである。つまりサールが生物学的という場合、それは既存の生物学の知見の集まりそのもののことを指しているわけでも何でもなくて、それ自体が存在論における本質的な概念として提示されているのである。

本質的な概念だと言ったって「生物学的」は他の任意の記号に置き換えられる未定義語の類ではなく、それ相応の具体的な意味を帯びた言葉として使われているわけである。そのへんはどうなっているのか。サール自身はここでもそんなにわかりやすい説明はしていない気がする。ただわたしなりに言い直してみると、サールの存在論的見取り図というのは言わばウェーブレット解析のようなものなのではないかということである。ウェーブレット解析による時間・周波数分析で、その周波数軸の代わりに「記述の水準」を軸として立てたところをイメージする。そうすると、意識とか志向性といったものは概ね「生物学的」と呼んでいい現象のあたりではっきりとしたスペクトルをもつはずだと、わたしはともかくサールはそんな風に考えているのではないかという気がする。もっと簡単に(しかし簡単すぎてかえってわかりにくいかもしれない)言えば、サールの「生物学的」は開かれた概念として提示されているのだということである。

もうひとつ、わたしが非常に興味深いと感じたのは「意識と志向性は自然の現実的な部分なのである。それらは存在論的に他の何にも還元しえない。それらは我々の生物学的自然の一部である。」と言っている箇所である。こうした記述は、どことなく「人間は自然の一部である。人間は自然に働きかけてそれを人間化する一方、自身は自然化の作用を受ける」という、あのマルクスの自然哲学を彷彿とさせないだろうか。わたしはそんな気がするのだ。もちろんサールはマルクス主義者などではないし、そもそもマルクスやヘーゲルを読んだことがあるのかどうかも怪しいくらいである。読んでいたとしても頭っから否定するのは間違いないところだろう。しかしそうだから逆に、知らん間にそこへ近づいているということがありうるのではないだろうか。

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