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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

えーと

2011年06月16日 | 私訳メモ
今日のTHN私訳は妙に分量が少ない上にうpする時間も遅いな、と思った人がいるかもしれないわけだが、例によって今日はWindows Updateで時間を食われていたわけである。

このあとのパラグラフも半分くらいはできているのだが、パラグラフが長くて今日中にまとめきらないので、これも含めて明日ということにする。

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今日は言い訳ではないぞ

2011年05月10日 | 私訳メモ
このblogにTHN私訳を眺めに来る人の中にはTHNの既存の邦訳書を持っていない人もいるだろう(どれもバカ高いもんな!)が、持っている人は見比べてみてもらえばわかると思う。今日も今日とてたったの2パラグラフだが、この2パラグラフの訳文を作るのに結構苦心しているのである。

訳し直してみれば書かれていることは(「観念は印象の模写にすぎない」というところを除いて)どうってことはないのだが、大槻訳なんかはもう一読して何言ってんだか判んないわけである。今日の我々は、テレビやPCのモニタで文字通り「色のついた点のパタン」を眺めているので、こういう説明は「どうってことのない」ものだとわかるわけだが、そうしたもののなかった時代にこの部分を訳そうとした人も、また書いているヒューム自身も、それは大変な思いをしたことではなかったかと思ったりする。

なぜそう思うかというと、わたし自身、中学生のころにCRTディスプレイ回路の電子回路図を初めてみたとき──そう、それも「つくるコンピュータ」の記事のひとつだった──その意味内容を理解するのにかなり手こずったことを覚えているからである。それ以前にテレビ受像機の構成を理解していればそれほどでもなかったかもしれないが、そうではなかったから本当に難儀だった。しかしそのとき苦労したおかげで、わたしはCRTディスプレイの機能構成とテレビ受像機の機能構成を合わせて一度に理解することができたのである。

・・・まさか誤解する人もいないだろうと思うが念を押しておくと、過去の自分の勉強熱心を吹聴したくてこんな思い出話を書いているわけではまったくないのである。

今のワカモノには理解しにくいことかもしれないが、わたしくらいの世代にとって「テレビ」というのは、それまでは放送局から送られてきた番組を受信して表示するだけの装置だったわけである。それが「この回路が何だか判ればテレビに自分の好きなものを好きなだけ表示させられる、それどころか表示内容を自由自在に『操作』することさえできる」というのだから、田舎街の中学生はもうそれだけで欣喜雀躍、ほかのあらゆることを放り出してでも(事実かなりな程度まで放り出していた)ひたすらそれを読解し理解することに熱中したのである。

・・・もっと「中学生にもすぐわかる」書き方をしようか。つまり、ついこないだまでは、いずれそれが自分のものになりうるとは、まったく思ってみたこともなかった種類の「自由」が、まさしく目の前で大股を広げていたのである(笑)。


この動画は以前にも貼ったことがあるのだが、「great wide open」ってそういう意味だから、ということでもう一度貼る──そう言えばトム・ぺティ&ハートブレーカーズも、確かそのころデビューしたのだった、はずである。後にはスーパーボウルのハーフタイム・ショウに出てくるようなビッグネームになったわけだが、当時は普通のロックンロール・バンドだった。

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ヒャッハー!言い訳だー!

2011年05月09日 | 私訳メモ
なんだよ、連休明けの初っ端から今日の私訳はえれえ短いな、などと怒らないでもらいたい。

連休の途中でやる気をすっとばしてしまったわけである。これから徐々に回復させていくつもりである。また今日は仕事の方も連休明けで、朝昼の休み時間にもちょっとした作業──連休中は電源を落としてあったサーバの再起動とか──をやったり、メシ食おうとしたら売店のPOSがトラブったとかで余計な時間を取られたりとかして、私訳の原稿書きにあてる時間があまり取れなかったのである。それに加えて部屋に帰ってきてからも連休中ずっと部屋に閉じ籠っていて生じた莫大なゴミの後始末とか何とかをやったり、あとはご覧の通り、もう寝ると言っておきながら寝つけなくていろいろ書いていたせいで寝不足だとか、ニコで懐かしい曲を見つけて思わず遊んでしまったりしているとか、まあ色々あんねん(笑)。

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えーと

2011年05月02日 | 私訳メモ
いましがたALT-THN1-0の続きを追記したのだが、これは朝から原稿をいじくり回して、いい加減シビレを切らしてついうpしてしまったというのに近いものである。だからまだ相当手が入る可能性がある。

実際にはイントロダクションのこれ以下の部分も過半はできているのだが、この部分(「人間本性の学は万学の基礎である」と勝手に小見出しをつけた部分)が仕上がらないうちに後を続けられない気がするわけである。どうもこの部分が、実際に手を入れてみると一番苦心するところである。単に文章を補足したり削ったりするだけではなく、文やパラグラフの順序を微妙に入れ替えたりして、なんとかして頭からすっと流れるような文章に作り変えてみようとしているのだが、これが実に、なかなかうまく行かないのである。

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さて・・・

2011年05月01日 | 私訳メモ
なんだまた最初からやり直す気か、と思った人がいたらそれは勘違いである。通常の私訳には「THN-x-y-zz*」の形式で題をつけている。下はそれに「ALT-」をつけた、同じネタの別系列の訳である。言うなれば「人間本性論オルタナティブ」である。

せっかく私訳を作るのだから、本来はここまでやりたいのである。できる限り、誰が読んでもスラスラ読めて、なおかつ、一読して何を言ってるのか読み違えようのない日本語文を書きたいわけである。もちろん下に根本的な誤訳がないと保証するものではまったくない、というか、ここまでいじるのだから原文の意味にこだわる気は、もともと強くないのである。

本当はこれをサールのMSWについてもやりたかったわけである。でもさすがに存命の哲学者の、まだ公刊された訳書もない著作について勝手に私訳を作った上に、勝手な読みで改変版まで作ってしまったというのでは失礼にもほどがあるわけである。だったらそういう気遣いはいらなさそうな古典でやろうと思って、素人哲学でもそれをやる意味のありそうなのは、やっぱりヒュームのこれに限るだろうということになって、いまやっと手がついたところである。

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参ったな

2011年04月30日 | 私訳メモ
2-02の訳はチンプンカンプンではないかと怒られるかもしれない。しかし原文もそうだし、既存の邦訳も総じてチンプンカンプンなのである。ヒューム自身、このあたりはいささか辟易しながら書いていたところがあるのではないだろうか、そんな気配がある。21世紀の現在にこれを読んでいる方はもっとそうであるわけなのだ。

解析学におけるcompactness(コンパクト性)という概念の発見は、やはり大変な発見だったのではないだろうか、と思う。

ともあれ、前にも言ったようにこの連休中に、これまで訳した部分をまとめて再点検したいと思っているわけなのだが、どうも2-02の内容がはっきりしない上に、それをはっきりさせるには2-03くらいまでは読みこんでみる必要がある。そしてこの2-03というのがまた無駄に長いのである。とりあえず1巻2部の翻訳は中断して再点検を優先するか、2-03の訳出を優先するか、ちょっと悩むところである。

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うーむ

2011年04月24日 | 私訳メモ
中公の抄訳を持っている人ならわかる通り、下の1-07fに該当する部分は抄訳ではまるまる省かれているわけである。

ま確かに、どうでもいいと言えばどうでもいい話ではある(笑)のだが、どうでもいい話だから省かれているというよりは、ここで「理性の区別(distinction of reason)」と呼ばれているものが、いったいどういう脈絡で言われていたものなのか、現代の脈絡からは見えなくなっている、ぶっちゃけた話distinction of reasonに適訳をあてはめるのが難しいので省かれたのではなかろうかと邪推してみたくなる。自分で訳し直してみると、大槻訳にも何箇所か(わたしでもわかる)明らかな誤訳があった。つまりかなり唐突に挿入されている話であることに違いはなさそうなのである。

けれどもここの議論が本当に「どうでもいい話」なのかどうかは留保した方がよさそうである、というのも、訳語に悩んで「distinction of reason」でググってみたら、何とまさしくこの箇所について論じた論文があるのを発見したからである。興味のある向きは自分でググってみればいいと思う。

ほかに、通して訳してみるとresemblanceに「類似」という訳語をあてるのはどうしても不適だと感じられる。これはつまり「似ているとか似ていないとか表現されるような関係」のことで「似ていること」そのもののことではないわけである。いいかえれば「類似」とあるところを「相違」に入れ替えても故障は生じないのである。ただ先に訳したところで出てきた通り、ヒュームは「相違は関係の一種ではなく関係の否定だ」と考えているから、全部「類似」で押し通しているというわけなのである。

しかしまあ、とにかく第1巻第1部は終わった。

で、私訳をやってる間はいつもそうだが、かなり遮二無二訳しているので、あちこちに矛盾や誤訳があってもやってる本人はほとんど気づいていなかったりするわけである。もうじきGWなので、GWは先へ進むよりはイントロから第1部までの読み直しをやった方がいいかもしれない気がしている。先は長いというか、もう長いったらない、のであるから。

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ヒュームがTHNを書いたのは20代前半である

2011年04月24日 | 私訳メモ
そう、何が言いたいかというと、

・・・これまで用いてきたような退屈でグズグズした方法は捨ててしまうこと、あちらこちらの辺城僻村を攻略して回るのではなく、これら諸学問の首都中枢である人間本性そのものへと、まっすぐに進軍することである。ひとたびこの首都を落としてしまえば、我々は他のどこだろうとたやすく勝利を得られよう。(イントロダクション)

たとえば「戦争したら負けそうな国に限って交渉の途をえらぶ」と言わないで、「負けそうな国に限って征服の途に乗り出す」などと誰かが言ったとしたら、語に観念を関係づける既得の習慣がここでも働いて、直ちにそれが突拍子もない言い草だとわかる・・・(1-07)

どうもこういうところを読んでいると、つべこべ言っても書いているのはやっぱりワカモノであって、それもまあ、あからさまにネトウヨみたいな奴だなあ(笑)と感じるわけである。

デカルト先生みたいに朝寝し放題のスチャラカ軍人だったというのでもない、ヒュームの経歴のどこをひっくり返してもこんな、ある意味で「勇ましい」記述が相応しいと思えるところはないのである。ヒューム先生はTHNの着想を、十代後半には早くも得ていたとされているが、その十代のヒュームというのは、今でいうなら軽症うつのヒキコモリみたいな人だったようなのである。

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ああ、そうそう

2011年04月18日 | 私訳メモ
昨日はいろいろ手を入れたので書き漏らしていたが、THNの第一巻の表題の訳を「『知る』ということ」に改めた。以前はunderstandingの直訳で「理解」としていたものである。この案は最初からあったのだが、「知るということ」は英語に訳し戻せばknowingなので躊躇していたわけである。

そんなに「知性」がキライなのかと言って、別にキライではない。ただ、知性はやっぱりintelligenceだろうと思うわけである。混乱すると思う。この第一巻の内容はそうじゃなくて「知覚=印象と観念」なわけである。だから「知覚」ないし「観念」としてもいいくらいなのである。しかしこれらにしても標題として掲げると、「知覚」だと認知科学屋とかが「なに?」とか言いそうだし、「観念」だと「なーんだ観念論か」ということになりかねない。そういうものではない(たぶん)わけで、この本は実際、もっと虚心坦懐にすらすら読まれてしかるべきだと思うのである。何も別に、実はヒュームが現代の誰をも凌駕しているとか、そういうことではないのである。

今まで訳したところを眺め返しても、ヒューム自身が後にはこの著作自体を自著リストから抹殺したというのは、中身がどうこうの問題ではなく、単に文章が若書きでしっちゃかめっちゃかだったからだというのがよく判る感じがしてくるわけである。いくら18世紀の英語でもこれはしっちゃかめっちゃかの部類に入るはずである。まともな日本語訳がないのも、これを原文通りに訳してすらすら読める日本語にするのは、たぶん不可能だからである。だったら後でちゃんと書き直せばよかったのにと思うのは人情だが、不思議なもので、若書きのしっちゃかめっちゃかを後で書き直すと、しっちゃかめっちゃかの方にあったはずの取り柄がなぜか消え失せてしまうのである。

じゃあ、である。専門家が訳すとなるといい加減な訳はできないから、原文のしっちゃかめっちゃかまでそのまま再現したような訳ばかりになるわけだが、わたしみたいな素人哲学ならそんなことは知らぬ顔して自分の訳をやっても、たぶん叱られないだろうと思うわけである。

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てなわけで1-06節

2011年04月17日 | 私訳メモ
THN私訳の1-06の直しがようやく終わった。本体(substance)とおまけ(mode)は左の通り原語併記の形をとることにした。これでスコラ哲学の好きな人も真っ青になることはなくて済む(笑)だろう。

これを私訳メモとして別に記事を立てるのは、私訳の方の投稿日時を変更すると記事の順序が狂ってしまって、この間のメモが何だか判らなくなるからである。

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ああ、面倒くさい!

2011年04月17日 | 私訳メモ
「本体/おまけ」の訳を一貫させるためにこれまでの訳文をさらってみた(これがもうマジ面倒くさい)。そうそう頻繁に出てきているわけはないと思っていたが、案の定目次と1-4節にしか出て来ていなかった。

ついでというか、さっきのWikipediaの記述から考え直して、qualityの訳語を当面「性質(quality)」で一貫させることにした。以前書いたように納得のいかないところが残るのだが、単に「質」と書くとどうしても日本語文としてこなれない感じがしてしまうのである。そんなことするくらいなら「スキマ(gap)」方式で原語をいちいち併記する方がまだましだ、と判断した。手で書くとしたら面倒くさいが、エディタなら辞書登録しておくだけでいいので簡単なのである。

あと、1-1-04cのカテゴリ名が間違っていたので直した。

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THN大槻訳の訳註とメモ(1)

2011年04月17日 | 私訳メモ
以下は大槻訳の各巻末に付された訳註の抜粋である。用字用語文体等を適宜アレンジしている。また必要に応じてメモを付す。

・イントロダクション
「自然宗教」(natural religion)とは、宗派的成立宗教の礼拝その他のさまざまな付加物をのぞいて、すべての人に共通な人間本性の自然性のみに基づく宗教、または宗教の本質をそうしたところに局限して宗教を解明しようとする試み。そしてヒュームの考えたところは、今日の科学的宗教学に近い実証的宗教研究であった。

※ ちなみに「自然宗教」には以下のふたつの異なる意味がある。

  (1) 人間の自然な本性、つまり理性に基づく宗教。
  (2) 素朴な自然崇拝の総称。アニミズムとか。

(1)は近代哲学に特有の意味で、(2)は宗教社会学や人類学における意味である。大槻訳の訳註にある通り、ヒュームがいう場合の自然宗教は専ら(1)の意味である。ややこしいのは、どちらの場合でも自然宗教の対概念は「啓示宗教(revealed religion)」だということである。(1)の自然宗教に対する啓示宗教とは、近代哲学以前の、専ら神の恩寵とか奇跡とかに基づく宗教のことになるし、(2)に対する啓示宗教とは、自然物や自然現象の崇拝ではない、預言者とか救世主とかの言葉(啓示)に対する信仰のことになる。・・・おおすげえ、自力で説明できた(笑)。

・1-06
「様相」(mode; 本私訳の「おまけ」)とは対象ないし「実体」の非本質的な質をいう。スコラ哲学に始まって、デカルトが言い、大陸の合理論的形而上学が一般に継承した概念である。これに対して「属性」(attribute)が考えられるが、ヒュームはこれを言わない。

「実体」(substance; 本私訳の「本体」)は変転する現象の基礎、つまり現象の多様な現れはその変容であると考えられるような、恒常的で自己同一的なものを言う。この意味の「実体」は、スコラ哲学に始まってデカルトおよびそれ以後の大陸哲学で用いられた。

「偶有」(accident; 本私訳ではこれも「おまけ」)は、ある対象を考えるのになくてもさしつかえないような質をいう。「様相」を非本質性の側から規定すると「偶有」になる。

要は現象=実体+様相だということである。だから対象(現象)=本体(対象の同一性にかかわる、つまり本質的な部分)+おまけ(非本質的な部分)だと言っても、必ずしも外れた訳だということにはならないように思える。これらについての他の説明を拾ってみ・・・ようとしたが、適当なものが見当たらない。かわりに質(quality)に関連して以下の説明を見つけたので引用しておく。

【属性】(Wikipedia)
スコラ学などの古典的なアリストテレスの系譜の哲学の用語法では、attributeは本質に属し、本質を構成する性質をいった。対し、propertyは本質には属さないが個体の有しうる、有している特性をいった。ただし、この区別は近世以後混交し、現代ではほとんど用いられなくなった。

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いやはや

2011年04月15日 | 私訳メモ
そりゃあ無茶だろう、と言われるであろうことである。「実体」を「対象の本体」はまだいいとして、「様相」を「おまけ」とは何事であるか。つまり「対象」というのを商品か何かだと思って、その価値の本質的な部分を「本体」、それ以外のどうでもいい部分を「おまけ」と呼んだりするのを、そのままあてはめてみてはどうかと思って試しにやってみたのである。

もちろん「実体」とか「様相」の語をこれらの意味で使うのは、哲学の伝統ではそうなのだろうが、絶対に混乱するわけである。日本語はもちろんのこと、英語でmodeというのも現代ではそんな含みすらまずないのではないかと思う。

分量的には短い節だが(というか次の第7節が結構長い)、ここは少し念を入れて用語を考える必要があるところだと思える。ついでにすでに訳し終えた部分についても改めて訳文を再点検することにする。

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うーむ

2011年04月11日 | 私訳メモ
さっきWikipediaの英語版を参照してみたら、のっけから

  A quality (from Latin qualitas)[1] is an attribute or a property.
  (質とは属性もしくは性質のことである)

と書かれている。つまり、少なくとも哲学用語としてのqualityはattributeやpropertyの同義語だということになるらしい。ヒューム先生も別に違った意味でこの語を用いているわけでは、たぶんない。そうするとやはりqualityには何か特別な訳語をあててしかるべきだということになる。たとえば「類似」が質だといわれても、その質をもつ対象は何かということが、一見して文章からは読み取り難いことに変わりはないからである。

逆に言えば、いくら時々怪しいWikipediaといっても、こうもハッキリ書かれているからには大間違いということはないのだろうし、とにかくこれが本当だとして、そうすると我々がふだん「属性」とか「性質」といった言葉から思い浮かべているものも、哲学用語としての厳密な意味とはズレを含んでいる可能性があるということである。

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再検討を要するいくつかの訳語

2011年04月11日 | 私訳メモ
まず「simple/complex idea」を「単純な/複雑な観念」と訳している、これがどうもいい感じがしない、ということを、今日の帰りの電車の中でずっと考えていた。目下の文脈ではこのsimple/complexは「素的な/複合的な」と訳した方が、たぶん適切だということである。simple ideaは「素的な観念」もしくは「素観念」、complex ideaは「複合的な観念」と訳すべきである。というのも、日本語の「複雑」にはcomplicatedのニュアンスがあって、しかもその方が強いからである。同様に「単純」にはnaiveのニュアンスがあるわけである。もちろんこうした事情は英語の方にも同じようにあるのだが、ここでヒュームが使っている意味でのそれはそうしたニュアンスをきれいさっぱり差し引いた意味での、ホントにただただ素的/複合的という意味合いでのsimple/complexなのである。

そういうわけで今夜はこれから過去の訳文に遡ってこれらの訳語をつけかえる作業をする。さっきうpした1-04の訳が最初のパラグラフだけしかないのも、この変更をしないうちに続きを訳す気がしないからである。

もっともこのパラグラフ(1-04の最初のパラグラフ)は訳し直すのに難儀をきわめた。大槻訳も中公の抄訳も、普通に読むと何言ってんだかサッパリ判らない、わけのわからない・・・とまでは言わないにしてもかなりおかしな訳文なのである。あれこれ文章をいじってどうにか自分で読む分には意味が通るようになったが、正直これでもまだ相当危うい感じが残る。その危うさの中にはqualityを「質」と訳していることも含まれている。既存の訳ではこれはいずれも「性質」と訳されていて、確かに辞書の訳語の中から選ぶとしたらそれが一番適切ではあるのだが、哲学で普通に性質と言ったらpropertyであろう。propertyとqualityに同じ訳語をあてるのはどうよ、ということが気にかかってしょうがないのである。だいたい既存の訳ではfacultyが「機能」と訳されている。半世紀前はそれでよかったのかもしれないが今これを機能と訳されてはかなわない。理科系でなくても機能といえば真っ先にfunctionだと思う人が大多数のはずである。faculty of imaginationは「想像の機能」であるよりは「想像の能力」、要するに「想像力」と訳した方がまだましだと感じる。

それはともかくqualityを性質と訳すと、「類似」「近接」「因果」はみな性質だということに(訳文は)なる。性質?いったい何の性質だってんだ、とアタマが混乱すること夥しい。どうせ混乱するなら原語を確実に再現できるであろう「質」をあてておいた方が、とりあえずはよいだろうということでそうしているわけである。けれどもちろん訳としてはよくない。自分で読み返してもまったくピンと来ない。このqualityにはたぶんもっと別の適訳があるはずである。ないなら作るべきである。すぐには作れないのでこちらは当分放置するが、あまり長いこと放置しておきたくはない。

まあそんなこんなで、まずはsimple/complexの訳語のつけかえ作業を行う。ではまた(たぶん)明日。

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