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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

えーっと・・・おや?

2011年07月29日 | 私訳メモ
今日の分(3-06d)の最初のパラグラフの最後の一文、「これこそが」というその「これ(this)」とはどの命題のことを指しているのか、実はよくわからない。文脈上はその前の文、つまり「同じ原理が他方の原因と結果の両方であることはできない」というのを指しているように思えるのだが、大槻訳ではこれに続けて「かくて、知識も半知識も、印象から観念への推移を基礎づけることはできないのである」という補いが書き加えられている。

確かにそうは読めるのだが、議論の流れとしてどうも変である。大槻訳がまた「同じ原理が・・・」の文を「同じ原理が他の原理の原因であると同時に結果であることは不可能である」などと意味不明の訳をやっている(「他」はanotherとあるだけでanother principleとは書かれていない。第一「他の原理」って何だ、である)こともあって、このあたりの全体が(ものすごく肝心なことを言っているはずであるのに)不明解になってしまっている。この先を読めばはっきりするのかもしれないが、現時点においてわたし自身は議論の流れを見失っているということは言っておきたい。もう少し先を読んでこのあたりの流れがはっきり掴めたら(掴めるかどうか定かでないが)、訳文を適宜修正することがありうるということである。

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The course of nature continues always uniformly the same.

2011年07月28日 | 私訳メモ
我ながらまるで演歌のような戯訳をやってしまったことであるが、この1文についてはもうひとつ興味深い読み方が可能である。つまりこの世界全体を物理系のように見なせば(も何も物理系なのだが)、その状態の時間発展、ダイナミクスを記述する方程式の形は時刻に依存しないし、個々の状態が空間的な(ベクトル)表示に一意対応させられるとして、その位置にも依存しない、ということである。つまり物理法則は宇宙のいつでもどこでも同じでひとつだ、という、実のところこれは、まったく物理学的な世界観のことを言っているのである。

・・・そう、だから、後の方の段落で「それが変化することを思うことができる」云々と述べているあたりは、物理屋が聞いたら真っ青になるようなことを言っているわけなのである。東大の物理学科あたりなら「それが本当なら俺は坊主になってやる」と、教師も生徒もこぞって息巻くようなことである。

だがもちろん大丈夫だ、問題ない。これは「哲学」なのである。

ただまあ、若いころ、哲学のテの字にも興味がなかったころだが、ヒュームと言えば観念論哲学者だと聞かされていたのは、あるいはこういうところが決め手になっていたことなのかもしれない。

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大漁大漁ぴちぴち

2011年07月25日 | 私訳メモ
この題は、むかしわたしがよく眺めていた掲示板(のようなもの)で、そこに常駐している釣り師達に愛用されていた、その掲示板(のようなもの)の常套句だったものである。もっとも実際には、思いがけずネガティブなレスがたくさんつくとそう言って議論を強制遮断する、そういう遁辞に近い使われ方が多かったような気もする。

私訳メモで何書いてんだと思うだろうが、言いたいのはつまりこのあたりでヒュームが使っているvivacityとかlivelinessとかの語のことである。これらの語には既存のどの訳でも「活気」あるいは「生気」という訳があてられている。前者はまだいいとして後者は生気論(vitalism)の生気を連想させる。

実際、ヒュームの時代において生気論は科学の世界においてもまだ死んではいなかった、どころか、ほとんど当たり前に近いこととして信じられていたはずである。生気論、すなわち、生物を生物たらしめている固有の、かつ本質的な物質なり作用なりが存在する(存在しなければならない)という考え方は、ようやく19世紀に入ってパストゥールのアルコール発酵の研究あたりから疑問視されるようになり、20世紀の分子生物学や分子生化学の発達によって初めて本当に否定されるまでは、生物学・生化学やそれを参照する(哲学を含む)あらゆる議論に繰り返し現れて、その時代の議論や思考が後世から見るとバカ気たお笑い草のように見えてしまう主要な原因となっているもののひとつである。

現代生化学の発達史とは酵素の発見と生気論の否定の歴史にほかならない、というのはわたしが学生時代に最も繰り返し習わされたことで、また最も感銘を受けた事柄でもあるので、その話を書きだすとつい大袈裟になってしまうわけであるが、何にせよここでのヒュームのこれらの語の用い方に関する限り、そうした生気論の本質的な事柄が前提されているようには思えない。文字通り印象なり観念なりの「活きのよさ」、とれとれピチピチの「新鮮」な感じをそのように言い表しているだけだと思える。よって読者の誤解を避けるために以後においてもこれらの語に「生気」の2字は極力用いないことにする。

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えーと

2011年07月24日 | 私訳メモ
3-05cの内容に、「付録」で挿入指示されている内容を追加して改訂したわけであるが、これはもともとそうするつもりであったことである。挿入位置を勘違いしていて、この後に挿入するものだと思っていたら、よく見ると3-05cのパラグラフの前に挿入すべき内容であったというわけである。

ちなみに「付録」からのパラグラフ挿入はこれが最初のはずであるが、実際付録で「挿入指示」されているのもこの部分が最初である。以後もこのように、付録で挿入指示のある箇所は本文中に実際に挿入した形で訳出する。大槻訳は原書の構成に対して律儀に、付録は付録で別になっている。一方、中公抄訳は本文中に挿入する方を選んでいる。本私訳は「読みやすさ優先」の方針から後者に倣うことにする。

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残りは明日だ

2011年07月18日 | 私訳メモ
今日もまた私訳は短くなってしまったわけだが、実は今日(Jul.18)はちょっとした都合で仕事に出ていたのである。かわりに明日(Jul.19)休みを取ってあるので、3-04の残りは明日ということにする。

いや、だって酔っ払ってる最中なのである。なでしこJAPANが優勝したのである。ワールドカップの優勝なのである。これを祝わずにいられるか、である。こんな素晴らしい日がこの次にはいつ来るか、来ることがあるのかどうかもわかりはしないのである。3-04の残りも半分くらいはできているが、この状態でまとめたらワケのわかんないことになるから、今晩はよしておくのである。

浮かれ騒ぐのが嫌な人は、辺見庸氏の動画を見に行ってあげなさい。ゆうべは夜中に気まぐれを起こして動画起こしなどやったせいで、今朝はもう頭が頭痛で痛くて死にそうになったのである。いいトシこいてちょっとナル入ってる人だけど(笑)、いまどき発言を傾聴するに値する、わが国では残り少ない人のひとりであると、少なくともわたしはそう思っている。

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俗衆で悪かったな

2011年07月15日 | 私訳メモ
THNを訳していて一番扱いに困る語のひとつは「vulgar」である。これが結構頻繁に出現する。大槻訳では、上の題名にある通り「俗衆」と訳されている。実際、だいたいそんな意味の語である。

問題なのはもちろん、訳していてこの語に出くわすたんび、わたしなどは自分の名前を呼ばれたかのように一瞬はっとしてテキストに向き直ってしまうわけである。つまり、自分のことか、自分に関する何かのことを言われているのに違いないと思うわけである。事実その先を読めば、いかにもそれらしいことが書いてある(笑)ことが多いわけである。

だから「おお、俺のことか」と思うのはいいのだが、それがvulgarと書いてあったり「俗衆」などと訳されていたりするわけである。どうも納得がいかない。

  vulgar  『下品な』,野卑な,無作法な /
      《おもに文》《名詞の前にのみ用いて》庶民の,民衆の,一般大衆の

辞書だとだいたいこんな風になってるわけである。つまりこの語は民衆という意味で使われるし、ヒューム先生もそういう意味使っているわけだが、しかし一方でこの語はかなり侮蔑的なニュアンスも含んでいるわけである。それでもvulgarは両面があるからまだいい。vulgarianは「俗物」である。vulgarizationは「通俗化」である。これらの派生語になると、もう意味もニュアンスも悪い方しかないのである。

だからまあ、道端で見ず知らずの誰かから呼び止められて、その相手が自分のことをvulgar呼ばわりしていたとしたら、言われた方は「ああ、なんだとコラ」とか言って相手に近寄り、その胸ぐらを掴み上げる程度の権利は常にある、というような、だいたいそういう語なのである。

まあ、つべこべ言ったってヒューム先生は18世紀のスコットランド人の哲学者、その著書を訳して読んでいるわたしは21世紀の日本人で、その「俗衆」のひとりなのである。3世紀をまたいで外人哲学者の胸ぐらを掴み上げようとは、べつに、思いもしないことである。

だから原文のvulgarの方は放っておく。本当のことを言って、わたしはナマの英文は全部、無色無味無臭の「謎の記号列」としか見えていないのである。ナマの英文をそのまま読んでも、わたしには味覚異常の人の食事のような経験にしかならない。これはある意味好都合なことで、もともとこういう6文字の単語だと思いなしてしまえば、それでどうということはないのである。

問題は、だからむしろ訳語の方なのである。「俗衆」のわたしが、どうやら自分のことを書かれていると感じるような文の主語に、たとえ他人の文章の訳語であれ「俗衆」などと書く気がしない。「庶民」「民衆」「一般大衆」どれでも同じことである。自分で自分のことを民衆と呼ぶ民衆はいないのである。何かよくわかんないけど気恥ずかしくてかなわないことである。

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やれやれ

2011年07月14日 | 私訳メモ
ここんとこ毎日言い訳がましいことばかり書いていたわけだが、今日の分(3-03d)はまあこんなもんだという感じになった。それでも分量は少ないのだが、これは残った分を明日やると、ちょうど3-03を終えたところで週末に入ることができるから、ということである。やろうと思えばもう1パラグラフくらいはできただろうけど、まあいいやと。

それで、そのかわりに、今日は3-03cのパラグラフの原文と、大槻訳を引用してみる。基本的にはこのふたつを参照しつつ、訳し直しとこねくり回しを経て3-03cの訳が出来上がっているわけで、このTHN私訳がどんな風に作られているのかがよくわかる、というわけである。しょうもないキカクだが、このために大槻訳の該当部分を旧字体のまま打ち込み直してみたのだから、見かけ以上に手間はかかっている(笑)。

(原文)The second argument,16 which I find us'd on this head, labours under an equal difficulty. Every thing, 'tis said, must have a cause; for if any thing wanted a cause, it wou’d produce itself; that is, exist before it existed; which is impossible. But this reasoning is plainly unconclusive; because it supposes, that in our denial of a cause we still grant what we expressly deny, viz. that there must be a cause; which therefore is taken to be the object itself; and that, no doubt, is an evident contradiction. But to say that any thing is produc'd, or to express myself more properly, comes into existence, without a cause, is not to affirm, that 'tis itself its own cause; but on the contrary in excluding all external causes, excludes a fortiori the thing itself which is created. An object, that exists absolutely without any cause, certainly is not its own cause; and when you assert, that the one follows from the other, you suppose the very point in question, and take it for granted, that 'tis utterly impossible any thing can ever begin to exist without a cause, but that upon the exclusion of one productive principle, we must still have recourse to another.

(もとの大槻訳)私の見出すところでは、同じ項目に用いられている第二の證明*も等しい難點に惱む。その證明に由れば、およそ萬物は原因を持たなければならない。何故なら、如何なる物も原因を缺けば、そのものは自己自身を産むであろう。即ち、存在していた實際の時より前に存在するであろう。然るにこれは不可能なことである。けれども、この〔第二の證明と稱する〕推理は、誰れにも判るように無效である。何故ならこの推理の假定に由れば、我々は原因を否定しつつ猶且つ瞭かに否定したものを、即ち原因がなければならないことを、許しているのである。それ故この推理は、この豫め許してある點を以て、即ち原因がなければならない點を以て、〔推理の〕對象自身とするのである。それは疑いもなく、明白な矛盾である。けれども、或る物が原因なしに産み出される、或は更に適切な表現を以てすれば、存在するようになる、ということは、その物がそれ自身自己の原因であると斷言することではない。却って反對に、一切の外的原因の排除に於て〔原因としての〕想像される物自身も更に強く排除するのである。絶對に如何なる原因もなく存在する事物は、確かにそれ自身の原因でない。そして、一方が他方に随伴して起ると主張する時は、問題の點そのものを假定するのである。換言すれば、如何なる物も原因なくしては苟くも存在し始め得ないことを、從って一つの産出原理を排除しつつも依然として他の原理に縋らなければならないことを、初めから許しているのである。/*クラーク博士その他

※ 「縋る」は「すがる」と読む。

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難儀だ、ほんとに難儀だ

2011年07月13日 | 私訳メモ
今日も今日とて、訳出できたのはたったの1パラグラフである。大槻訳はもうまるっきりチンプンカンプンなので頭から訳し直し、それでも全然意味がつながらないわけである。ああでもないこうでもないと訳文をいじくり回し、ようやくだいたい全部の意味が通った感じになるまで、えーっとこれ、何時間かかったんだ・・・計測しているわけでもないからわかんないが、まあとにかくまたしても骨が折れまくった。まだなんとなく怪しい感じもするのだが、両者の言わんとする要点は押さえられたはずである。

反論の方は「原因がないというのは、つまり自己原因ということではないか」ということである。対するヒュームは「誰がそんなことを言った。原因がないなら自己原因なんぞはもっとないのだ」といい、そんな勘違いをするのは反論者の側に「いずれにせよ原因は存在しなければならない」という思い込みがあって、暗黙に仮定に含めてしまっているからだと指摘しているわけである。



素人哲学と言いながら、また学部とはいえ数学の研究室を出ている割に、いやそれ以前に計算機屋のくせして、わたしはこの種の「論理対戦試合」が本当は好きではない。大嫌いだと言ってもいい。互いに相手の論理のアバラ骨を折りまくり「俺の勝ちだ。俺のは2本しか折れてない、お前なんか3本も折れてるじゃないか」と互いに言い合うような論争(ディベート)が、である。

いや、計算機屋だからこそだ。論理というのはどう作ったって脆いものなわけである。それは実体を持たない記号列なのである。それはこの世に実在する何よりも細い、だからその切れ味もこの世のものではない、そのかわり、その脆さもまた実在する何にもまして脆いのである。3本束ねようが3億本束ねようが、3億の3億乗であろうが、折れるときは指1本の力さえいらない。そんな脆い論理を切り結び、互いにポキポキ折りまくっては、最後まで生き残った奴が「真理」だ、というようなことが見込まれているのだとすれば、そんなもの大嘘に決まっているわけである。空手のトーナメント選手権と一緒である。いったい誰が優勝しようと、表彰台の上にいるのは瀕死の重傷者ばかりである。

・・・まあ、だからって野外生物学とか生態学とかの世界が結構な世界だというわけでもないんだろうけどな。

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うーむ

2011年07月12日 | 私訳メモ
訳文の方はどうにもハッキリしない、怪しい訳ばかりになっているわけだが、3-03を原文と既訳書でざっと読んでみる限り、ヒューム先生がややこしいことを主張しているということまでは、どうやら確かである。「任意の対象について、それが存在することはその原因を必要とするのか否か」という問いに対して、その問いの答は「決定不能」だと主張しているのである。つまり、対象の存在が原因をもつものでありうること、それ自体が否定されているわけではなく、それが常に必要なのかというと、それは「わからない」と答えるのが正しい、という主張である。「原因を持たない存在が少なくともひとつ存在する」というのではなく「あらゆる存在が原因を持つかもしれないし、原因を持たない存在があるかもしれない、どちらが正しいのかを論理的に決定することはできない」というのである。

ゲーデルの不完全性定理もチューリング機械の停止判定不能定理も大学の学部レベルで習う、どうかすると大学院で可能世界意味論の初歩まで習わされていたりするような現代の我々にとっては、そのような命題がありうるという程度のことは、べつだん不思議なことでも何でもなくなっているわけであるが、18世紀には理解するのも説明するのも骨が折れまくる何かであったということかもしれない。ヒューム先生自身の証明や説明もあちこち脱臼していて、訳す方の骨まで折りまくっているのだからもう無茶苦茶である。

まあ、「決定不能」というならそれはそれで、現代の我々としては構わないわけである。しかしヒューム先生はどうしてこんな先駆的な論理の複雑骨折を、特に因果関係ということについて提示してみせなくてはならなかったのか、そこにどんな「必然性」があったのか、それはそれで、訳出の現時点ではまだ不明だというべきである。

また、ここでそれを強調するというのは、おそらくはここいらの議論に関連して、例のprobability(本訳ではあえて暫定的に「半知識」と訳している)の語に、やはりというか、どうやらヒューム先生は非常に特異な意味を与えようとしているらしいことが、少しずつはっきりしてきたからである。すべての対象が原因を必要とするかどうかは「わからない」のであるが、そのわからないということを含めた上で因果関係に基づく論証ということを考えることが正当に可能なのであって、ただ、そこには半知識という概念が新たに導入されなければならないのだ、というような感じの議論である。違うかもしれないが。

最初の方は、これだったら「山」でも「川」でも、別に何と訳したって構わないくらいじゃないか、くらいの印象であったものが、次第にややこしいことになってきているわけである。変に深入りして生涯を台無しにしないよう、注意しなければならないところである。

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ところで

2011年07月11日 | 私訳メモ
過去にも何度かこのblogで書いたような気がするのだが、一応改めて書いておくと、わたしが学んで理解してきた限りでは、物理においては、我々が常識的な意味で言うような因果関係ということは、現在すでに物理としては意味を持たないということになっている、はずである。既知の、確立されていると言っていい基礎的な物理法則(方程式)はすべて時間反転可能である。これは言ってみれば、ある時刻の状態と別の時刻の状態の間をつなぐ写像は全単射だということを意味するように思われる。そうだとして、すべての作用法則が時間に関して連続であるならば(この仮定は危ういものである、とはいえ、今のところこの仮定にまったく反するような事実を、少なくともわたしは知らない)、普遍的な時間発展演算子は位相同型であることになる。つまり適当に物理的対象をコンパクトに定めたとすれば、その対象の近傍で因果を、また時間の進行を定義することは可能である(たとえば日常スケールの「物体」についてはその物理的な因果を言うことができるし、そうした物体を組み合わせて高精度の「時計」を作ることもできる)としても、その対象を定める「行為」それ自体は、つまり本質的には、あくまで物理の埒外に属している。いいかえると、その「行為」のすべては物理によって(哲学者の好みに沿って言えば「自然的な要素から」)構成されるものである一方、それを物理として有限の記述に帰着させることはできないということである。D・デイヴィドソンの「非法則的一元論」をもじって言うなら、わたしの素人哲学の要は「非コンパクト性一元論」ということである。

わたしは理科系の人だが、物理は専門でも何でもない。だから以上のことは何かとんでもなく物理を勘違いしている可能性がある。これは、上のようなことを言うたんびに必ず断っておかなくてはならないことだ。で、わたしの勘違いを指摘したいと思うほど親切な人がいたとしたら、文中にこのblogの題名を入れるかリンクを張るなりした上で、blogでもtwitter上ででも──要するにGoogleやtwitter searchで検索できる形であれば何でも──指摘してくれたら有り難いと思っている。親切だの有り難いだの言う割に面倒くさいことを求めるわけだが、このblogは直接のコメントやTB等は一切拒否しているし、そうすべき理由が別に──何よりもこのblogの副題のあたりに──存在することで、そこんとこはご了承願う。わたしが自分で自分の勘違いを理解できるような説明が付されていれば、それについてはこのblog上で感謝を申し述べ、自分が何をどう勘違いしていたのか、自分で説明し直すことを約束する。

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スペイン異端審問

2011年07月08日 | 私訳メモ
まさかTHNの私訳メモでこの動画を貼ることになろうとは、今日の昼休みまでは思ってみたこともなかったよ。

from NicoNico

モンティ・パイソンなんて見たことない、という人はまあいっぺんどうぞ。親切な人がコメントで訳もつけてくれている。

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えーと

2011年07月05日 | 私訳メモ
今日の私訳はまたずいぶん短いじゃないか、と思われたとしたら申し訳ないことである。

別に松本復興相の話を書いていたせいで短くなった(笑)わけではない。これだけ訳すのにかかっている時間はいつもとまったく同じなのである。どういうことかというと、今日に限って訳文を変に凝ってしまったのである。原文を持っている人は訳文と対照させてみてもらえればわかる。いつでもだいたい全体の中の一文くらいは逐語訳とは呼べないような訳になっているわけだが、今日に限って全部の文をいじくり回してしまった。

まあ、つまり、THNをイントロから訳してきて、そろそろ一番肝心なところのひとつである因果性の議論にさしかかってきているわけである。なるべく丁寧に、というか、少なくとも自分の中に不明なところが残らないように訳そうという気持ちがあって、それでいつもより余計にいじくり回してしまった次第である。たぶんこれからしばらくの間、時々こんな日が出てくるのではないかと思う。ま、やってみないと判らないけど。

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てなわけで

2011年07月03日 | 私訳メモ
先週不完全な訳文しか出していなかった3-01cの訳文を、とりあえずこれでどうよ、というバージョンに差し替えた。

件のパラグラフは中公の抄訳本ではまるごと省かれている箇所である。実際、ざっと原文を読んでみる限りではたいして重要ではない(特に今日では何の意味もない)と思われたわけだが、そうは言ってもちゃんと訳してみたら実は途轍もなく重要なことが書いてあったりしないかということを恐れるわけで──実際、ここまで訳してきた範囲でも、参考にしている既訳書のいずれにしても、怪しい訳がふんだんにあったことである──念入りに訳しなおしてみた次第である。結果としては、やっぱりどうでもいい(笑)内容だとわたしには思われる。

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3-01cの段落の続きは・・・

2011年07月01日 | 私訳メモ
下の記事の末尾にも書いたが、3-01cの段落は異常なまでに意味が取りにくい。というか正直ワケがわからない。何か根本的に勘違いしている可能性もある、ということで、この段落については週末に再検討することにして、今日は今日で次の段落をやることにする。

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まあそういうことなわけだ

2011年06月17日 | 私訳メモ
昨日はアップデート作業のせいで時間を食われたというのは別に嘘ではないのだが、今日うpしたパラグラフの訳をひねくり回すのに手間取ったということでもあったわけである。

訳文中にもカッコ書きで示したが、「デンパ」と訳してあるのは直訳すれば動物精気(animal spirits)である。今でいうなら神経パルスのことで、たぶん大槻訳もそのつもりであろう、traceを「神経」と訳し、cellを何の疑問もなく「細胞」と訳していたりする。たぶんヒューム先生のアタマの中でもそうしたものが思い浮かべられてはいたのだろうが、しかし、そう訳してしまうと原文に「I am afraid I must here have recourse to it」とあるところのニュアンスが抜け落ちてしまう。

そう、なんかもうすごく嫌々書いているのが伝わってくるわけなのである。こういうことを言おうと思えばそりゃ簡単に言えるけどさあ、こういうのは哲学としてはインチキくせえんだ、できることならこんなことで説明だなどと称したくはねえんだ、という感じがありありと出ているわけである。

そう、実はここでヒューム先生は18世紀のスコットランド人の語法によって「脳はどうでもいい」と言おうとしているのである。少なくともわたしはそう読むのである。

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