わたしはわたしなりに自分のことを普通の人間だと思っている。だが、ホントにあらゆる意味でそうだったら、そもそもこんなことは書き出すこともしないわけだ。普通の人は、仕事や生活の必要上からそうしなければならない場合を別として、文章を文字で書いたり読んだりしないものだと思う。
それはともかくこのカテゴリは普通を哲学しようというわけではない。「普通」ということそのものは、それを論じたりすることが意味を持たない何かだと思う。そうではなく、言ってみればこのカテゴリは「普通」という安定解の近傍で事物一般の構造解析を実行してみようと…いう変な書き方はやめて(笑)普通の言葉で言えば、つまり随筆である(笑)。日常接する些細な事物に目を留めては、それを普通な部分とそうでない部分に分けて、前者の空間の構造と後者の超空間の超構造を描き出し…くそっ。どうしてこう、いちいち変な書き方をしたがるのか。
たとえば、わたしは今これをファミレスの店内で書いている。そうすると、たとえばドリンクバーの機械のすぐ脇に「デトックス」などという異様な単語を発見したりする。
toxとは毒または毒性のことで、de-toxというのは、だから解毒剤とか解毒作用を意味するわけだ。それはまあ、辞書でも引けばたぶんそんなようなことが書いてあるはずのことで、しかしこれはファミレスのような場所には一番似つかわしくない、普通じゃない単語のはずである。「de-」がついていようといまいとだ。ファミレスでなくても、どんなレストランだって、メニューにわざわざ「この料理に毒は入っていません」などと書きはしないだろう。戦場のど真ん中に「ここに地雷は埋められていません」と立て札しておくようなものである。
そんな立て札をいきなり見せつけられた一兵卒の怪訝な顔で、その異様な字句のあたりを眺めると、事態はもっと異様であることに気づかされる。デトックスなるカタカナ語は、ここではお茶ッ葉の種類に関する、ある種の形容詞として使われているのだ。いわく「デトックスハブ茶」「デトックスどくだみ茶」etc.
…なんだい、要は「ハブ茶」「どくだみ茶」のことではないか。「デトックス」という語は、だからこの場合「おいしい」というような、商業的形容詞とでも呼ぶべきものの一種として使われている。実際、言葉をそのまま入れ替えて「おいしいハブ茶」「おいしいどくだみ茶」と書けば、これはいかにもファミレスらしい字句だとなろう。別に、そう書いてあったからってうまいかどうかはわからない。そんなこととは関係がないのだ。
わたしにとってこういうのは、いくつになっても本当には馴染めない、少なくとも自分自身にはうまくできない種類の言葉遣いに属している。たとえばわたしがこのblogで「おすすめの本」と言ったら、それは少なくとも、わたし自身は偽りなくその本はおすすめだと思っているからこそ、そう書いてあるわけなのだ。あるいは、意識無意識の偽りがそこには混じっているかもしれないのだが(笑)、その場合でも「おすすめ」は偽られた形容として実質的な機能(意味)を持つべきことを、少なくともそう書いている方では期待しているわけである。
ところがこういう店で「おいしいハブ茶」などと書かれていた場合、この「おいしい」はいかなる実質的な意味(機能)も持っていない。事実そうだから、それはたとえば「デトックス」なる語と入れ替えても故障がないのである。
もっと露骨で典型的な例は、マンガ雑誌やなんかの次号予告ページだ。新連載が載っている雑誌の次号予告には、必ずその新連載が「早くも大人気」だと──嘘だッ!


次号予告の記事は雑誌の出るずっと前に締め切られている。新連載が評判を取ったかどうかなんて知る由もない時点で書かれたものであることは明らかだ。
しかしそれは「偽られた形容」ですらない。こんなことは読めば誰でも直ちに勘づくのだから、この「早くも大人気」は偽りとしてさえ機能しない(意味を持っていない)。まったく無意味な形容詞だ。にもかかわらずそれは書かれている。必ず書かれている。あたかもそう書かれていなければならないものであるかのように書かれている。
なぜそれが書かれているのか。書かれなくてはならないのか、本当の理由をわたしは知らない。知らないが、言葉の性質を考える上では見逃されるべからざる(ということは、たいてい見逃されている)重要で興味深い例のひとつだと思う。最後に余計なことを書いておけば、少なくともわたしは「こんな無意味な言葉遣いをすべきではない」などという国語審議会的・PTA全国評議会的な言語の倫理学を持っていないし、また持つことを断然拒否している。