なぜ日本では『自分で考えない子ども』が育つのか? 海外で出会った日本人に、「あなたは日本とフランスのどちらで子育てをしたいか?」と質問すると、大半の人が“フランス”がいいと答えます。国の子育て支援や、教育費の違いなどその理由は多岐に及びますが、意外なことに『日本だと“考えない子ども”になってしまうから』という理由が一番多いです。 ここでいう、『考えない子ども』とはどんな子どもを指すのでしょうか。 それは、やりたいことがわからず、自分の人生に何の責任も持たない子どものこと。日本で社会問題になっているニートの存在も、『考えない子ども』の最たる例です。やりたいことがあるからニートになっている者もいるでしょうが、大半はやりたいことがみつからず、何をしていいのかわからないと答える人が多いようです。 「やりたいことがわからない」という若者が増えたと言われる昨今ですが、これはよく「みんな同じが大好きな日本社会」に起因していると指摘されます。日本社会で「立派な大人」、「まともな人間」として生きるには周りと同じでなければいけません。子どもの時からみんなと同じ制服を着せられ、みんなとどこか違う子はいじめられる。そんなクラスの危うい和という社会では雰囲気やノリの良さが最重要項目であり、「自分の考え」を作り上げたり、述べることは歓迎されません。「出る杭は打たれる」ということわざからもあるように、集団のなかから目立つことは決していい結果をもたらさず、「当たり障りなく生きる」ことが日本社会で生きる人の“賢い生き方モデル”とも言えます。 しかし、この日本社会を別の方向から捉えてみると、「みんなと同じように行動していれば何とかなる社会」だと言えます。つまり、自分で考えなくていいのです。生まれた時から、とりあえず周りと同じように生きればいい。みんなと同じ制服を着て、みんなと同じような発言をして、みんなと同じモノを好きになればいい。「異」を排除する社会では、みんな同じにしておけば問題は起きないのです。みんな塾に通ってるから私も塾に行こう。クラスのほとんどみんなが○○高校に行くから、自分もそこに行こう。みんなが課外活動に入るというから私も何か部活に入ろう。みんな大学に行くから、自分も大学に進学しよう。このように、他の人のレールに合わせた生き方をすれば、世間では「常識的な人」と評価されるでしょう。 しかし、社会にでる時になってその子は思うのです。 「私は一体何がしたいんだろう?」 これが個性が生まれにくい日本社会の弱点であり、日本では『考えない子どもが育つ』と言われる所以です。みんなに合わせることを徹底的に教え込まれる社会で育つと、自分というものが掴みにくくなってしまうのです。反対にフランス社会では、みんなと同じ意見ばかり言っていれば周りの人になめられたり、馬鹿にされてしまいます。子どもの時から、自分の考えを、自分の言葉で論理的に説明することを求められるフランス社会で育つ子どもとの差がここに表れるわけです。もちろんフランスも完璧な国ではないので、日本にはないフランス特有の問題を抱えていますが、日本は「自分で考える力」が育ちにくい社会であることは多くの海外を知る日本人が挙げることです。 小さいころ、クラスの劣等生として疎まれていた女の子がきちんと整列しなかったとき、先生に怒られてこんなことを言っていました。 「だって、みんなおにぎりみたいで面白くないもん。」 今思えば「おにぎりみたいだ」と語ったその子こそ、個性があって自分で考える力があったのかもしれません。 『考えない子どもが育つ』、ニッポンの社会で一番苦しんでいるのは「考えない子ども」そのものなのです。 MadameRiri - Sep.12,2011 |
よくは知らないがオーベー諸国の教育というのはわが国のそれと比べると実に自由で伸び伸びしたものだ、というのは、しばしば聞かされる話である。この記事の冒頭にある「子育てするならフランスで」という在外邦人の答え方も、それを反映したものではないかという気がする。フランスでなくても、日本のでさえなければ何でもいいというところはあるのかもしれない。だって、それはルーマニア人から「チャウシェスク時代のルーマニアよりひどい」と言われたりするような何かなのだ──この話はこのblogでも何度も書いているわけだが、機会のある限り何百遍でも書くつもりである。
日本の教育が「考えないコドモが育つ」種類のものかと言われると、あとで書くようにわたしはそうは思わない。ただ、最初に言っておくと、じゃあオーベー式の教育がわが国でできるのかといったら、それは予測可能な未来に関する限り絶対に不可能である。それは確かである。実際、ちったあオーベー式に近づけようというので「ゆとり教育」を導入したら、ほとんど社会のあらゆる層から徹底的に反発されて大失敗する羽目になったわけである。
いくらいい政策でも、大多数の人々が本心では望んでいないものを成功させることはできない。それが成功しない程度には、わが国もデモクラシーの国なのである。それはともかく、近々に一度失敗してしまったものを、近い将来にもう一度やるということは、どんな国の行政であろうと不可能だろう。少なくとも前と同じ形態でもう一度というのは絶対に不可能である。
引用のblog記事を作っているのは何者なのか、眺めていてもどうもよく判らない感じなのだが、まあそれは問わないことにしよう。わが国の教育制度が「考えないコドモが育つ」種類のものかと言ったら、そんなことはないさとわたしなら答える。実態はそういうものではなくて「考えるコドモを育てていない」し、「考えないコドモも育てていない」のである。つまり「考える」ということについてはまったく何もしていないのである。
どうしてかって、教師だってそういうことは知らないからである。任意の教師に面と向かって、そもそも「考える」とはどういうことか、あなたは何だと思っているかと問うてみればいい。まず、まっとうな答が返ってくることはないはずである。だからこのことについて言えば、実はコドモ自身がそうしたければ、割合どうにでもなるのである。もっとも、たいていの親も「考える」ことについては何も知らない。周囲の誰も知らないことを自分ひとりで見出し、自分ひとりでそれをやり抜くというだけの根拠を、自分ひとりで獲得するコドモはまずいないだろう。いたとしたら、その背景にはそれなりに凄惨な経験が存在するはずである。
このblog主は日本の教育が「考える」ことを教えないから、そういうコドモは大人になると何をしていいのかわからなくてニートになるのだ、くらいのことを、上の記事では言っていることになると思う。それは大きな間違いである。ニートの人の増加は最近の現象である。一方、わが国の教育が「考える」ことを一切教えないのはずっと昔からのことである。つまり昔はそれで十分うまく行っていた。たいていの人は既設のレールに沿って「人生」を歩んでいればよかったのである。そして、それがほんのこの15年ほどの間に全部壊れてしまったのである。
ありとあらゆる路線のレールを少しずつひっぺがし、その後には代替路線も手段も何も敷設せずに「じゃ、あとは『自己責任』でよろしく」という途方もないことをやってしまったのである。かくして、そうと信じて途中まで走って行くとレールがぷっつり途切れている、という立ち往生の経験を、たいていのワカモノが、いやほとんどの人が強いられる羽目になったのである。これは個々人に「考える」力があればどうにかなるというような種類のことでは、まったくないことは確かである。
そしてたぶん、これからもそれはずっとそのままになるはずである。行く先を断たれて立ち往生したものどうしが暗闇の中で罵声を浴びせあいながら、この社会はゆっくりと死滅していくはずである。夢も希望もないじゃないかと言って、だから、それはないのである。もっとも外から眺めている限りだと、フランスにだってあるとは全然思えないことだけれども。