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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

暗い日曜日

2011年09月18日 | チラシの裏
なぜ日本では『自分で考えない子ども』が育つのか?

海外で出会った日本人に、「あなたは日本とフランスのどちらで子育てをしたいか?」と質問すると、大半の人が“フランス”がいいと答えます。国の子育て支援や、教育費の違いなどその理由は多岐に及びますが、意外なことに『日本だと“考えない子ども”になってしまうから』という理由が一番多いです。

ここでいう、『考えない子ども』とはどんな子どもを指すのでしょうか。

それは、やりたいことがわからず、自分の人生に何の責任も持たない子どものこと。日本で社会問題になっているニートの存在も、『考えない子ども』の最たる例です。やりたいことがあるからニートになっている者もいるでしょうが、大半はやりたいことがみつからず、何をしていいのかわからないと答える人が多いようです。

「やりたいことがわからない」という若者が増えたと言われる昨今ですが、これはよく「みんな同じが大好きな日本社会」に起因していると指摘されます。日本社会で「立派な大人」、「まともな人間」として生きるには周りと同じでなければいけません。子どもの時からみんなと同じ制服を着せられ、みんなとどこか違う子はいじめられる。そんなクラスの危うい和という社会では雰囲気やノリの良さが最重要項目であり、「自分の考え」を作り上げたり、述べることは歓迎されません。「出る杭は打たれる」ということわざからもあるように、集団のなかから目立つことは決していい結果をもたらさず、「当たり障りなく生きる」ことが日本社会で生きる人の“賢い生き方モデル”とも言えます。

しかし、この日本社会を別の方向から捉えてみると、「みんなと同じように行動していれば何とかなる社会」だと言えます。つまり、自分で考えなくていいのです。生まれた時から、とりあえず周りと同じように生きればいい。みんなと同じ制服を着て、みんなと同じような発言をして、みんなと同じモノを好きになればいい。「異」を排除する社会では、みんな同じにしておけば問題は起きないのです。みんな塾に通ってるから私も塾に行こう。クラスのほとんどみんなが○○高校に行くから、自分もそこに行こう。みんなが課外活動に入るというから私も何か部活に入ろう。みんな大学に行くから、自分も大学に進学しよう。このように、他の人のレールに合わせた生き方をすれば、世間では「常識的な人」と評価されるでしょう。

しかし、社会にでる時になってその子は思うのです。

「私は一体何がしたいんだろう?」

これが個性が生まれにくい日本社会の弱点であり、日本では『考えない子どもが育つ』と言われる所以です。みんなに合わせることを徹底的に教え込まれる社会で育つと、自分というものが掴みにくくなってしまうのです。反対にフランス社会では、みんなと同じ意見ばかり言っていれば周りの人になめられたり、馬鹿にされてしまいます。子どもの時から、自分の考えを、自分の言葉で論理的に説明することを求められるフランス社会で育つ子どもとの差がここに表れるわけです。もちろんフランスも完璧な国ではないので、日本にはないフランス特有の問題を抱えていますが、日本は「自分で考える力」が育ちにくい社会であることは多くの海外を知る日本人が挙げることです。

小さいころ、クラスの劣等生として疎まれていた女の子がきちんと整列しなかったとき、先生に怒られてこんなことを言っていました。

「だって、みんなおにぎりみたいで面白くないもん。」

今思えば「おにぎりみたいだ」と語ったその子こそ、個性があって自分で考える力があったのかもしれません。

『考えない子どもが育つ』、ニッポンの社会で一番苦しんでいるのは「考えない子ども」そのものなのです。

MadameRiri - Sep.12,2011

よくは知らないがオーベー諸国の教育というのはわが国のそれと比べると実に自由で伸び伸びしたものだ、というのは、しばしば聞かされる話である。この記事の冒頭にある「子育てするならフランスで」という在外邦人の答え方も、それを反映したものではないかという気がする。フランスでなくても、日本のでさえなければ何でもいいというところはあるのかもしれない。だって、それはルーマニア人から「チャウシェスク時代のルーマニアよりひどい」と言われたりするような何かなのだ──この話はこのblogでも何度も書いているわけだが、機会のある限り何百遍でも書くつもりである。

日本の教育が「考えないコドモが育つ」種類のものかと言われると、あとで書くようにわたしはそうは思わない。ただ、最初に言っておくと、じゃあオーベー式の教育がわが国でできるのかといったら、それは予測可能な未来に関する限り絶対に不可能である。それは確かである。実際、ちったあオーベー式に近づけようというので「ゆとり教育」を導入したら、ほとんど社会のあらゆる層から徹底的に反発されて大失敗する羽目になったわけである。

いくらいい政策でも、大多数の人々が本心では望んでいないものを成功させることはできない。それが成功しない程度には、わが国もデモクラシーの国なのである。それはともかく、近々に一度失敗してしまったものを、近い将来にもう一度やるということは、どんな国の行政であろうと不可能だろう。少なくとも前と同じ形態でもう一度というのは絶対に不可能である。

引用のblog記事を作っているのは何者なのか、眺めていてもどうもよく判らない感じなのだが、まあそれは問わないことにしよう。わが国の教育制度が「考えないコドモが育つ」種類のものかと言ったら、そんなことはないさとわたしなら答える。実態はそういうものではなくて「考えるコドモを育てていない」し、「考えないコドモも育てていない」のである。つまり「考える」ということについてはまったく何もしていないのである。

どうしてかって、教師だってそういうことは知らないからである。任意の教師に面と向かって、そもそも「考える」とはどういうことか、あなたは何だと思っているかと問うてみればいい。まず、まっとうな答が返ってくることはないはずである。だからこのことについて言えば、実はコドモ自身がそうしたければ、割合どうにでもなるのである。もっとも、たいていの親も「考える」ことについては何も知らない。周囲の誰も知らないことを自分ひとりで見出し、自分ひとりでそれをやり抜くというだけの根拠を、自分ひとりで獲得するコドモはまずいないだろう。いたとしたら、その背景にはそれなりに凄惨な経験が存在するはずである。

このblog主は日本の教育が「考える」ことを教えないから、そういうコドモは大人になると何をしていいのかわからなくてニートになるのだ、くらいのことを、上の記事では言っていることになると思う。それは大きな間違いである。ニートの人の増加は最近の現象である。一方、わが国の教育が「考える」ことを一切教えないのはずっと昔からのことである。つまり昔はそれで十分うまく行っていた。たいていの人は既設のレールに沿って「人生」を歩んでいればよかったのである。そして、それがほんのこの15年ほどの間に全部壊れてしまったのである。

ありとあらゆる路線のレールを少しずつひっぺがし、その後には代替路線も手段も何も敷設せずに「じゃ、あとは『自己責任』でよろしく」という途方もないことをやってしまったのである。かくして、そうと信じて途中まで走って行くとレールがぷっつり途切れている、という立ち往生の経験を、たいていのワカモノが、いやほとんどの人が強いられる羽目になったのである。これは個々人に「考える」力があればどうにかなるというような種類のことでは、まったくないことは確かである。

そしてたぶん、これからもそれはずっとそのままになるはずである。行く先を断たれて立ち往生したものどうしが暗闇の中で罵声を浴びせあいながら、この社会はゆっくりと死滅していくはずである。夢も希望もないじゃないかと言って、だから、それはないのである。もっとも外から眺めている限りだと、フランスにだってあるとは全然思えないことだけれども。

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「オカルト」乱考(2)

2011年09月17日 | チラシの裏
世に「ニセ科学」と呼ばれている問題は、その本質において大きく2通りあると思う。ひとつはいっとき流行しかけた「磁気処理水」の類、あるいは原子力発電所の事故以来今も飛び交っている、放射性物質の影響に関して半ば意図的に流布されているデマゴギーの類である。これらはまさしく科学的に誤っているか、科学と非科学を短絡させたデマである。つまりそこに含まれる科学的な誤りや短絡を指摘したり排除したりすることは、専門の科学者がきちんと対応しなければいけない何かである。

もうひとつは「水からの伝言」のように、本当は科学には何の関係もない、常識にすら反している純然たるオカルトの類である。これについては田崎晴明氏のような統計物理の専門家が丁寧な批判と説明を加えたWebページを作っていたりする(→そのページへのリンク)。もちろんこれはこれであっていいものだが、これは本来なら科学者には責任のない問題であるとわたしには思える。科学にとっては純粋に迷惑なだけのとばっちりで、放置しておけないから対応はするわけだが、本当は科学者ではなく、哲学・倫理学を含む人文系の専門家が対応しなければいけないことである。科学的な誤りは科学者が正せるけれども、オカルトを頭から信じ込んでしまう教師のことまで責任は持てないからである。人文系の学問にだってそんなものは手に負えないと言えばそれはそうなのだが、言うべきことが何もないというわけではないはずである。



それはそれとして前回からの続きを。「常識にすら反しているオカルトを頭から信じ込んでしまう」ようなことがなぜ起こるのか。

「水からの伝言」をめぐる事例においては、その「なぜか」を理解するための重要な手がかりがいくつか現われているように思える。その点で貴重な事例であると思える。たとえば、学校教師が道徳の教材にそれを使用したという事実がある。現代日本におけるオカルトの流行はこんな風に道徳的な事柄と一緒くたになっていることが珍しくない。たいていは個人的な(道徳的)信念の範囲におさまっているので表からはそれが見えにくい──普通の仕事で道徳的信念の如何が問われてしまう場面はまずない──わけだが、そういう信念の持ち主が学校の教師で道徳の授業なんかもしなければならないということになると、こんな風に露出してしまうこともあるわけである。職務がそのまま踏み絵になってしまうわけで、その意味では気の毒な話だと言えなくもないことである。

何にせよオカルトの主張は何らかの善(と見なされるべきだと本人が思っているもの)を示唆するために用いられるわけである。また、これもたぶん特徴のひとつに数えていいことだろうが、善を示唆する一方で、たいていそれと対になる悪(と見なされるべきだと本人が思っているもの)を指弾しようともするわけである。「伝言」の場合で言えば「ありがとう」がいい言葉だと言う一方で、「ばかやろう」が悪い言葉だということを必ずセットにして言うわけである。

そういう形で善悪をセットにすることは、一般的に言ってひどく下品で、邪悪だと言われても仕方がない遣り口だということに、本来ならばならなければならないはずのことである。それはクラスの中のある生徒をホメるのと一緒に別の生徒を罵倒するようなものである。そういうことをすれば後者はただ叱られるよりも一層ひどく傷つけられることになるし、しかも、本当はそういうことをされると前者も内心で傷ついてしまうことがありうるものである。この場合はもっとひどいことに、一方がホメられ他方が叱られるその根拠が、「わざわざ」教師の非常識な思い込みや偏見に帰着させられている。宿題を忘れた生徒が叱られなければならないのは、生徒が宿題を忘れると株価が下落するからだと言うようなものである。それは頭ごなしに「悪いものは悪い」と言ってのける以上に下品で邪悪な遣り口である。およそどんな道徳的な基準を置いて考えても、ほとんど最低の中の最悪の行為だということになるのではないだろうか。

一見するとそれは、オカルトを根拠にしていること以外はどうってことのない些細な行為のようでありながら、実は上述のように、ほとんど狂気の沙汰としか言いようのない強烈な何かを奥の方に含み込んだ行為なのである。いいかえれば、その教師の人はたとえオカルトに訴えてでも前者を天上に引き上げんとするほど賞賛し、後者は言葉ごとひねり殺してやりたいというくらいの強烈な願望を、しかも独善的に抱いていたと思われることである。「ばかやろう」という言葉はとりたてて素晴らしい言葉であるとは言えないし、時と場合によっては咎められても仕方のない言葉遣いである、けれども、それは無条件的なことではないし、ましてや徹底して排除されなければならないような言葉ではない。世の中の誰も決して「ばかやろう」とは口にしない、そんな世の中がどれほど不気味でキモチ悪いものであることか、想像してみれば明らかなことである。

・・・微妙に話がそれてしまった。どうしてそこまでしなくてはならないのか。また実際にやってしまうに至る人や人の心理状態が存在するのか。本題は次回送りだ。

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「オカルト」乱考(1)

2011年09月16日 | チラシの裏
ニセ科学と呼ばれるもののひとつに「水からの伝言」というのがある。これにはいわゆるニセ科学とはちょっと違うところがある。

普通、ニセ科学というのは文字通り「科学のニセモノ」で、いかにも科学的事実らしく装っているが、実は何の根拠もないといった格好のものである。マイナスイオンがどうとかいうのがその典型例である。巧妙にやられるとその道の専門家でなければ理科系でも騙されたり半信半疑のまま応用してしまったり(もちろん何の効果もないのだが)するものもある。研究者の当人が自分で自分を騙してしまっていたという場合もある。

しかし「水からの伝言」というのはそういうものですらないわけである。ただの水が人間の言葉の意味を理解して振る舞いを変えるとか、「そんなことあるわけないだろ!」というのは、これといって科学知識など何もない(学校の理科の授業は全部寝ていた)人にとっても当たり前のことであるはずである。つまり「科学的態度とは何か」とか、そういうこと以前の問題なのである。これほど明々白々たるデタラメをいともあっさり信じ込んでしまう人がそれなりの数で存在して、その中には学校の教師もいて、自分が担任のクラスの道徳の授業で教材に使ったりする程度には大真面目に信じ込んでしまう、というようなことが事実として起きたりしているわけである。

それ自体がどうしようもない不見識だということは、しかしさておいて、今のわたしには、何がどうしてそんなこと(あっさり信じ込む)が起こりうるのか、そのことの方がよほど気がかりなのである。間違いは正せばいいと言ったって、こんな風にどんなデタラメでもあっさり信じ込まれてしまう可能性が常にあるのだとしたら、それはまったくキリがない話だということになるからである。

色々の話を総合しても、「水からの伝言」を信じ込んだ教師の人が特別にアタマがおかしい人だとか、そういう人だとは思われない。大雑把に言って普通の人の範疇に入るように思われる。そうだとすると、他人事だとは思わない方がいいということである。ニセ科学どころか「常識のウソ」のたぐいですらない、まったくのデタラメを普通の人が信じ込む可能性があるということは、理科系の専門家でも、その専門分野以外のことならそうしたことを同じようにあっさり信じ込んでしまうということは普通にありうる。それどころか、マーフィーの法則「起こる可能性があることは必ず起こる、というかすでに起きている」を適用すれば、現にいくつかそうしたことを信じ込んでしまっていて、たまたま日常生活や仕事にはさし障りが生じていないだけだとか、むしろそう考えた方がいいことである。

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複雑性の政治哲学(0)

2011年09月10日 | チラシの裏
題名だけがあってまだ中身がないのである。いや下書きはしているのだがあっちこっち抜けているので、つづまりのついた文章になるのかどうかも定かでない。これは予告である。そして予告で終わってしまうかもしれない予告である(笑)。ここ数日わたしはひどい憂鬱に苛まれていて、あれこれのことが全然捗らないのである。

面妖な題名だが別にトンデモなことをやろうとしているわけではない。もともとM・サンデルの「公共哲学」を読んでいたわけである。この本の内容を、わたしなりに語彙とか考え方を整理しつつ読解してみようということである。

なぜそんなことをするかというと、サンデル先生の本にはどれも「道徳」あるいは「道徳的価値」といった言葉がやたらとたくさん出てくるわけである。あるいは「コミュニティ」とか「共通善」とかである。ある程度わきまえた読者なら、これらの語彙も、またサンデル先生に典型的な論の運び方も、完全にアメリカの社会とその政治哲学の伝統を踏まえた上でなされていて、わが国の社会やその現実にそのまま当てはめてみようとしたって全然まったく意味をなさないような何かであることはわかるはずである。

昨年来のサンデル本の人気は主としてテレビ放送された、あの講義に発しているわけである。どうしてわが国の大学の講義はあんな風に面白そうではないのかという声は、わたしの日常の周囲でも時々耳にしたことである。そういう人達はだいたい自分が大学生だったときはのべつ講義で居眠りしていたので気づかなかったのだろうが、あの講義の背後には相当とんでもない数のスタッフと潤沢な予算があるわけである。そういうリソースを惜しみなくつぎ込んで、なおかつやっているのは相当にレベルの高い哲学の講義なのだから、人気が出るのは当たり前っちゃ当たり前である。

わが国の大学にはそんなスタッフもいなければ予算もない。あれをマネしてみろというのがそもそもできない相談なのである。仮にスタッフと予算があったとしても、哲学、それも政治哲学なんかの講義のためにそれをつぎ込もうという発想がそもそもありえないわけである。また、それをつぎ込む甲斐のある教師もいないのである。そのつもりで教師を養成してもいないことである。「いいからお前らはさっさとサルどもの脳をほじくり返す作業に戻るんだ」とかなんとか、文科省の役人が鼻先で嘲笑って言いそうなことである。

それはともかくとして、だから、テレビ番組を見て興味をもった人が改めてサンデルの著書や何かをひもといたとすると、「これの何がそんなに」という感じを必ず持ったはずである。まるで別の銀河系の話を読まされているかのようである。しかもその銀河系にはフォースもライトセーバーも超光速エンジンもない、ある意味では我々と何も違わない人間が暮らしていて、ただその政治社会的構成だけがまるっきり異質で我々の現実とはほぼ無縁な何かだとしか言いようがない何かなのである。そしてサンデル先生の講義はもちろん著書もそうした社会に特化した政治哲学なのである。講義はまだしもSWのように眺めることができたとしても、著書はそうはいかないのである。

じゃあM・サンデルの政治哲学とその議論には意味がないのか。少なくとも我々日本人がそれを読んでも読む甲斐はない何かだということになるのだろうか。わたしはそうは思っていない。思っていないゆえんを簡潔に言えば上の題名だということになる。

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9月のネッタイヤー

2011年09月09日 | チラシの裏
天気予報によると、どうやら今晩はわたしの住んでいるあたりは熱帯夜らしい。昼間も暑かったせいか、帰ってきてから冷房全開のまま停止する気配もない。

週末の間に書いてみようと思っているネタはあるのだが、この暑さのせいか今晩はやる気がしない。

微妙に世の中が静まり返っているような気がするのは、あれか、911の十周年で何か起きるのを待っているとか、そういうことか。週明けのマーケットが普段通りであってもらいたいことだ。というか月曜の朝とかが一番ヤバそうだな。

「世界は今週もひどかった。先週もひどかったがそれ以上だ。来週もまた一層ひどくなるのだろう」

そう思っているうちに十年が経った。いつまでこんなことが続くのだろうか。

All Apologies - Nirvana / from YouTube

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続・ひょっとすると

2011年09月08日 | チラシの裏
日本人の言語能力は(生得的かどうかはともかく)もともと弱い、という仮説を置いてみると、いくつかのことが明解に理解できるように思われる。

日常的な日本語の基本機能は情報伝達ということにはない。我々は何か意味のあることを伝えるために発語しない。それはおおよそ、ただ強化(reinforcement)のための発語である。何を強化するのか。常識それ自体である。改めて言わなくても、社会の中で常識とされていることのほとんどは言うほどの根拠などは、もともと何もないわけである。それはキーボードのQWERTY配列と同様、どこかでたまたま優勢になった見解にすぎない。この常識は日常生活の中で反復的に強化されることでのみ優勢を維持することができる。進化的な言語ゲームの状況のような図式を思い描いてみればわかりやすいだろう。

その常識は我々が事物を理解するための基礎である。それが何に由来しようと、よくよく調べてみれば思いっきり間違っていることであろうと、常識が確かであれば理解は確かになる。常識が間違っていれば間違った理解が確かになるということである。それは現実の上に倒錯的な悲劇を生み出すかもしれないが、悲劇に見舞われるのは悲運な個人かもしくはその集まりである。世の中の方は痛くも痒くもない。他人の悲しみを伝達する機能など日本語にはないし、あったところで我々にはそれを用いるだけの能力がないのである。我々の能力は確かな常識から確かな理解(のようなもの)を心のうちに作り出すことだけである。そのために重要なことは常識それ自体が確かなものであることだけで、そして本来常識に根拠などないから、それが確かだということを互いにひっきりなしに確認しなければならない。我々はただそのためだけに毎日飽きもせずおんなじようなことを喋っているのである。かくて我々の日常会話の大部分は、実際にはほとんど何も伝達していないのである。

日本語は論理的ではないと言われることの嘘と真実もこの観点から明解になる。実はそういう問題ではないのである。日本語で書かれた論理学の教科書はたくさんある。それが欧米語で書かれた教科書より内容や記述において特に劣っているわけではない。そうじゃなくて日本語は、その日常的な使われ方においてはほとんど何も伝達しないという著しい特徴を持っているのである。それはただ常識の強化のために発語される。その必要がないと思われるところでは何も語られないし、実際語る必要がない。阿吽の呼吸とか以心伝心などという。別に超能力があるわけではない。もともと理解は伝達された情報から生じるのではなく、常識から生じるのだからである。それ以外に必要なことは、せいぜい目くばせのような「同期信号」だけである。

日本語が論理的でないのではなく、この図式の上に論理のようなものはもともといらないのである。あったとしてもそれは、我々の日常意識の上に現実感をもたらさない。日本語で論理を記述することはいくらでも厳密にすることができる、けれどもそれは論理らしい装いを持てば持つほど、未知の外国語のテキストのように味も素っ気もない、何の現実感も伴わない記号の並びにしか見えなくなるのである。むろん大なり小なりどの自然言語でもそうなるのだが、日本語のそれが甚だしいことは、以心伝心をテレパシーなどと訳して驚愕している外人の顔を見るにつけ、どうも確かなことであるとしか思われないことである。

日本語が本来強化の機能しか持たず、そこに伝達がほとんどないことは、我々日本人は言語の相互伝達の上に共同性や対人関係を意識的に創出する能力をほとんど全然持っていないことを意味する。何かの不運や料簡違いでそこから外されたら最後、したがって、我々日本人はただ社会の中で孤立するよりほかにないことになってしまうのである。

実は今日はそれをどうにかする方法が正当に存在しうるだろうかと考えていたのだが、考えれば考えるほどまったく絶望的であるということしか判らなかった。常識の現実感から外されてしまったヒキコモリの人が「社会復帰」する途は、偶然のほかには何もないとしか思われない。根柢で言語能力が絡んでいることだから当然クスリも効かない。クスリでそれが治るのなら、英語の覚えがよくなるクスリだってあるはずだということになる。むろんそんな虫のいいクスリなどない。ヒキコモリのままどうにかして生きて行く方法を自力で編み出すよりほかにない。我ながらひどい話だが、今のところわたしには希望も展望もまったく見出せない。

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EWTRTW(5)

2011年09月08日 | チラシの裏
もうひとつ考えてみなければならないのは3日ほど前に書いた「仮説」である。そのひとつはこういうものであった。「物質の秩序からエネルギを取り出すためには物理法則に沿ってそれを取り出さなければならない。同様に人間の秩序から収穫を取り出すためには別の原理に沿ってそれを取り出さなければならない」。

富ということが考えられるどのような社会においても富の差は存在する。それまで存在していなければ早晩生じる。その格差※のあり方にはひとつの、きわめて著しい、共通の特徴がある。それは全体にベキ乗分布をなすような格差であるということである。よく格差の甚だしさということを、「全体の富の大部分が上位のほんの何%かによって占められている」という言い方で表現する。そうした表現が妥当な事柄の様子をベキ乗分布と呼ぶと思っていればだいたい合っているはずである。

  ※【豆知識】この「格差」に対応する英単語はない。

富の分布がなぜベキ乗分布になるのか、そしてそれがほとんどどんな社会においても普遍的に見られる特徴なのかということの、本当の原因は判っていないというべきである。判っているのは現実にそれがあって、しかもたいていひどく甚だしいということである。判っているのはそれだけだ、というのは、それだけは判るから最下層がのべつ割を食わされる格好になるのを防ぐために再分配ということが行われる。理屈の上では、再分配は完璧に、完全に平等にすることさえ不可能ではないわけだが、そうはしない、もしやるとかえってひどいことになるということが経験的には知られているからである。そして経験的にそうだという以上の根拠は誰も示しえていないのである。

それは少しも自明のことではない。そうした格差を正当化したい論者はしばしば努力ということを言うわけだが、努力ということは結果のベキ乗分布を正当化しない。たとえばいま仮に学校の数学の試験の点数が大雑把に努力(勉強)の量に比例していると言えるものとしよう。そうすると出現する分布はほぼGaussianである。ベキ乗分布はまったく違う。百点満点がひとり、場合によって50点前後のがもうひとりいるかいないか、残りはほとんど赤点以下である。それが典型的なベキ乗分布の状況である。

もしわたしが(反事実的に)真面目な数学教師で、試験結果の得点分布がベキ乗分布になったとしたら、この結果は個々の生徒の努力(勉強)の結果をまったく反映していない、と直ちに断定するだろう。それはおそらく彼らの親の収入か何かが、意図しないうちに結果に反映されてしまうような、問題文がそうなのか、教科課程の構成がそうなのか、そういうものになってしまっているのだと見なすだろう。そして(そういう影響を取り除くように試みて)何度やっても同じ結果が出てくるとしたら、数学を教える方法として教師という方法はまったく不適で無意味で不可能だと判断して職を辞するだろう。真面目な数学教師ならば、である。

経済格差が個々人の努力を反映している、あるいは反映させるべきだというなら、あんな巨大な格差は生じないし、自然には生じないのなら補正しなければならないのである。そしてもし本当にそんな補正をやったとしたら、その社会は深刻な経済的停滞にさらされるか、どうかすると社会として崩壊してしまうことになるだろう。努力モデルは二重の意味で正しくないのである。

このgapをうまく説明できる理論形式が作れたら、それはそれで立派な理論経済社会学の成果になるはずである。その形式に沿って再分配ということを(社会哲学として)考えたり、場合によっては評価したり改善したりすることの政策に理論的背景を与えられるかもしれないことである。



ちなみに、べき乗分布ということは、それ自体から何かを具体的に演繹する根拠にはなりにくいものだという点は注意が必要である。つまり、それらはあまりにもありふれてあるものなので、ある分布がその形をしていることの原因を同じ分布を持つ現象の中に探ろうとしても、そのような例はあまりにもありふれていて、たくさんありすぎるわけである。たとえば有限な物体をランダムに砕いた破片の大きさの分布はべき乗分布になることはよく知られている。大きな破片がいくつかと、あとはホコリのような無数の細かい破片になるわけである。壊れる方ばっかりでもなく、生物のサイズと個体数の分布もそうである。こちらの方は明らかに生態系がそのように作り出されるわけである。

複雑性研究の歴史においては、このべき乗分布ということそれ自体に何かの意味を見出そうとする研究が、実際、繰り返し現れてきた(たぶん、これからも時々現れるだろう)のであるが、これまでのところはそれに成功したと広く認められるような結果は知られていない。いろいろ調べたがそれはどうも無理くさいということの方が成果だと言った方がいいくらいである。実際、それはそれで、さんざん調べられてきた結果として初めてそう言えることだからである。

「1/fゆらぎ」という言葉を覚えている人ならいるだろう。自然の風の強さの分布がべき乗分布の一種である1/fゆらぎの特徴を示すというので、その分布を模倣するように風力を時間変化させるセンプーキが売られていたりした。何がいいと思われていたのか知らないがそういう製品が実在したのである。思えば牧歌的な時代であった。

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不思議なもんだ

2011年09月08日 | チラシの裏
反(脱)原発の論議でわたしなどをいたく落胆させた武田邦彦センセイが今度はタバコのみを擁護するような議論をやっているらしい。それについては特にコメントしないしリンクも張らない。興味のある人は検索すれば見つかるだろう。

わたしの場合、喫煙は個人の習慣だと思っている。多少健康にいいとか悪いとかいう理由でやめたりやめさせられたりする謂れはない。そんなのは無関係だということだ。つまりデータを挙げてどうこういうのはこの観点からは全部ナンセンスだから、議論の趣旨が擁護だろうとそうでなかろうとわたしがコメントするには値しない、ということになる。

それはともかく、武田センセイはこうしてみるとたいていのことではだいたいまともなことを言っているわけである。時々は変だが、温暖化詐欺に抵抗してひとり論陣を張ったりしていた人である(あれに比べたら原子力発電を擁護するくらいのことは、もとより賛同者もずっと多いことで、ある意味どうってことではないくらいのことだとわたしには思える)。ああいう議論を公開された形でやるのがどれほどしんどいことか、それが判らないわたしではない。ほとんど気が狂いそうになるほどの目に会わされたのに決まっている。だからそういう人が時々変なことを言ったりするくらいは気にしない。そうは言っても、あの反(脱)原発の議論ばかりはそれを措いてもなお落胆しないわけには行かなかったことである。



全然関係ないけど、最近わたしが思うようになったところでは、いまどき反(脱)原発などと言ってる人たちはつまり、左翼テロというよりは、わが国の維新前後にたくさんいたところの「攘夷派」というやつではないのだろうかという気がしてきた。福島の事故は言ってみればアメリカではなく大自然から突きつけられた「不平等条約」みたいなものだということだ。

その見立てが合ってるか違ってるかは実はどうでもよくて、むしろ言いたいのは、俺みたいなのはだから「開国派」で、不平等条約をどうこういうより先に「富国強兵」だ、欧米列強からいいようにあしらわれ続けたくなかったら強くなるしかないのだと言っているようなものだということになるわけである。

富国はともかく「強兵」の方に引っ掛かるという人のために言っておけば、わたしは今般の震災後における自衛隊の活躍(と言っていいと思う)をこれ以上ないくらい高く評価しているひとりである。わたしに言わせればそれはいわゆる戦争とは逆の順序で進行する、大敗北から始まって勝負なしで終わる「『反』戦争」だということになるし、それを戦い抜いた自衛隊は憲法の名において誇ってよい、世界に冠たる「『反』軍隊」なのである。つまり、戦争の反対を平和と呼ぶのなら、震災後においてわが自衛隊は世界で最も積極的に平和に貢献したのである。これを評価しなかったら平和主義の名が泣くというものである。

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EWTRTW(4)

2011年09月07日 | チラシの裏
我々は確かに世界をその手に取って振り回したい何者かであり、また少しずつ振り回せる範囲を拡大しているもののように思える。

けれども本当は騙されているのかもしれないということは、時には疑ってみた方がいいことだ。大気圏外から地球を撮影した写真を見ると誰でもすぐに気づくことがある。そこに生き物らしきものは何も映っていない、ということである。静止画でなく動画像として見ても同じである。そこにあるのは変な色した海と陸地と雲で覆われた球体にすぎない。我々は実際その上に住んでいるので、普通はそんなこと思いも寄らないわけだが、ここで改めて思い出してみるか、それらしい画像や映像を眺め返してみてもらいたい(インターネットで探せば、タダでいくらでも見つかるはずである)。そう見えてくるはずである。

そんな風に地球の画像を眺めていると、自分を含めた全人類の営為のすべてがまったく下らない冗談か何かのように思えてくる。我々は自分の心の随伴現象説や消去主義のようなものなら、それをたやすく一笑に付すことができる(そんなイカレポンチな考えの表明は、いったいぜんたいイカレポンチな哲学者の心に発するものでないなら、それは何から引き起こされるんだ?)。けれども、このマクロな地球の像は、そこに住む我々の心どころではない、人類を含めたあらゆる生物の営みのまるごとすべてに関する随伴現象説や消去主義を示唆してくるわけである。地表からほんの数百キロ離れるだけで哲学そのものがまるごと消去されてしまうかのようだ、ということである。哲学を前提としながら哲学を含む心を消去することはできないが、哲学まで含めてまるごと消去されたら、これはまったくどうしようもないことである。

けれども、と思い直す。そうは言っても、そもそもそのような画像や映像を撮影し、目で見てわかる形でそれを再生表示することを可能にしてきたのもまた我々の文明である。しかも我々の方は、物理的にはただのインクの染みや液晶セルの偏光状態の組み合わせにすぎないものとして表示されているそれらから、それが紛れもなく地球を大気圏外から眺めた場合のその様子をほぼ正確に再現している画像ないし映像であるという意味を受け取る(理解する)ことができるのである。そう、実のところこれは「我思うゆえに我あり」を人類文明に拡張したワイド版なのである。さらにこれは、我々自身の存在が閉じた(closed or compact)存在ではないことの証明でもある。我々の存在はもともと宇宙全体に向かって開かれた(open)ものであって、だからこそ上述のことが理解できるし、それだけではなく、そこには十分な現実感が伴っているのである。

Planet Earth - Duran Duran / from YouTube / EMI Channel

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EWTRTW(3)

2011年09月07日 | チラシの裏
「承認欲求とか名誉欲とか」から続けてこれが3つめ、ということで上は(3)である。

EWTRTW(everybody wants to rule the world)というのは正しい、と思うわけである。

もっと言えばこの場合の世界とは宇宙のことであるはずだ。物理で宇宙というところを哲学では世界というわけである。すこし正確に言えば、全世界とは何のことだと問われたら、物理で言う全宇宙のことだということになる。ただし、部分世界に対応する部分宇宙は一般に存在しない(決定可能でない)。両者が一致するのは「全体」の場合だけである。もっとも、さらに言えば、全体という形容が成り立つのは、また外から等号を置くことができるのは、それが閉じていればの話である。それは閉じてはいないかもしれない、というか閉じていない、ということから始めた倫理学的考察がレヴィナスの「全体性と無限」であろう。それはまた別の話である。

人間の意識というのは際限なく認識を拡大して行く宿命を帯びているように思える。なんでかと言ったら、それを操るためには対象を対象として把握し、さらにそのハンドルを見つけて、それをしかと握りしめなくてはならないからである。それが目の前にあるものであれば直接に自分の手で、がっちり掴んで好き勝手に振り回せばいい。食べ物ならば食らいつけばいい。だが世界の大部分はそうではない。普通に「身の回り」というよりもずっと大きな世界が存在する。どうしてそれが判るのか。どうしてかはともかくそれは判る、その判り方を素朴な(始原的な)正義と呼ぶことができる。そんなこと知りたくなくてもそれらしきものは存在するようであって、我々に、その存在の瞬間ごとに脅威を及ぼしているからである。その脅威は文字通り脅威である一方、それがなければ食べて寝るだけで満たされてしまうはずの我々の欲望を、あらゆる方向に際限なくかきたて続けるのである。

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ひょっとすると

2011年09月06日 | チラシの裏
我々日本人はもともと(あるいは、ほとんど生得的に)言語能力が低いのではないだろうか。

生得的に、は言い過ぎかもしれないのだが、チョムスキの言うことを信用するとすれば言語能力はそもそも生得的なところを持っている。言語能力そのものがDNAの塩基配列とか、脳神経結合のトポロジで記述できるというようなバカ話に帰着するような話でなければ、ハードウェアの特徴が、機能として見られた場合の心的現象の特徴に非決定的(あるいは非法則的)な影響を与えうる可能性は排除されない。要は我々日本人が遺伝的にアセドアルデヒド分解酵素を多く持たない(人によってはほとんどまったく持っていない)ために、世界中でも稀有なほどのアルコール耐性のなさという特徴を持っていたりする、それと同じことが言語能力においても、あってもおかしくないということである。

どうしてそんなことを考えるかというと、例によって伝達能力とかその障害といったことを(通勤電車の中で)考えていたわけである。で、それを考察している時によく一緒に紹介している某マンガ作品の主人公のことをぼんやり思い浮かべていた。そうするうちにふと、「この作品はつまり、何かの間違いで外国語の社会に放り込まれ、そこで生きることを余儀なくされた人の日常の話だと思えば、この主人公の奇矯とも思える振る舞いのほとんどは誰でも容易に理解できるし、共感さえできることなのではないか」と思えてきたわけである。

どうしてそれが日本人一般の言語能力の低さということにつながるのかというと、伝達能力が低いとか障害されているとか、近頃では専らそう言うわけであるが、これはそう呼ばれるようになる以前には専ら対人恐怖症(これはこれで、必ずしも妥当な呼び名ではなかったから廃ったのだが)と言ったわけである。そしてその種の神経症状は、昔から、なぜか日本人にだけやたら多い典型的な症状だと言われてきたわけである。それは「対人」的な能力の障害であるというよりは、ある種の言語能力の障害なのではないだろうか。

どうしてそう思うか、は、件のマンガの主人公の振る舞いがわたしの何に一番よく似ているかと言ったら、わたしの英語能力のそれに一番似ている気がするからである。自分ではそれを「英語味覚障害」と言ったりしている。

どういうことかというと、英語能力それ自体は訓練すればそれなりに身につく。だが身についても、その能力を使うこと自体がどうやってみても「楽しくない」わけなのである。それどころか非常な苦痛を伴う。訓練してある程度の英語力を身につけ、辞書片手に真剣にやれば、たいていの英語文は読めるし、だいたい正確に理解できるようにもなる、けれどもそれはいくらやっても苦役なのである。

このblogの「THN和訳」などは、出てくる訳文を読む限りは「ひどく気楽にやっているな」と思う人もいるだろうが、本当はそうじゃないわけである。英文和訳をするという場合、ほとんど無限の気楽さを自分に対して許容した上でなければ、それはあまりにも苦痛でやっていられないのである。3行訳しちゃあ3時間別のことして遊んで、くらいのことは、気まぐれによっていつでもやっていい、ということを自分に許した上でやって、ようやくできているわけである。

要は味覚障害の人が何を食べても口の中に砂を押し込めたような感じしか持てないように、わたしなどは英語文をどんな風に眺めてもアタマの中に砂を押し込めたような感じしか持てない。たったいま自分で訳した結果の日本語文を自分で読み返して、ようやくそこに冗談が書かれていることに気づいて笑ったりするのである。訳している最中は気づかないのかと言って、それどころじゃないわけである。訳している最中のわたしのアタマの中は、後から後から押し寄せてくる土砂崩れと格闘しているようなもので、そこに書かれた冗談などに気づくような余裕などないのである。

同じ特徴が実は「伝達能力」と勝手に呼ばれている種類の対人能力についてもあるのだとしたら、それは普通の意味での言語能力とは違うけれども、それとよく似た性質を持っている人格的な能力で、発達段階のある時期までにそれを発達させ損ねたら、以後どうやってもまともには身につかない種類の能力なのかもしれない、ということである。発達の仕方は個人差が大きいとしても、日本人の間で同じような種類の対人能力の不全や障害が統計的に多く見られるとしたら、それは個人の料簡の問題でもなければ大小さまざまな社会組織構成の問題でもなくて、ひょっとすると生得的な、さらにひょっとすれば遺伝的な特徴に起因することかもしれないのである。

もちろん、以上のすべてはただの思いつきである。

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投げやり

2011年09月06日 | チラシの裏
啄木の歌でいうなら「どうなりと勝手になれといふごとき」わがこのごろを、である。

もっとも、この歌は「ひとり恐るる」と続くのだが、今のわたしに自分を恐れる感情はそんなにない。とっくの昔に世の中の方がこれだけ恐ろしいことになってしまっているわけである。どっちか言えば、いまわが国で最も恐ろしくないのはこの自分だという気さえしている。このblogのアクセス数を増やすためにも、もう少し恐ろしいことを書くべきなのかもしれないが、どうもわたしには恐ろしいことを書く才能がないのである。

世の中の方も自分の方も、手の施しようなどはもうないのかもしれない。いや、確かにないのだろう。

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Everybody Wants To Rule The World - Tears For Fears

2011年09月05日 | チラシの裏
from YouTube

以下は「承認欲求とか名誉欲とか」の続きである。ある意味ひどく生臭い話なので、題名の割には爽やかな動画を先に置いてみた。

自由ということについての感覚が人によって違うということは考えにくい。呼び名や捉え方は人によってさまざまでありうるとしてもである。にもかかわらずわたし以外の人が名誉とか承認の欲望を強くもつのはなぜなのか。自由において明らかに後退することになってでも名誉を、社会的承認を求める人は確かにたくさんいるわけである。

ひとつのもっともらしい考え方は投機ということである。自由を棚上げにしてでも名誉を獲得することが、棚上げにしたよりもずっと大きな自由を獲得することにつながる可能性があるということである。いかにもそんなことはありそうだが、そうだとして、どうして最初に自由を掛け金か何かのように支払わなければならないのだろうか。

名誉とか(承認によって授けられるところの)権利といったものを乗り物のハンドルのように考えてみる。ハンドルは通常ひとつしかない。仮に複数あったとしても、ごく少数しかない希少な何かである。それは操縦者の意志に沿ってこの世界を振り回す(と同時に世界から振り回される、と、マルクスなら註をつけるところだろう)ためにあるのだから、希少でなければハンドルの用をなさないわけである。

承認ということは実際、通信におけるアクノリジ(確かにこの語は訳せば「承認」である)のように考えるべきなのかもしれない。つまり遠隔対象を操作するハンドルを取得するためには、まず外界に向かってリクエストを投げなければならない。そしてアクノリジが返ってきて初めて通信路が開かれ、接続が確立し、そうなって初めて遠隔対象が操作できることになるわけである。

人間の社会的行為においてこのアクノリジは当然ながらそう簡単に返って来ない。そして通信の場合、そうした困難な接続が確立したときの喜びは非常に大きなものがある。今ほど回線接続が簡単でなかった時代(すっげー昔だ)、PCとモデムと電話回線を接続し、接続要求コマンドを叩いて(だいたい何度か失敗する)、ついに所定の応答が返ってきてログイン・プロンプトが表示されたとき、思わず「やったぞ!」とガッツポーズを取ったことのある人は(まだ生きていれば)多いに違いない。この喜びから逆算してそれがあったことにされる欲求のことを承認欲求と呼ぶのではあるまいか。

こんな風に考えてくると、名誉や承認の欲望を持たない自分の方がよっぽど異様に思えてくる(笑)。

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唐突にいくつかの生臭い仮説

2011年09月05日 | チラシの裏
外界に対して物質の秩序に沿って指令しても物質の状態変化が生じるだけで収穫はほとんど得られない。大きな収穫を得るためには人間の秩序に沿って外界に指令しなければならない。

お金は物理法則では動いていない。何かの法則で動いているとしても、その法則は物理法則ではない。物質の秩序からエネルギを取り出すためには物理法則に沿ってそれを取り出さなければならない。同様に人間の秩序から収穫を取り出すためには別の原理に沿ってそれを取り出さなければならない。

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付記

2011年09月05日 | チラシの裏
以下は「高速哲学入門(268)」のおまけである。

(268)でも書いたように、我々日本人から見てアメリカという国に一番驚かされることは、その多様性ということもさることながら、多様な人々のそれぞれがさしあたってコミュニティを作ろうとして作ってしまうことである、と思う。わたしは中学生のときに「つくるコンピュータ」という本の内容より先に題名に感動して計算機屋になったようなものだが、その「つくる」という動詞の奥深い含意がそこにあるというか、やっぱりPCというのはアメリカ人が作ったんだよ、とは、今もって思うことである。

コミュニティを作ると言って、ただの仲良しクラブを作るのではなしに、(268)でも強調したようにそれは「有料」なわけである。それもお賽銭程度の有料ではなく、組織集団の維持運営に携わるスタッフが生活を維持していけるという意味で根拠のある有料なのである。パートタイムのスタッフは別に稼いでいるとしても、集団がある程度以上に大きくなれば常駐スタッフはどうしても必要である。そしてそこまで来れば組織が営利企業の形態に移行するか、非営利組織にとどまるのかは、単に組織集団の意志と選択の問題にすぎないことになる。

昔からよく「日本人は情報に金を払おうとしない」と言って批判する人がいるわけだが、あれは嘘っ八なわけである。情報はもとより無形のものに対して普通の人は個々人としてはそう簡単に価値を認めてくれるものではない。実際それは、虚心坦懐に眺めてみれば、あちこちインクの染みがついた紙だったり、せいぜい不思議な色と模様のついた円盤でしかない。それが難しいのはどこの国だって大差はない。実際、ソフトウェアの違法コピーを「海賊行為」と呼んで取り締まりに躍起になったのは世界のどこよりも先にアメリカだったわけである。マイクロソフト社の歴史は同社の最初の製品だったBASICインタプリタが発売された時に始まったのではなくて、それがタダでコピーされまくっているのに業を煮やしたビル・ゲイツが「てめえら払え!」という問題提起をした時に本当に始まったと言ってもいいくらいではないだろうか。

少なくともアメリカの場合、本当のところ(多様な)社会の最小単位はコミュニティで、それが実は価値の源泉であり根拠である、ということになっているのではないだろうか。だからどうしようもないキリスト教原理主義のコミュニティでさえ、それがコミュニティとして成り立っている限りはそう簡単に存在ごと退けるということができないわけである。それを排除することが正当化されるなら、本当はアメリカの何も正当化することができない、というくらいに。

急いで註をつける。さも判ったかのように書いているが、本当は全然判らない話なのである。マネしろと言われたって、少なくともわたしはできそうな気がまったくしない。我々日本人にとってコミュニティ(共同体)というのはよかれあしかれそこに「なぜかは知らないが昔からある」もので、「意識してつくる」ものだという歴史を持っていない。少なくとも茶番でない実質のあるものとして作り出してきた歴史は持っていないのである。

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